第33話

 巨人の手がアドニスに接近する。

 だが、彼は避けようとしない。彼は手を頭の後ろまで引き、覆い被さろうとする巨大な影に向かって、一撃を放った。

 響きのない重い音。五指という名の矛は、互いにぶつかり合ったまま停滞する。単純な力は五分五分か。だが、均衡はすぐに崩れた。

 巨人の手のひらに亀裂が入り、一気に広がったのだ。


「だいぶ弱体化しているな」


 確かに、巨人の力は弱まっている。だが、それに加えて、アドニスの矛に込められた思考の強度が上回っていたのだ。

 亀裂は腕の方まで達し、ついにはバラバラと砕け散る。彼はなおも爪を奥へ奥へとねじ込んでいく。巨人は堪らず、手を引っ込めていった。


「やはり、もう再生はできないか」


 巨人の手は歪な傷口を残したままだ。

 アドニスは容赦なく巨人に飛びかかる。迎撃のために襲って来た別の腕を、逆に足場として利用し、ぐんぐん登っていく。そして、途中で大きく飛び上がった。

 見据える先には、巨人の頭部。対する巨人は、諦め切ったように、ただこちらを見上げていた。


「頑張れママ」

「ああ」


 巨人は声を上げる間もない。

 アドニスの爪が、巨人の頭部を押し潰す。そのまま、力の限り爪を下に押し込む。木屑を撒き散らしながら、巨人の首を荒々しく裂かれ、胴体を真っ直ぐ貫かれていった。

 ようやく勢いが収まる。彼は巨人の腹から地面へと飛び降りた。

 巨人は頭から縦に真っ二つに割れ、その隙間からは向こう側が見えた。腕をだらりと垂らした巨人は、もう動き出すことはなかった。

 

「倒したか……」

「動かないね」

「そうだな」


 戦いの終わりを告げるように、穏やかな風が頬を撫でた。久しぶりに風の音を聞いた気がする。


「外はどうなってるですか!? 巨人は!? 皆無事なのですか!?」


 すぐ近くの塔から、サラが堪えかねたように尋ねる。

 広場を埋め尽くしていた根が、バタバタと倒れていく。塔を覆っているものも、いずれ剥がれ落ちるだろう。彼女も安全なはずだ。

 それよりも。


「ペイル! サラ・フラムを助け出してやってくれ!」

「え、うん! わかった! フードの人は!?」

「俺が行く」


 今や単なる巨木と化した巨人を、アドニスは急いで登っていく。

 アパテーはまだそこにいた。足をぶらぶらとさせ、天を仰いでいる。


「よく倒せましたね。すごいです。パチパチパチ」


 アパテーは他人事のように言う。


「お前、わざと俺たちを勝たせたのか?」

「もう、何を言い出すかと思えば。これはあなたたちが頑張った結果ですよ」

「…… まあいい。それで、さっきの問いの答えは?」


 聞いてみるが、アパテーは急に押し黙ってしまう。


「答えないのなら、ここでお前を倒す。お前は俺たちの敵だ。いや、人間たちの敵か?」

「いいですよ、やってみてください」


 そう言って、アパテーはフードをめくる。

 現れたのは、絹のように艶やかな白い髪。こちらを見る、まだあどけなさの残る大きな瞳は、金色に縁取られた黒という、珍しい彩り。

 やはり、彼女はまだ年端も行かない子どもだ。そういう外見なだけかもしれないが。

 

「ほら、早く。さっきみたいに、僕の頭を砕いて、体を真っ二つに引き裂いてください。悲鳴を出すのとか苦手ですけど、頑張っちゃいますよ」


 アパテーはそう言うと、両腕を広げ、目を閉じた。日向ぼっこでもしているような、清々しい表情。およそ敵に追い詰められた者のする顔ではない。


「お前は死ぬことを望んでいるのか?」

「さあ、よくわかりません」


 アドニスはアパテーの姿に、自分の右手を重ねて見た。

 ここで殺すべきなのか。ペイルたちの意見を聞いた方が良いか。そのためにも、まずは彼女を拘束しなければ。

 彼は彼女の一挙手一投足を注視しながら、ゆっくりと近づく。そして、右手で彼女の首元を狙った時。


「ママ? どうしたの?」

「動かない……」


 不意に指先がピタリと固まってしまう。どれだけ動かそうとしても、脳の命令を全く受け付けない。その現象は体全体に広がっていった。さらに奇妙なことに、持ち上げられた右手が、意思に反して下がっていく。抗いようのない力。

