◇15
◇15
「帷ッ!」
七凪が叫んだ。
今度はわたしの名前のこと、しっかり覚えていたらしい。
……などと、どうでもいい感想すらよぎってしまうほど、わたしの意識はスローになっていた。
油断したつもりはなかったが、「見通しが甘かった」と言われてしまうと否定はできない。
この場合の見通しというのは、心術の〝有効範囲〟についてだ。
部屋で七凪と話していた際、化心の心術についていくつか考察——想定をしていた。その一つが「物体を消す能力は、人間にのみ作用するのでは」というものだった。もしあの心術が物体にも有効であれば、ただ移動するだけでこのホテル自体を消滅させてしまう。ならば心術はあくまで人間を消し去ることに特化している可能性が高い……と、二人してそう考えていた。この廃墟が廃墟として存在する——火事による損傷のみで存在していることこそ、その考えの最大の根拠だった。
故に、心術では消すことのできない(であろう)瓦礫で化心の動きを封じ、血を使った遠距離攻撃で仕留める、というのは、その場で考えた策にしては、まぁそこまで悪くないのでは、と思っていたのだけど——。
「——!」
化心の追撃。
既に、四方八方からいくつもの〝腕〟が、わたしを取り囲んでいた。
一斉に襲い掛かったならば、わたしの身体は数秒もせず、この世から消える。
「これ、は」
かなりマズい。
逃げなくては。
避けなくては。
……でも、どうやって?
あの心術が無機物も消滅させられる以上、剣鉈や血で反撃することはできない。
加えて、右目の消失。
やはり、どういうわけか、痛みも出血もなかった。視界は……景色そのものは普通に見えているが、平常時と比べてなんとなく〝狭い〟ような——まるで右目を瞑っただけのような、そんな感覚を覚えていた。片目だけでは遠近感が失われると聞いたことがあるが……この状態に即座に慣れ、周囲の触手を全て躱しきるのは、かなり困難と言わざるを得ない。
であれば、
もはや、詰み————
「させる、かよ——ッ!」
視界の端に——狭まった視界の端に映る影。
七凪勇兎。
拳を振り上げながら、化心に向かっていくのが見えた。
でも、それは……あまりにも無謀だ。
先ほど七凪自身が言っていたように、触れることで発動する彼のデザイアと、敵の心術との相性は悪すぎる。
みすみす死にに行くようなものだ。
だとすれば、彼は何を——
「——うぉらッ!」
七凪が右の拳を突き出した。
だが——その手は何も触れなかった。
化心の触手に触れる寸前で、停止していた。
つまり、七凪の両の腕は空を切っただけ——
「〈
「!」
ぶおん、と。
突風が吹いた。
建物の外から吹き抜けるものではない。
もっと近く——目の前で発生したものだ。
正確には圧縮された〝空気の塊〟が——目の前の化心をほんの少しだけどかし、転ばして、その余波が、わたしに伝わったようだ。
取り囲んでいた触手が乱れ、隙間が——逃げられるほどの隙間が生まれた。
「こっちだ!」七凪がわたしを呼ぶ。身を屈めながら、急いで彼の元まで走った。
【ウ…………】
化心が目の前で姿勢を戻すのが見えた。見えない何かに押され、困惑しているようだが、わたしたちがまだ目の前にいるのを確認すると、中央の顔がにたりと笑った。
「……今のは」
「俺のデザイアで〝空気を殴った〟……ま、こんな感じで、大してダメージは入らないけどな」七凪が化心を睨みつけながら言う。「……そんで、もう一回、今みたいに風を起こす。本気でやれば、少し浮かすぐらいはできるはずだ。だから——」
「着地、ですか?」
「ああ、頼めるか?」
「わかりました」
化心の腕が伸びた。
数はおよそ10本、人間二人を消し去るに足る量だ。
「……!」それを見て、七凪も動いた。
だが、動かしたのは、上半身のみ。
まるでシャドーボクシングのように、両の腕を数度交互に突き出した。
それはたしかに、空気を殴る、と解釈できる行為だった。
殴ったものを吹っ飛ばすという、七凪のデザイア。
聞いた時は、なんとなく〝風〟に関係する魔術とか、そういう類だと思っていたが……彼がしていることと、初めて自らが受けた時を思い返して繋げると……ちぐはぐなような、意味が食い違っているような……とにかく、そういった単純な能力ではないような気がした。
まるで、たとえば、殴ったものに〝吹き飛ぶ〟という〝性質〟を与えているような——「——〈
「——!」
七凪の声と共に、凄まじい空気のうねりが発生し、衝撃が、自分の思考をかき消した。
直接殴った時とは違い、この風自体はホテルの内壁を破壊するほどのものではない。しかし、そのおかげで結果的に押し固められた空気が、漏れることなく化心に命中した。
【オ——————‼】
そして、風に押された化心の身体が——〝浮いた〟。
浮いて、僅かに向こう側へと移動する。
わたしがすべきことは、その着地地点を……〝見極める〟ことだ。
1m……2m先の床。
そこに落ちると予測し……わたしは懐よりアンプルを取り出した。
「〈行け〉!」蓋を開け、〝その地点〟を目指すように中の血に命じる。
血の進むスピードは、化心の移動を上回る。そこに辿り着いた血が、びしゃりとばら撒かれ―続けて化心の巨体が、その上に落ちた。
「〈凍てつけ〉!」続けて命じる。瞬間、化心の足元(手元というべきか)がパキパキと音を立てながら、赤黒い〝氷〟で捕らわれていくのが見えた。
……上手くいった。
あらゆる言霊を操ったという織草筺花。その心臓を通じた血は形状だけではなく、温度すら変化させることもできる。かつてイルカ蝶の化心を〝燃やした〟ことがあるが、反対に〝凍らせる〟こともできるのだ。
【オ……オキャ……アアア!】
化心はこちらに向かって伸びていた腕を自らの元へ素早く戻した。そして、未だ無傷のままの腕を使って、床の氷を〝消して〟いく。こちらに迫っていた脅威が離れて、少しだけ安堵した。
【ウ⁉ ウ⁉ イイイ‼‼】
あまり器用ではないのだろう、氷を消す際にその中に覆われている自身の一部ごと——〝腕〟ごと化心は消し去ってしまっていた。痛みは感じないのだろうが、化心の鳴き声には困惑と苛立ちが混じっているようだった。
ついでに——
消滅させる対象の中には、自らの立っている〝地面〟も、含まれていた。
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