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息も絶え絶え、マシロはようやっとの思いで帰宅を果たした。
万年引き籠りでろくに運動もしていないのに、KUDOUベーカリーから自宅まで羞恥心に駆られて全力疾走をしてしまった。急に動いたものだから、体の節々が、内臓までもが断末魔の叫びを上げている。
「ぜぇ、ぜぇ、はぁ……オエェ」
時々嗚咽を漏らしながら、マシロはなんとか呼吸を整えた。
部屋中に転がった空き缶やら空きペットボトルに躓きながら、おぼつかない足取りでベットにたどり着いた。マットレスに体重を預け、ようやく一息ついた。
マシロは右手に持ったパンの耳が詰まった袋を置こうとして、その手を空中に彷徨わせた。物を置くスペースが無い。マシロは改めて自分の居室を見渡した。
まず一番目につくのは、壁一面を覆っている遮光カーテンだ。マシロが就職を諦め、ニートになった際に、日光に邪魔されずに惰眠を貪る生活を実現するために買った物だ。
分厚くて重たい布が、部屋の中に暗闇と圧迫感を与えている。
次に目に付くのはギターケースや電子ピアノなどの楽器、カンパスを立てかけるためのイーゼルなどが積み上がったガラクタの山だ。これは暇を持て余したマシロが動画投稿サイトなどを見て、自分もやってみようと手を出して購入した品々だ。
何かの間違いで才能が開花したら、自らも動画投稿サイトに作品を挙げ、広告収入で生計を立てようという下心で色々なものにチャレンジしたが、いずれも芽を出すことは無かった。儚い夢の残滓と化したそれらは、居住スペースの約半分を占有してえいる。
残り半分のスペースにはマシロが実家から持ってきた、使い込まれた四角い座卓と、ベットが置かれている。これが彼女の生活スペースの全てである。
その他、家具と家具との間の生活導線には、空き缶やら空きペットボトルやらが無造作に転がっている。
「片付けよう」
マシロは思った。
ゴミ袋を広げ、空き缶とペットボトルを放り込んだ。パンパンになった袋を、とりあえず玄関前に積み上げた。久しぶりに顔を出したフローリングの床に掃除機を走らせ、フロア用ウェットシートで磨いた。
元より家具で塞がっていない床がほとんど無いため、掃除は物の数分で終了してしまった。不要なガラクタの処分は、未来の自分に一任した。
ゴミを片付けたことによって、ようやくパンの耳を置くスペースが確保できた。マシロは座卓の上にパンの耳の入った袋を置き、台所からラップフィルムを持ってきた。それからパンの耳を一日分づつ取り分け、それぞれをラップで丁寧にくるんだ。これらを冷凍することによって、長期保存することが可能なのだ。
先月から冷凍している分と併せて、冷凍室いっぱいになったパンの耳を眺め、マシロはうっとりとした表情を浮かべた。その顔は、幼子を見守る慈母の様であった。
この冷凍パンの耳が彼女の主食であり、来月の仕送りまで命を繋ぐ生命線となる。これだけあれば十分に生きていける。マシロは満面の笑みで、冷凍室の扉を閉めた。
「私、なにしてるんだろう」
その言葉は、全くのふいに、唐突に紡がれた物だった。自分の口から漏れ出た言葉に、マシロはハッとなった。
サエコは調理師になりたいという目標を掲げ、それに向かって勉強をし邁進をし、叔父のパン屋を手伝うという形でそれを達成した。実に立派である。
それに比べて自分はどうか。
特に具体的な目標も掲げず、ただ実家を出て上京して早二年、就職も就学もせずただただ日々を浪費しているだけだ。
都会で自立すると両親に啖呵を切ったが、実際は親の仕送りに頼り切り。しかもそのお金は決して日の目を見ずに部屋を占領するだけのガラクタと化した楽器や画材に浪費され、最近はもっぱらパチンコ屋に消えて行ってしまう始末。
自分とサエコを比べ、比べる事すらおこがましいと気づいて、マシロは泣きそうになった。いや、もうすでに泣いていた。マシロはかぶりを振って悪い思考を頭から追い出そうとした。これ以上考えすぎると、自分がどうにかなってしまいそうだった。
マシロは冷蔵庫の扉を開ける。そこには数本のミネラルウォーターと、数本の缶チューハイがあるだけだった。
彼女は缶チューハイを手に取るとプルタブを上げ、噛り付くように口を付けて煽った。アルコールが喉を焼き、朝から何も食べていない胃を焼き、脳も焼いた。
程なくして思考がボヤけ、頭の中の悪い考えが霧散していく。後に残るのは、どうでもいいやという投げやりなポジティブシンキングだけである。チューハイをグビグビとやりながら、マシロはベットに体を投げ出した。
「へあ、へへへぁ……」
マシロは笑い上戸である。上機嫌になった彼女の口から、人語とは思えぬ笑い声が漏れ出る。夜道で聞こえてくれば物の怪が出たかと恐怖しそうな怪音を発し、ニタニタとだらしない笑顔を浮かべる。
ふと、ガラクタの山に刺さったギターケースが目についた。マシロはそのギターを見やり、今ならとんでもない名演奏が出来るのではないかと思い至った。何故そう思ったのかは本人も分からない。酔っ払いとはそういうものだ。
マシロがギターケースを引っこ抜くと、ガラクタの山が音を立てて崩れ、先ほど掃除したばかりのフローリングを覆った。
このギターを最後に触ったのはいつだろうか、弦の調整もせずにマシロはおもむろに弾こうとする。そもそもマシロはどうやって弦を調整するのかを知らない。
ジヤアアアーン
なんとも気の抜けた音が響いた。だが、マシロはご機嫌だった。そもそも彼女はギターの正しい音を知らないし、酩酊してそれどころではない。続けざまに弦をかき鳴らす。
ペケペケペケペケ
一体どうやって金属製の弦を弾いたらそんな音が出るのか、なんとも奇妙な演奏が1Kアパートに響く。
ペケペケペケペケ
久しぶりにギターを弾いて、マシロはだんだん楽しくなってきた。酒の助けもあってかボルテージはストップ高。勢い任せに掻きむしられた弦から奏でられる音は、演奏というより阿鼻叫喚の悲鳴の様である。
額の汗をまき散らしながらギターを振り回すマシロ。曲のようなものはクライマックスに近づき、熱狂は最高潮に達しようかというその時、「ドンッ」という鈍い音が響いた。珍妙なギターの音に我慢ならなかったのか、隣人が部屋の壁を殴りつけたのだ。
その音にマシロはビクリと体を硬直させ、息を殺した。スーッと酔いが醒めていくのを感じた。多少冷静になった頭で、先ほどまでの自身の行いを反芻したマシロは、
「私、なにしてるんだろう」
と呟いて、ギターをケースに収めた。
それからカレーパンを肴にしてチューハイを飲み干し、すぐにベットに横になった。
明日、ギターを売りに行こう。そのお金で、何か美味しい物を食べよう。そんな事を考えながらマシロは頭から布団を被り、隣室に聞こえないように泣いた。
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