 まるで、頭上から誰かが糸を垂らし、行動を制限しているような。操り人形にでもなった気分だ。


「フヒヒっ……」


 笑い声に釣られてそちらを見ると、悪戯っぽい笑みを向けるアパテーの姿。


「先に断っておきますと、僕は何もしてませんよ。それが、僕からの答えです」

「どういうことだ? これはなんだ? お前は最初からこうなるとわかっていたのか?」

「これ以上は教えてあげません。これでも、僕にしてはちゃんと約束を守った方なんですよ?」


 アパテーは立ち上がると、腰の辺りを手で払い、悠々とアドニスの横を通る。彼はそれを目で追うことしかできない。


「待て…… お前は一体……」


 視界の外ーー すぐ真横で足音が止まる。そして、ふと肩に何かが触れた。


「大丈夫ですよ。あなたが前に進めば、自ずと答えが出てきますから。知りたいことも、知りたくないことも。全部そういう筋書きなんです。立ち止まらないでくださいね」


 すぐ耳元で、アパテーは諭すように囁く。


「僕たちはピトスの災厄。この向こうで、ハオスと一緒にあなたを待っています」

「ハオスが…… アネモネは…… アネモネはいるのか…… ?」

「はい。生きていますよ。あなたが進むのをやめない限り」

 

 話が終わったのか。肩にあった感覚が消え、また足音が聞こえ始める。


「安心してください。これ以上あなたたちの邪魔をするつもりはないので。どうぞ、おねーー 灯晶塊に光を」


 今何を言いかけたのだろう。


「リゼちゃんも、また今度会いましょ」

「ママは? どうしたら動けるの?」

「僕がいなくなれば、すぐ動けるようになりますよ」

「嘘じゃない?」

「はい。今日僕は珍しく、ほとんど嘘をついていませんから」


 足音が止まる。


「それでは、また今度お会いしましょ」


 その言葉を最後に、アパテーの気配が消えた。

 それから、数秒。不意に体が言うことを聞くようになる。だが、はたして周囲に彼女の姿はなかった。


「逃げられた……」


 やはり、ペイルを連れてくるべきだっただろうか。いや、正直彼の手に負える相手ではない気がする。この判断で良かったはずだ。


「ピトスの災厄…… あの言い方、ハオスの仲間なのか…… ?」


 アドニスは町の遥か先に目を向けた。最初に通った門の、ちょうど真反対の方角だ。真っ黒な靄がかかっていて、端の方までは見通せない。


「やはり、この先にアネモネが……」

「ママ」

 

 襟を引っ張られ、アドニスは一歩踏み出しかけた足を戻す。


「リゼか。どうした?」

「おっさんたちの方、行かないと」


 リゼがこちらの顔を覗き込みながら言う。


「アドニス! そっちは大丈夫!?」


 下の方から、ペイルが呼びかける。

 アドニスは重い体を後ろに向け、下を覗いた。巨木の根本にペイルとラードーン。その隣にはサラの姿も見える。


「ごめんなさい。あのフード姿に逃げられた」

「え、嘘!? こっちからは何も見えなかったけど……」

「だが、もう襲ってこないそうだ」

「何それ!? 敵の言葉を、そんな簡単に信じちゃっていいの!? ピュア過ぎない!?」


 なんとなくだが、アパテーのあの言葉に嘘はないと思った。本気で自分たちを殺したいのなら、巨人と共に戦いに加わっていたはずだ。


「ママ、戻ろ?」

「ああ、そうだな」


 ここまで来た目的を、アドニスは再認識した。それに、ここまで来れたのは、皆がいたおかげだ。自分だけ先に行っても、どうにもならない。


「アネモネ…… お前を助けるには、もう少し時間がかかりそうだ」


 冥霧の向こうにそう告げると、アドニス巨木を降りていった。

 地面にたどり着くと、皆が駆け足で集まってくる。


「あ、アドニスさん…… 本当に…… ピンチの時に……」


 天変地異でも目の当たりにしたような目で、サラはじっくりとアドニスを見る。彼女も体中擦り傷やら、青あざが目立つ。加えて、核を潰した時に飛沫を浴びたらしく、所々真っ黒だ。


「よかった…… アドニスさんがいなくなったら、私この先どうしていいかわからなくて……」

「怪我はないか?」

「えっ!? は、はい! 私は全然何もしてないですし、怪我も私が一番浅くて……」

「矢のおばちゃん、リゼを助けてくれた」


 リゼが言う。


「そうだったのか」

「あ、いえ…… ! 私のしたことなんて大したことなくて、誰にでもできることでしたから……」

「なぜそんな風に言う? 他でもないお前のおかげで、今リゼがここにいるんだろ? お前には感謝しなければ。ありがとう」


 目をパチパチさせていたサラだったが、やがて「はい……」と小さな声で、照れ臭そうに頷いた。

 

