1-6
まだ日の高いうちにマシロは自室に帰ってきた。
暗幕で外界から隔絶された部屋は、今が昼なのか夜なのか曖昧にさせる。マシロは玄関で靴を脱ぎ、そのまま服も脱いでバスルームに直行した。
少し熱めのお湯を頭から浴びながら、一日の汗を洗い流す。このまま先ほどの嫌な気分も流れててくれれば良いのにと思うが、悪いものという奴は粘着質で中々落ちないと相場が決まっている。
心の内側にこびりついた黒い感情が、シャワータイムの邪魔をしている。
マシロは自分が狭量であると自覚していた。サエコの事も、ギャラティカルセブンの事も、その他世の中のあれやこれやも、気にしなければいいのに。それらを一々取り上げて自分と比較していてはキリがない。
道行く人たちの一々を指さして「あの人は私より優れているから、眼を合わせないように通り過ぎよう」「私はあの人より劣っているから、道を譲って首を垂れよう」等と考えていては、ただ道を歩くこともままならない。
だが、マシロはそれをしてしまう、考えてしまう。名前も知らぬ、何処かの誰かと自分とを比べて、しようもない嫉妬心を抱いてしまう。それが彼女の性分であり、彼女を一戸マシロたらしめる根幹であった。
シャワーをサッと済ませ、マシロはバスルームを出た。汗を流してサッパリしたが、気分は晴れない。こういう時は酒を飲んで忘れるに限ると、缶チューハイを開けた。腰に手を当て、グイッと一飲み。
「ぅあぁ、生き返るぅ」
乾いた体を駆け巡るアルコールに、マシロは情けない声を上げた。彼女はそのままベッドにダイブ。ベットの淵から頭を出して、器用に缶チューハイを飲む。
マシロはスマートフォンを手に取り、動画配信サイトを開いた。彼女はニュースや時事系の動画を視聴することはない。気分が悪くなるからだ。観ているのはミュージックビデオや可愛い動物を取り扱ったホームビデオなどだ。
オススメに表示された子猫のサムネイルをタップする。フワフワころころした愛らしい子猫の動画を肴に、缶チューハイを飲む。子猫の姿は万病に効くというのが、マシロの持論である。
と、スマートフォンが震えだし、電話の着信があったことを告げる。液晶画面に映し出された名前を見て、マシロは目を見張った。
『アカネ姉さん』
上体をガバッと持ち上げ、慌てて着信ボタンを押した。
「も、もしもし……?」
『あ、マシロちゃん? 久しぶり、元気にしてた?』
通話の相手は一戸アカネ。マシロの実姉にして、マシロの人格形成の基盤となった人物だ。
◇
一戸アカネは幼少の頃より、努力家であった。目を見張るような才能こそ無かったものの、そのひた向きな努力の才能で勉強もスポーツもそつなくこなしていた。
小学生の時分から成績が良く、学級委員長などの要職にもついていた。それは中学、高校、大学と続き、先生だけではなく同級生からの信頼も厚かった。
大学卒業後に看護師の資格を取り、現在は地元の大学病院に勤めている。頭脳良し、器量良しと、地元では評判の孝行娘だ。
そんな姉の背中を見て育ったのがマシロであった。
彼女は周囲からの羨望を集める姉に尊敬の念を抱いていた。一戸アカネの妹ということで、周囲の人間もマシロに期待を寄せた。マシロはマシロで憧れの姉に追いつこうと、スポーツに勉強、習い事にとなんでも挑戦をした。
幼少期から不器用ではあったのだが、たゆまぬ努力の甲斐あってそれなりの成果を上げていた。
しかし、彼女は常に姉と比較され、その成果を正しく評される事はなかった。表面上はマシロの事を褒め湛えてはいるが、言外に期待外れであったという蔑視の念を感じていた。幼少期のマシロは、彼女にかけられる落胆の溜息の幻聴に悩まされていた。
そして、思春期のある日、マシロの中で何かがプツンと切れた。
頑張っても苦労しても報われずに蔑まれるなら、何もせずに怠惰に過ごして蔑まれた方がマシだと思う様になったのだ。
