第10話
「じゃあね、アドニスくん。また明日〜」
ローザはひらひらと手を振る。そして、軽快な足取りで、アドニスの視界を横切っていく。
「待て。なんだここは。ちゃんと説明しろ」
「もちろん、牢屋だよ! 悪人を収容しておくための場所!」
内容に反し、ローザは満面の笑みでウィンクまでしている。
アルネブと別れた後の事だ。
彼女の指示によって、アドニスは最下層へと連れて行かれた。そして、「どうぞ〜」と流れるような動作で、鉄格子で区切られたこの部屋へ、まんまと誘導されてしまったのだ。
「悪人? 俺が何をした?」
「ほら、みんなアドニスくんのこと、まだ百パーセント信頼してるわけじゃないから。脱走でもされたら、私たちの首がスパッなんだよね。それで、念のため。特別にノー
「なるほど。じゃあ、強くなるのは明日からか」
「え〜、飲み込み早くない? もっとなんか、『ふざけるな! これが人間のすることか!』とか言って、ヨダレまみれになるくらい鉄格子に噛み付くとかないの?」
ローザは戸惑ったように首を傾ける。
自分は何か普通とは違うことをしてしまったのだろうか。
「副隊長…… あなたは一体何をおっしゃっているのですか……」
さっきから後ろで二人のやり取りを見ていたサラが、より一層困惑した顔で口を挟む。
「え、だって、そういう姿って可愛くない?」
「はっ? か、可愛い…… ?」
「あ、サラちゃんにはまだ早かったかな? 大人の嗜好って感じ?」
「それじゃあ」と、ローザは視界の外へと消えていった。聞こえてくる、唯一階段へと通じる鉄扉が開閉する音。
しばらく口をポカンと開けていたサラは、鉄格子を挟んだ差し向かいにある椅子に腰掛けた。そして、じっとこちらを見つめる。
彼女は見張り役だそうだ。リゼはさっきの部屋に残してきた。
やることもないので、アドニスは隅にあった硬いベッドに座った。周りには、それと簡易便所があるだけの殺風景な牢内。
ふと、顔を上げる。
牢内の奥の壁、その中央よりやや上に丸い穴が空いていた。そこから見えたのは、黒い下地に点々と煌めく白い光。夜空だ。
「ここは本当に冥霧に呑まれてないんだな」
ぽつりと呟く。
「アネモネ。俺は強くなって、お前を助けに行く。それでまた……」
また、一緒に暮らそう。
アドニスはポケットから手帳を取り出した。幸い、荷物や衣服は返還されていた。
「おいお前、サラと言ったか」
いきなり話しかけられ、サラは少し肩を浮き上がらせた。
「俺に感情を教えてくれ。アネモネを助けるまでに、少しでも覚えておかなければ」
「あ…… えと……」
サラはなぜか当惑したように、視線を
「しゅ…… すみません」
先ほどまでの
まるで別人だ。
「なんなんだ…… ?」
結局よくわからないまま、夜を明かすことになった。
その夜の間中ずっと、隣の牢屋から、男のくぐもった笑い声が聞こえていた。他にも囚人がいるらしい。
明朝から、アドニスの研究が始まった。
まず、サラと交代で、アルネブとローザがやって来た。
二人に連れて来られたのは、アドニスが目覚めた解剖室。そこで、衣服を脱がされ、皮膚を触られたり、頭髪の一部を採取されたり。全身のありとあらゆる場所を、隈なく調べられた。微細な産毛や、爪の精巧さ、それに生殖器が再現されていることに、二人は酷く驚いていたようだ。
それが終わると、次に始まったのは質問の嵐。呼吸の有無から口にするのも
研究が進むにつれて、二人の表情は難しいものへと変わって行った。
「とりあえず一旦切り上げるか」
アルネブがそう言った時には、研究開始から既に四、五時間が経過していた。
「そうですね。さすがに私もクタクタです。この後、清書と偽報告書も作成しないとですし。だる〜」
研究の記録を紙に書き留めていたローザが、少々汗ばんだ顔を上げる。積み重なった紙は全部で二、三十枚に及んでいた。
「何かわかったか?」