「ママ。リゼも、おっさんたち助けた」

「ん、そうか。お前もよくやった。ありがとう」


 そう言って、アドニスはリゼの頭を撫でてやった。

 彼女の表情は特に変わらないが、何とも幸せそうに目を閉じている。


「ペイル、オレス・ティアーズの容態は?」

「まだ意識はハッキリしてないけど、命に別状はないよ。すぐに良くなるはず」


 ペイルの口振りからしても、オレスは大丈夫なのだろう。


「そ、それにしてもさ、僕たち本当にやり遂げたんだね…… なんか、夢でも見てるみたいだよ……」


 ペイルは声を震わせて言う。呼吸回数も多いし、なんだか興奮している様子だ。


「これは夢じゃないぞ? おそらくだが」

「いや、わかってるよ!」

「では、なぜそんなことを言う?」

「だってさ、僕なんてすぐに死んじゃうようなヘタレだったんだよ…… ? いや、実際何回か死にかけたけど…… それでも、今こうしてみんなと一緒にここにいて、偉業を達成しようとしてる。不謹慎かもしれないけど、僕、今初めて生きてて良かったと思ってるよ」


 アドニスは首を傾げる。答えになっていないではないか。

 

「まだ終わってない。灯晶塊に光を灯して、灯晶も見つけなければ」

「そうだね」


 アドニスたちは塔の中に入り、最上階を目指す。階段はほとんど崩れてしまっていて、壁をよじ登る羽目になった。

 だが、最上階だけは、何の損傷もなく残っていた。

 そこには一面に木製の床が広がっていて、地面には核の残骸が散らかっていた。今気づいたが、塔の壁には東西南北に、丸い穴が空いていた。さっきは樹皮のせいで塞がっていたらしい。内部はかなりシンプルな造りだ。

 だが、壁からほんの一、二メートル先。そこには円状にぐるりと中心を囲った、もう一つの壁があった。そして、ちょうど階段を登り切った位置から正面の壁に、鉄格子の扉が待ち構えている。


「あれが灯晶塊です」


 サラが指を差す。

 扉の隙間からは、白い岩でできた荘厳な台座、その上に、大きな鉱石のような物が乗っているのが見える。大きさはアドニスの倍程はあるだろうか。色は灰色に濁り、村にあった灯晶塊とは全く異なった印象。


「あれが……」


 ペイルはすっかり気を呑まれたように唾を飲み込む。

 

「進もう」


 アドニスが先頭になり、扉を開けた。鍵はかかっていなかった。

 外側の壁と打って変わり、内側には仰々しい彫刻が一面に施されていた。


「これは…… 灯晶神話かな…… ?」

「わかるのか?」

「ちょっとだけね。ほら、これはたぶん昼の神ヘーメラーが灯晶を造り出し、人々に与えている所だと思う」


 確かに、壁面の一部には、裸体の女性が、ひざまずく人々に対して何かを与えている彫刻がある。アドニスも、灯晶が昼の神によって造られたという知識はあるものの、それを示す資料等を見るのは初めてだ。

 正面の台座に近づく。そこには同じ女性と思しき彫刻。真上の天井には、丸い穴が空いていた。


「そういえば、どうやって光を灯せばいいんだ?」

「それならご安心を。私たちも実践に移すのは初めてですが、灯し方は習いました。一応プロメテウス隊ですので。原理は灯晶術とほぼ同じです」

「そうか。なら、光を灯す作業は任せた」

 

 しかし、どうしたことか。なぜか、ペイルもサラも灯晶塊に近づこうとしない。二人は揃ってこちらを向く。


「どうした?」

「僕はアドニスに光を灯してもらいたい」

「なぜだ? やり方を知っている者がやるべきだ」

「いや、上手く言えないんだけど…… 君が適任だと思うんだ。こんな偉業を初めて成し遂げるのは」

「誰がやっても結果に相違はないだろう?」

「いいや。君がやることに意味がある。僕たちじゃだめなんだ」


 ますます意味がわからない。


「私もアドニスさんにお任せしたいです。私は傍で、それを眺めていたい。灯し方なら、口頭でも伝えられる程簡単なものなので」


 よくわからないが、このまま問答していても埒があかない。アドニスは頷くと、灯晶塊の前に立った。


「まずは灯晶塊に触れて、意識をそちらに集中させます。目は閉じてください。そして、闇を打ち消す強い光をイメージします。他の思考は一切せず、そのことだけを考えてください」


 アドニスはサラの指示に従う。右手で灯晶塊に触れると、頭に村で見た灯晶塊の記憶を呼び起こした。


「そうすると、灯晶塊の創造者である昼の神の残滓が、その人の中に入り込んで来ます。入り込んで来ると言っても、実際はちょっとした違和感を覚える程度で、誇張のし過ぎらしいので…… そうしたら、後は……」


 おかしい。いつまで経っても、続きの言葉が聞こえてこない。ど忘れでもしたのか。

「後はなんだ?」と、アドニスは催促したつもりだった。いつものような発声の仕方で。しかし、発したはずの言葉が耳に届かない。


「おいーー」


 再び尋ねようとした矢先。

 真っ暗な思考の世界の奥から、白い光を帯びた二つの手が、視界を包んでいった。

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