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 一戸マシロは目を覚ました。


 枕元に置いたスマートフォンを見やると、時刻は正午を回っていた。マシロは決まった起床時間を持たない。自然と目を開けた時間に起き、起きたいと思ったときに起きる。時間に拘束されず、世の理に左右されず、マシロの身体と魂は自由であった。つまり彼女はニートである。


 マシロはまだ半分眠っている頭をボリボリと掻きながら、寝床から這い出した。


 ベッドの足元に転がった空き缶や空きペットボトルに躓きながら、おぼつかない足取りで洗面所へと向かった。


 冷水で顔を無造作にバシャバシャと洗った後、彼女は鏡に写った自分の顔を見やった。


 肌はほとんど日光を浴びていないために青白く、栄養が偏った食事のために唇はガサガサ、睡眠不足が祟って目の下には真っ黒が隈がくっきりと浮かんでいる。まるで不健康のお手本のような不健康な顔であるが、目だけが獲物を狙う肉食獣のそれのようにギラギラとしていた。


 さらに「なんかカッコよさそうだから」という理由で染めた真っ赤なインナーカラーが、青白い肌と鋭い目つきを有したアンバランスな顔を強調して、得も言われぬ凄みを放っていた。


 マシロは日増しに濃くなっていく隈を指でなぞり、見なかった事にしてタオルでガシガシと顔を拭いた。


 カーゴパンツによれよれのTシャツ、その上に一張羅のスカジャンを羽織れば、マシロのいつものお出かけスタイルの完成である。マシロは身支度も早々に、いそいそと自宅であるアパートを出た。


 季節は春。アパートの横から駅前まで真っすぐに伸びた通りには、満開の薄桃色の花を湛えた桜の木が整然と並んでいる。平日の日中ということもあり、人出は多くはない。そよ風に揺れる儚げな花弁を横目に、マシロは静々と通りを歩く。幾人かの通行人とすれ違ったマシロだが、目線を自分のつま先に投げて、努めて目を合わせようとしなかった。


 別段やましいことは無いのだが、なんとなく、人と目を合わせるのは苦手であった。


 普段は日中の外出を好まないマシロだが、月に一度のこの日だけは例外である。


 彼女は自宅近くのコンビニに足を向けた。自動ドアをくぐり、新商品のホットスナックや季節の限定商品には目もくれず、店の奥にあるATMへと向かった。タッチパネルを操作して預金残高を確認すると、そこには一人の成人女性が暮らしていくには十分な金額が表示されていた。


 マシロが実家を出て東京で一人暮らしをすると言った時、両親は猛反対した。内気な性格でコミュニケーションが苦手な娘が、果たして都会の荒波に揉まれて上手くやっていけるのか気が気でなかったからだ。


 両親はマシロが上京をする条件として、親戚の家に下宿することを提示したが、マシロは「自立したいから」とそれを断った。ならばと、今度は生活費の一切を面倒みると提示してきた。それを聞いたマシロは不快感を露わにした。両親が「マシロは自立して生計を立てる事ができない、どうせすぐに郷里に帰ってくる」と考えているのだと感じたからだ。


 彼女は意固地になってその提案も拒否していたが、最後には両親に説き伏せられた。動機は何であれ、娘を思う親の気持ちは本物なのだと気づいたからだ。


 マシロは勤め先を見つけて生活が安定するまでという条件付きで、両親からの援助を受ける事にした。


 そうして啖呵を切って上京してきた彼女だが、一年経った今でも月に一度入金される仕送りを頼りに生活をしている。つまり彼女はニートである。


 マシロは水道光熱費や通信費など最低限の金額だけを残し、仕送りのほとんどを引き落とした。これが彼女の一月の生活費の全てである。マシロは生活費を引き出すと、必ずある場所へと向かう。


 パチンコ屋である。


 パラッパラパララパララー


 ジャラジャラジャラジャラ


 誰かが言った。「パチンコ店内の騒音は、オーケストラの演奏に引けを取らない」と。多分マシロ本人が言ったのだろう。


 耳朶を無遠慮に叩く騒音に聞き入り、マシロはうっとりと頬を染め在りし日に思いを馳せた。


 上京して間もない頃、まだ真面目に就職をしようとしていたマシロは、時間つぶしのつもりでパチンコ屋にふらりと立ち寄った。周りの見様見真似でパチンコ玉を繰り出したマシロは、なんだかよく分からない内に大当たりを引いた。


 それが運命の分かれ道だった。彼女はあれよあれよという間に、パチンコ玉を満杯にしたドル箱を積み上げていった。大勝だった。


 そして換金所から渡された札束にマシロは悲鳴を上げた。それは20代前半のうら若い乙女が持っていいような金額では無かった。その瞬間、マシロは就職して真面目に働く事をあきらめた。


 ギャンブルの魔力に憑りつかれたマシロは、毎月仕送りが入金される度にパチンコ屋に通い、勝ったり負けたり勝ったり負けたり負けたり負けたり負けたりしているのである。


 ここ数か月、彼女は負け越している。マシロの灰色の脳細胞を総動員して計算した結果、統計的に今月は間違いなくプラス収支になる事は間違いない。彼女は手近な台の前に座り、先ほど引き出してきたばかりの一万円札を機械に挿入した。


 初めてパチンコ台に触れたあの日、勝利の歓喜に触れたあの瞬間、あのエクスタシーをもう一度。マシロはハンドルを握る手に力を込めた。


   ◇


 数時間後、マシロはパチンコ店前の立て看板に抱きついて、嗚咽を漏らしていた。


「うぉん……おぉん……おぉん……」


 うら若い乙女がこんなに泣いていたら、心優しい人がそっと手を差し伸べてくれそうなものだが、「新台入替!!」と書かれた看板に抱きついて泣いている人はろくな人間ではないと相場が決まっている。道行く人たちはマシロに一瞥もせず、まるでそこに初めから存在などしていないように無視を決め込んだ。賢明である。


 しばらく決して綺麗ではない嗚咽を周囲に蒔き散らした後、マシロはゆっくりと立ち上がった。泣いていても無くなったお金は戻ってこない。彼女は街を歩きながら、明日からどうやって食いつないでいくか、必死に思考を巡らせたのだった。


 不健康な青白い顔をさらに蒼白にして、泣き腫らして真っ赤になった目を擦りながら、マシロは街の雑踏に消えていった。

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