第三章

第19話 .Lily

「うんうん、優雅に飛んでみたい」


 幼いころのリリーとシャーリィの二人は、翼を持つ天使が英雄となる物語の絵本を読んでいた。当時、二人の間では翼というものが流行していたのだ。あらゆる物語に出てくる、潔白と強さの象徴。とはいえ、二人は別に強さを求めていたわけではない。純白の翼を手に入れて、自由に空を駆け回りたかっただけ。空であれば、なにをしていても大人に咎められることはないかもしれない。二人で遊ぶにはとっておきの場所に思えていたのだ。


 そんな二人を見て、爺やは溜息をついた。当時は爺と言うほど歳はとっていなかったけれど、その頃にはもう、そう呼ばれていた。


「絶対に、翼を授かろうとはしないことですよ」


 強い口調で言うお爺に対して、幼い二人は反発した。


「なぜ? いいこと尽くしじゃない。空も飛べるし、強いし、なにより美しいもの」


 それに対してお爺は真っ向に否定するようなことはしなかった。


「確かに空を飛べるし、強いかもしれないし、美しいかもしれませんな。でもその本にも書いてあるはずです。お二人はそのために、命を失うことができますか?」


 死。とにかくその言葉が恐ろしい時期がある。まだ生を受けて、楽しいことばかりが蔓延している幼い子どもなんかは特にそうだろう。だからお爺の言う「命を失う」ということが胸につっかえ、途端に不安になって、本を勢い良く閉じたことを覚えている。


 ――――……


 懐かしい日の夢を見た。爺やの言葉の意味は分かっていたが、幼心に納得はできていなかったように思える。いろいろなことを知るにつれて、なぜあんな脅しめいた言葉を告げたのかが分かって、そしてそれが、単なる脅しではないということも知った。


 この聖域には祈り子を始めとして、神話に当てはめなければ説明のしようのない事象が多い。いくつかある中でもとりわけ有名なのが、翼の存在であった。それがあれば恐らくはすごく便利だし、現在に名を残しているような天使の大体は翼を有している。だから、ちょうど過去のリリーたちが羨望していたように、憧れる人も少なくはないだろう。


 しかし神聖な出産に本物の愛が必要なように、翼を授かるためにはなにか一つの代償を支払わねばならなかった。それは声かもしれないし、手足の自由かもしれない。あるいは重い病気にかかってしまう可能性もある。一方で悪いことばかりでもなく、常人には使うことのできない能力を同時に授かったり、なにかの才能を授かることもあると、かつてリリーは文献で読んだことがあった。聖域で興った宗教なども、本来の教祖が翼と共に神託を授かったところから始まったと言われている。


 翼を手に入れること自体は魅力的だ。しかしそのために、その後の生涯を運に任せられる人がいるだろうか。少なくとも、リリーには無理だった。シャーリィがどう思っているかいまとなっては分からないが、彼女は大人びているし、もう翼なんて考えもしないかもしれない。周りで翼を授かっている人も、その予定がある人も、リリーは見たことがなかった。


 リリーは少し寝ぼけながら夢の余韻に浸っていたが、頭を覚ますために「あー」と声を出した。そのままベッドから勢いで起き上がり、近頃城下で流行っている吟遊詩人の歌を口ずさむ。


 昨夜はあまり寝られなかった。記憶を失ったことに気を取られて、ずっと部屋の中をぐるぐると歩き回っていたら、そのままベッドに倒れ込んでしまったけれど、夢ばかり見た。


 ふと窓の外を見ると、リリーは思わず口を抑えた。太陽が、登りきってる!