その日から彼女は努めて何もせずに過ごした。コミュニティから距離を置き、自分の殻に閉じこもって外界を拒絶した彼女に、周囲の人間は次第に波が引くように離れていった。
誰からも期待されない孤独に、マシロは居心地の良さを感じた。そう思うようにした。
そんな中、姉のアカネだけがマシロの傍に居た。アカネは妹が孤独に走った原因が自分にあると思っていた。彼女は実妹にあらん限りの愛情を注いだ。
テスト前には自身の大学ノートを引っ張り出してきて勉強を教え、球技大会が近くなれば放課後に近所の市民体育館に連れて行って練習をし、友達と出かけると聞けば洋服を見繕ってメイクの手解きをした。
アカネが献身的であればあるほど、マシロは自分の矮小さを認識してさらに居たたまれなさを感じていた。事ここに至っても、彼女は姉を愛していた。
愛していたから、実家を出て距離を置いた。愛する姉を、これ以上憎まなくていいように。
そんな妹の想いを知ってか知らずか、アカネはこうして定期的に電話をかけてくる。
「ああ、元気だよ。うん、元気だよ」
マシロの心臓はバクバク。呼吸も細くなって、声は上ずっている。酔いは完全に醒めていた。
『良かった。しばらく声聞いてなかったから心配してたんだよ。たまにはマシロちゃんから電話かけてほしいな』
「う、うん……そうする、たぶん、きっと」
それから、アカネは一方的に話をした。最近は仕事が忙しくなってなかなかまとまった時間が取れない、父さんが腰を痛めて一週間ほど仕事を休んでいるけど母さんは嬉しそうだ、見たい映画があるけど地元の映画館では上映してないから東京が羨ましいなど、内容は他愛のない日常会話だ。
傍から見れば仲睦まじい姉妹の会話であるが、マシロにとっては息が詰まることこの上ない。アカネが郷里の話を楽しそうにすればするほど、東京で独り鬱屈とした生活をしている自分を嘲っているように感じてしまう。
勿論、姉にそんな意図は無いということは、マシロは承知している。そう考えてしまっている、自分自身が許せないのだ。
『私ばっかりお話していてゴメンね。マシロちゃんの方はどうなの? 就職活動は進んでる?』
何もやっていません、ニート生活を満喫していますとは言いにくい。
「就職活動? ああ、ええーああー、順調だよ、うん、順調……」
順調なものか。二年間も親の仕送りに頼り切りな生活をしていて、そう簡単に就職先が決まるはずがない。あまりにも稚拙な嘘と誤魔化しをした自分に、マシロは嫌悪感を募らせた。彼女は自分の心の内側にこびり付いた黒い感情が、ジワジワと広がっていくのを感じていた。
『そう、それならいいんだけど。あのね、私が勤めている病院で、事務の募集をかけているの。一般事務だからね、資格を持っていなくても出来るのよ。フルタイムじゃないから、お仕事しながら医療事務の勉強して、そこで再雇用してもらえばいいと思うの。どうかな、考えてくれないかな?』
なんと魅力的な提案だろうか。この姉はまだ病院に勤めて間もないというのに、まだ仕事にも不慣れだろうに妹の就職の心配をしている。
だが、
「姉さん、折角だけど、その、あの、へ……返事待ちの、とこもあるから。その、そっちを断るのも申し訳ないし……」
マシロはその提案を断った。理由は簡単だ、アカネと同じ職場に居れば、また比較されるだけだと考えたからだ。
『そうか、そうだよね……』
残念そうなアカネの声色に、胸が締め付けられる。自己嫌悪から、マシロは自分の心の中に黒くてドロドロとした感情がさらに溜まっていくのを感じた。
『マシロちゃん、頑張ってるもんね。ギターの方はどう? この前ライブハウスで演奏するって言ってたけど』
「へ? ギター?」
数時間前に売ってきて、そば代に消えましたとは言いにくい。しかもライブハウスで演奏するなど、随分とふかしたものだ。マシロは何時かの自分を呪った。
