ココロのトバリ
サザンク
第1話 イルカの頭・蝶の翅
◇1
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「いい身体を作るなら新体操か水泳だよ、
と、わたしの目の前にいる黒髪の女性——
当初、それが自分に向けられた言葉だとは気づかなかったので、わたしは少し時間が経ってから「はぁ」と間の抜けた返事をする羽目になった。
「今の、わたしに言ったんですか?」
「そりゃそうだとも、名前を呼んだじゃないか」
「……そうですね。ごめんなさい、まだ貰った名前に慣れてなくて」
「そのうち慣れるよ」
「えっと、なんでしたっけ? 身体がどうとかって」
「これなんだけどさ、いい身体してるよね」
そう言って葵さんは持っていた新聞をわたしに見せてきた。競泳のある選手権の記事、見出しには大きく「史上最年少で日本新V」と書かれており、満面の笑みを浮かべる水着姿の男の写真が載せられていた。葵さんは「若いねぇ」なんて言いながら、写真を指でなぞっていた。
「水泳は全身を動かすからね、体操とか、バレエもだけど、筋肉が身体全体にバランス良くつくのさ。綺麗な筋肉が作れるよ」
「そうですか」
「たとえば野球は駄目だね、あれは駄目だ。筋肉が下半身にばかりついて、尻だけが大きくなってしまう」
「スポーツ詳しいんですか?」
「いや全然、そもそもスポーツ嫌いだし」
「…………」
なんなんだこの人、という気持ちを振り払う。
半年ほどの付き合いだが、こういう時、葵さんの言うことは真に受けないほうがいい、というのは、日々を穏やかに過ごすための教訓になりつつあった。
ため息を一つついてから、記事にざっと目を通す。男子200mバタフライで日本新記録を更新した
「どうだい?」
「どうって、何が?」
「彼のことさ」
「まぁ、たしかに、鍛えられてると思います」
「そうじゃなくて、君も年頃の女の子だろう? 君ぐらいの生娘っていうのは、運動能力の優れた男を慕うもんじゃないのかい?」
「生娘って」
「少なくとも私の頃はそうだったけどね」
「意外ですね。もしかして葵さんも、そんな経験が?」
「まさか。言っただろ、私スポーツ大嫌いなんだ」
「…………」
嫌いのグレードが上がってた気がする……。
写真の中沢の顔を見る、顔だけ見れば少年の面影が僅かに感じられる、身体の大きさで相対的に小顔に見える、という面もあるからだろうか。記事によれば、女性のファンは少なくないようだ。人間を〝そういう〟気持ちで見たことがないので、自分にはあまりピンとこなかった。
「わたしにはよくわからないですね」
「そうか。じゃあ、君はどんな人が好きなんだろうね?」
「え」
「そんな嫌そうな態度をとらなくてもいいじゃないか。恋バナはガールズトークの鉄板だよ。とはいえ私たちの間柄じゃ、友人同士っていうよりは、姉妹の会話に近いだろうけど」
「どちらかっていうと母娘じゃ——」
「帷ちゃん」
「なんでもないです。えーと、好きなタイプ好きなタイプ……」
「君は意外と面食いだったりするのかな?」
「うーん、どうなんでしょう。強いて言うなら、強い人には興味がある、かも」
「人を見る基準が時々狂戦士なんだよね、君」
「……多分ですけど、恋愛的な意味合いで人を好きになったことはないですよ、わたし」
「案外、覚えてないだけかもしれないよ?」
「それは……まぁ、そうかもですけど……」
確かに、葵さんの言うことは一理ある。
なにせわたしは、半年前から前の記憶がすっかり抜け落ちているのだから。自分がどこで生まれ、どんな名前を与えられ、誰に育てられたのか、そういった思い出が空っぽなのだ。もしかしたら、失われた記憶の中には、人並みに恋をして、みたいなエピソードがあったのかもしれない。
今となっては、確かめる術はないけども。
しばらく熟考していたからか、口元に笑みを浮かべながら、意地の悪そうな目でこちらを見ている葵さんに気が付かなかった。葵さんは時々こういう目でわたしを見る。観察するような、反応を確かめるような視線。わたしはこの目があまり得意ではなかった。無意識のうちに、わたしを下に見ているように感じるからだ。なので、多少は対抗してやろうといった気持ちで「じゃあ、逆に聞きますけど、葵さんの好きなタイプってなんですか?」と質問してみた。
葵さんは、わたしの問いかけに対して、特に驚くとか、躊躇うような素振りは見せなかった。彼女は、手元のコーヒーを飲み干すと、なんでもないような顔で「強いて言うなら人間以外かな」と言った。
今日も、便利屋「ハートキャッチ」を尋ねる者はいなかった。
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