身体接触多めの後藤さん

新巻へもん

第1話 事故ですか? 事件ですか?

 まだ六月にもなっていないというのに建物の外に出ると湿気と熱気がまとわりつく。俺は喉元に指を突っ込んで襟元をちょっとだけ緩めた。説明会は大過なく終了したし、今日は職場に戻らなくてもいいだろう。念のため、内ポケットからスマートフォンを取り出すが、電話もメールも着信記録は無い。


 横にいる中島主任が俺の顔を伺う。

「係長。職場に連絡しなくていいですかね?」

「いい」

 短い返答に驚きの表情を浮かべた。


 この春から部下になった中島主任は生真面目な男だ。まあ、一般的に公務員になろうという人種はルールをきちんと守ろうとすることが多い。外出時は帰宅前に職場に連絡すること。新人研修のときに習うマナーだ。あいにくと俺はそういった規律とか勤勉さというものをとっくにすり減らして失くしていた。


「用があれば、向こうから連絡してくりゃいい」

「はあ」

「そんなことよりもだな。おめー子供生まれたばかりだろ。家に帰って父親しろ。嫁さんに愛想つかされっぞ。じゃあな」


 中島主任とは帰る方向が違う。手を挙げて中島主任に背を向けた。勢いよく歩き出した俺は角を曲がる前にチラリと振り返る。中島主任の後ろ姿が見えた。スマートフォンを耳に当てている。愛妻に帰る連絡をしているのか、それとも律義に職場に連絡しているのか。まあ、俺には関係ない。


 人通りをさけて大通りではなく、路地に入る。今日の出張前に地図は頭に叩き込んで来たし、元々方向感覚はいい方だ。雑居ビルの入口から二人づれが出てくる。伸びた髪の毛を一つ結びにして、灰色のTシャツにくすんだアイボリーのカーディガン、ジーパンにスニーカー姿の女性。男の方もカーディガンがチェックのシャツに変わったぐらいで似たような恰好だった。


 俺自身も私服のファッションはイケてない。他人のことはとやかく言えないが、それでもハイセンスとは言い難い服装のカップルだった。女は速足で歩き、男がそれを追いかけるようにしながら早口で何かをしゃべっている。


「いい加減にしてください」

 振り返った女の目が壊滅的に顔と合っていない眼鏡の奥から男を睨んでいた。どうもカップルと思ったのは早計だったようだ。

「これ以上話しかけてこないでください。警察呼びますよ」

 言い捨てると女はくるりと向きを変えて歩き出す。


 男は茫然としていたが顔を真っ赤にすると猛然とダッシュする。

「バカにするなあっ!」

 甲高い声で叫ぶと男はリュックから何かを取り出し、叫び声に振り返った女に腕を振るった。


 叫び声が上がり、女の腕から赤いものが飛ぶ。駆け出していた俺は立ち尽くす女の手を引いた。力加減がうまくいかず女は転倒する。倒れた拍子に眼鏡が飛んだのだろう。疲れ切った表情の女が俺を見上げていた。すぐに俺は男の方に意識を向ける。目の端にキラリと光る金属製のものが見えた。刃渡り十センチ以上あるコンバットナイフ。完全に銃刀法違反の代物だった。


「ぶっ殺してやる」

 男は目を血走らせて女の方に歩みよろうとする。俺は笑顔で男を遮った。

「やめとけ」

「格好つけてんじゃねえぞ。てめーもぶっ殺してやる」


 男はナイフを手にした右手を振り回す。俺は少しだけ下がって距離をとった。

「そうか。じゃあ、手加減は不要だな」

 男の刃は届かない。冷静に軌道を読む。男が大きく腕を振り切って右ひじをさらした瞬間に俺は飛び出していた。


 男の手首をぐっとつかんでそのまま男の左わきの方向に押し込む。男は俺を振り払おうと腕に力を込めた。そのタイミングで右足を軸に体を開きつつ、左手の親指で相手の小指側の手の甲を内側に折り込むように捻る。俺の腕を振り払おうという力も乗って男はバランスを崩し一回転して路上にたたきつけられた。


 腕を引いてやり頭が地面に当たらないようにしてやる。死なれでもしては面倒だ。過剰防衛とか言われたくない。男は背中を強く打って呆然としていた。右手を相手の手首から離し、肘に押し当てて関節を固めてくるんとうつ伏せにひっくり返す。握りこぶしをアスファルトに押し付けるように体重を乗せると、男はたまらず手を開いた。


 ナイフを蹴り飛ばし、腕を後ろに回して膝で押さえつけた。男はくっという声を上げる。手が空いたので懐を探り、そのときスーツの前が切れていることに気が付いた。投げた時に相手に密着し過ぎていたのかもしれない。ナイフの切れ味も良かったのだろう。今さらのようにどっと汗が吹き出した。


 深呼吸をして心を落ち着かせると、警察に通報した。

「事故ですか? 事件ですか?」

 スマートフォンの向こうから女性の声が聞こえる。

「事件です」


 咳払いして続けた。

「殺人未遂ですかね。刑訴法第二百十三条に基づき、被疑者は現行犯逮捕してます。司法警察職員に引き渡したいのですが、場所は……」

 目印になる建物の名を告げる。


 なんとか声が震えなくてすんだ。倒れている女の方を見ると顔をしかめている。左腕のカーディガンにはかなりの量の血がしみ込んでいた。意外と深く傷ついているようだ。電話をかけなおし救急要請をしながら、手真似で女を呼び寄せる。ショックのせいか大人しく寄ってきた。女の肩からトートバッグを降ろさせる。半裸の男二人が表紙の本がチラリと見えた。


 肩と耳でスマートフォンを挟んで消防と通話しながらネクタイを外す。胸ポケットからボールペンを取り出して、それを挟むようにして女の腕の肩よりの場所にネクタイを縛る。ボールペンを回転させてきつくした。

「すぐに救急車が来る。死ぬような怪我じゃない。安心しろ」


 女は返事をしない。あんまり良くない兆候かもしれなかった。ええいくそ。乗りかかった船だ。色気か食い気か? 顔面蒼白な顔を見る。彼氏が悲しむぞ、はやめておくか。

「なんか好きな食い物あるか? 寿司とかどうだ? 元気になったらおごってやる」

 女の目に生気が蘇った。やれやれ。


 自転車で警察官が到着し、ほどなくサイレンの音も近づいて来る。これでお役御免とはならなかった。被害者の女が救急車で運ばれた後、俺は所轄の警察署に連れていかれたっぷりと事情聴取される。解放されたときは日付が変わっていた。


 ***


 そして、約十か月が過ぎ、新年度を迎える。前の方に並んだ新規採用職員が紹介される中、リクルートスーツに身を固めた女性が名乗った。

「後藤純子です。開発課に配属になりました。よろしくお願いします」

 頭を下げて顔をあげる。今年度から俺の部下になった後藤さんはどこかで見た顔をしていた。

 

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