「ああ、あれね、ああ、うん、良かったよ、うん良かった。かなり盛り上がったよははは……」
『はは、そうか……』
言葉を重ねるたびに、黒くてドロドロしたものが溜まっていく。下らない見栄とプライドから生み出される嘘と誤魔化しに、自分が薄汚れている感覚に襲われる。耐え難い苦痛がマシロを襲い、それが声色に表れる。
『ねぇ、マシロちゃん。嘘、ついてない?』
見透かされている。アカネの言葉に、マシロの心の黒い感情が溢れそうになる。マズい、抑えないと。考えとは裏腹に、ドロドロは湧き出てくる。
『マシロちゃん、怒らないから正直に言って。本当はあんまり状況が良くないんじゃないの? お父さんもお母さんも貴方の事を心配しているのよ? もし、そっちで困っているんだったら』
「なんでそんな事言うの?」
マシロの心から、黒い感情が溢れだした。
「私が嘘ついてるって、なんでそんな事言うの?」
『あのね、マシロちゃん聞いて』
「嘘だって分かってて調子を合わせてたんだ。耳障りの良い言葉を並べて、私の事を笑ってたんだ」
『お願い聞いて……』
「昔からそうだった。姉さんはいつも私に優しくて、でもそれも結局妹に優しくしている自分に満足したいだけだったんだ。姉さんと比べられて私は」
『マシロちゃん!』
アカネの悲痛な叫びに、マシロは正気を取り戻した。自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。私は今、何を言ったんだ。
「あの、姉さん、私……」
『また今度、電話するね』
最後に小さくごめんねと言って、アカネは電話を切った。しんと静まり返った部屋の中、マシロは暗闇に同化するように息を殺していた。気が付けば、手が震えていた。先ほど自分が姉に言った言葉を思い返し、反芻した。
そして、マシロは手に持っていたスマートフォンを向かいの壁に投げつけた。
「ああああああああああああ」
マシロは髪の毛を掻きむしり、あらん限り叫んだ。それは叫びというよりも、悲鳴だった。
黒い感情に流されるままに、アカネに心にも無い事を言ってしまった。姉さんはただ自分を心配してくれているだけなのに、優しい言葉をかけてくれているだけなのに。
自分はどうしてこうダメなんだ。自己嫌悪に押しつぶされ、マシロの悲鳴は止むことがない。
と、「ドンッ」という鈍い音が響いた。金切り声に我慢ならなかったのか、隣人が部屋の壁を殴りつけたのだ。
その音に、マシロはビクンと体を震わせ、音の鳴った方の壁を睨みつけた。
自分は、なんで壁を殴られたんだ。自分がこんなに苦しんでいるのに、もがいているのに、何も知らないただの隣人にぞんざいに扱われなければならないのか。
先ほどまでマシロの心を侵していた負の感情は、今や顔の見えぬ隣人に一心に注がれていた。完全な逆恨みであるが、それを自覚できるほど今の彼女は冷静ではなかった。
マシロは勢い良く立ち上がった。部屋を横切って台所へ、水きりに置いてあった三徳包丁を手に取った。
そして裸足のまま玄関を飛び出し、隣の部屋へ向かった。鉄扉の前に仁王立ちするとドアノブに手をかけ、勢いよく回した。
もしこの時、ドアに鍵が掛かっていればマシロの運命は変わっていたのかもしれない。しかし無情にもそこにカギはかかっておらず、ドアは何の抵抗もなく開いた。
マシロはドアを開けてドカドカと室内に上がりこんだ。部屋の奥から「なんだ?」という、男性の驚く声が聞こえたが足を止めない。マシロは包丁を握る手に力を込め、部屋の入口にかかっていたドアカーテンを払いのけた。
そこには、全身が赤黒い甲殻で覆われた、成人男性くらいの大きさのザリガニが座っていた。
マシロの隣に住んでいたのは、怪人ザリガニ男だったのだ。
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