 遅刻である。


 さっさと支度を済ませてから部屋を出た。急ぎ足でアリスの執務室に向かう。いるか分からないけれど、いるとしたらそこだ。朝礼もすっぽかしたし、穴埋めができてない。事情を話して謝って、仕事の指示を貰わなければ。いくらアリスと個人的に仲がいいとはいえ、近衛兵の業務はれっきとした職務であり、アリスは自分の上司なのだ。それに、仲の良さを免罪符にしたくはなかった。怒られることも覚悟しつつ、頭のなかでなに度も謝罪の練習をする。


 ぶつぶつと言いながら廊下を歩いていると、不意に頭が重くなった。一瞬なにが起こったのか分からなかったが、頭が誰かに掴まれているのだということが分かった時には驚いて、なに度も頭を振ってようやく振りほどく。リリーが勢いよく顔を上げて変ないたずらをした犯人の顔を見ようとすると、そこにはアリスがいた。


「あ」


 彼女はリリーの慌てようがよほど面白かったのか、腹を抱えて笑いまくっていた。リリーはただ肩を縮こまらせてアリスの笑いが収まるのを待つしかなく、ようやく収まったかと思いきや、また思い出して笑っていた。そんなアリスを見てもリリーは笑う気にはなれず、身長の高いアリスをただ見上げるしかない。


 廊下で出くわすとは思っていなかった。頭のなかで想像されていた謝罪の段取りが一瞬にして崩壊してしまった。リリーは逃げ出したい気持ちを堪える。


「おはよう、リリー」

「あ、お、おはよう……ございます……?」

「あは、なにそれ」


 寝坊が罪悪感になって、まともにアリスの顔を見られないどころか、挨拶すら普通にできなかった。しかも「おはよう」はめっちゃ皮肉めいていないか。こわい。こうなればもう仕方がなかった。ええいままよって、こういう時に使えるんだ。


「あの、アリス。ごめん。調子が悪くて、その、とはいえ寝坊なんてこと、副隊長としてあるまじき行為だし、それになんかアリスなら許してくれるかな、みたいな甘えみたいなのもわたしの中にあって、そういう精神でいるのも本当によくないし、ていうかこういう言い訳するくらいならただ謝るべきだったかなとも思うしでも調子が良くなかったのはある意味で本当でなんというかよくわかんないけどほんっとうにごめ――」


 なに度も脳内で反芻した謝罪の言葉は結局出てこず、無意味な言葉の羅列がべらべらと口から発され続ける。自分で止める方法も分からないほどだったが、恐る恐るアリスの顔を見ようとすると、目の前に手のひらがあっって、リリーは身を固まらせた。


 ――首が折られる!


 その矢先、リリーの頭の上に優しく手のひらが置かれた。


「昨日の夜は寝られた?」

「お、折らない……?」

「え?」

「あっ、いやなんでもないです! うん、よく眠れた……」


 そう言うと、アリスは表情を綻ばせた。


「ならよかった」


 アリスはリリーの頭を乱暴に撫でると、じゃあ私は行くからとリリーから離れる。少し行ったあと、彼女は思い出しかのようにこちらを振り向いた。背中を見つめていたリリーはびくっと震える。


「リリー、今日休んでいいよ」

「そんな、遅れたぶん今日はちゃんとやるよ」

「なに言ってんの。朝は来たところで、どうせ私が追い返してたよ。いまリリーに必要なのは休息。そして私たちに必要なのは、休息して快復したリリー。分かったね? じゃ」


 アリスはリリーにそう言い残して、こちらがなにかを言う間もなく去っていってしまう。段々と小さくなっていく背中を見つめながら、リリーは唇を噛んだ。――きっとアリスだって混乱しているはずなのに、わたしだけが休むだなんて。自分が情けない時ほど人の優しさは傷にしみる。


 リリーは俯いて考える。もしこれで言うことを聞かずに出ていっても、本当に追い返されてしまうだろう。そして、彼女の計らいに傷を付けることになってしまう。でも、埋め合わせをしたい気持ちは収まらない。少し考えて、決心を固める。


 せっかくもらった休みだ。一日使って頭を働かせよう。と思った矢先、城内で波のような騒ぎが広がっていった。リリーはすかさず騒ぎの元を確かめに走り出した。

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