結城殺人事件
鷹山トシキ
第1話
7月3日
安藤和正は結城市にやって来た。東は鬼怒川を挟み筑西市と、南は古河市、八千代町と隣接し、北と西は栃木県小山市に接する。
北側・西側を栃木県との県境に囲まれ、茨城県の他市町村とは鬼怒川によって隔てられているため、文化(方言等)・経済・交通面で栃木県との関わりが深い。特に隣接する小山市とは小山都市圏に属する密接な関わりがある。南北の交通網が茨城県の他市町村と明らかに異なる古河市ほどではないが、県南(つくば市など)・県北(日立市など)・鹿行地域(鹿嶋市など)との繋がりは希薄となっている。
つい最近、ニセ眼科医が無免許で点眼薬を処方するという事件が起きた。そいつは2000万も稼いだらしい。
そいつは医療関係者向けの人材紹介会社を経営していたらしい。男性医師の免許証のコピーを悪用し、医師紹介会社に登録。
偽のヘルパー、偽のナースなんかもいたかもな?
診察を待っていると、どこかの婆さんが乗ってる車椅子に足が巻き込まれそうになった。印刷会社や入浴剤メーカーに派遣されていたが報われない。
印刷機に指を巻き込まれたことがあったが、労災も払われなかった。
「どうしてくれるんだ!?」と、叫んだら1万を婆さんの連れの女性が支払ってくれた。
和正はチョイとばかり歴史に詳しい。
『古語拾遺』は、神武東征において橿原宮を造営した天富命が、阿波国に続いて房総を開拓し、穀の木の生育した当地は結城郡と言われた。
古代より、ふさ(麻の転)や木綿(ゆう)(穀や楮などのコウゾ属の繊維)の産地として総の国のゆうきと呼ばれ、令制国の下総国に属した。
奈良時代頃から結城紬の特産地として発展してきた。
鎌倉時代には小山氏から分かれた結城朝光が館を構え、以後、鎌倉以来の名家結城氏(関八家)の城下町となる。
元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで結城藩水野氏10代がこの地を治めた。なお、現在は結城市の一部となっている山川村には江戸時代初期に山川藩があり、結城藩とは同族別家の水野氏が治めていた。この縁で、天保の改革で知られる水野忠邦の墓所がここにある。
明治時代になり茨城県に編入。
結城城址に和正はやって来た。
小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。
その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった
文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。
小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。
廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。
元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。
戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。
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