服を着ながら、アドニスが尋ねる。正面にいるアルネブは腕を組んで、小さく唸った。
「わかったこともある。が、それ以上に謎が増えたっていうのが正直な感想だな」
「全身のほとんどを構成してるのは、たぶんレウケの木辺りの、冥霧内に自生する頑丈な木だと思うんだけど……」
ローザは目を細め、紙をペラペラとめくっていく。
「問題はそれを覆ってる皮膚。感触は人間のものと
「加えて、切断された脚の中は、ただの空洞ときた。何か細工が施されてるようにも見えねぇ。あれでどうやって体を動かしてやがるんだか」
「ねえ、アドニスくん。あなたのお父さんって、一体何者なの?」
二人の視線がアドニスに集まる。
「さあ。親父との記憶は一年分しかないし、あいつは冥霧に入り浸りだったからな。だが、"しがない技師"、あいつはよくそう言っていた」
「しがないねぇ…… 謙虚もここまでくると、さすがにイラッとするぜ」
アルネブは強張った笑みを浮かべる。
だが、アドニスの記憶の中のウルカヌは、本当に"しがない技師"であった。自分を作った事以外に、何ら功績を残していない。村の人間には、働かない怠惰な人間だと度々罵られていた。
『あぁ、失敗だ……』
ふいに、懐かしい声が蘇った。アドニスが覚えている最古の記憶だ。
「ねぇ隊長。私たち結構ヤバいこと調べてません?」
「なんだお前さん。今になって怖気付いたか?」
「まさか、その逆です! 私今、人生で一番ときめいてるかもしれません! これってもう恋ですよ!」
「あぁ、そうだな…… お前さんがヤバい奴ってこと忘れてた……」
アルネブは逃げるようにこちらに近づいて来た。そして、数度咳払いをすると、ニヤリと笑った。
「さて、次はお待ちかね。お前さんを強くする時間だ」
「ようやくか」
アドニスたちは別室へと移動することになった。それは同じ階の通路の突き当たりにあり、他よりも一回り大きな扉で閉ざされていた。
中はかなり広く、解剖室の十倍程はあるだろうか。端っこには、実験器具や書物から、剣などの物騒な物までが無造作に置かれている。中でも特筆すべきは、部屋中央を四角形に囲んだ太い鉄格子。これのおかげで、外側は数人が並んで通れる位の幅しかない。
「さあ、中に入れ」
アルネブは鉄格子の中へと通じる扉を開け、自らも中へと入った。ローザはというと、外側の台の上でパンをかじっている。
「これは牢屋のようだが」
「まあ、似たようなもんだな」
実に雑な説明だ。
「まずは小手調べだ。あれに攻撃してみろ」
アルネブの尻尾が示す先。そこには大きな岩が置いてあった。
「それで強くなるのか?」
「ああ。まあ、せいぜい拳が真っ赤にならないように、気をつけろよ」
「わかった」
アドニスは岩の前に進み出る。外からローザのゆるい声援。
彼は右手を握りしめた。そして、一撃。響く轟音。
「ほわぁっ!?」
アルネブが叫ぶ。
岩は真ん中から上が、粉々に吹き飛んでいた。
「おいおいおい、まさかこんな派手にぶっ飛ばすとはな……」
「壊してはいけない物だったか?」
「いや、正直邪魔だったからな。どかす手間が省けたってもんだ」
アルネブは余裕そうに呟くが、その目は破壊された岩に釘付けになっていた。それに、尻尾が左右に凄い勢いで揺れている。
「ちょっと〜。砂っぽいのがこっちに飛んできたんですけど〜」
鉄格子の外から、ローザの文句が飛んでくる。
「いいね。お前さん、気に入ったよ」
アルネブはモフモフの手を重ねて、硬い骨の鳴る音を響かせる。いや、よく見ると、彼の拳からは赤い結晶が生えてきているではないか。やがて、それは拳全体を覆った。
「これからガチの戦闘訓練を通して、灯晶術のなんたるか叩き込んでやる。準備はいいか?」
「ああ、俺はいつでもーー」
言葉の途中で、「あ」とアドニスは体勢を崩し後ろに倒れていく。
何が起きたのか。足元を見てみると、大きな岩の断片が彼の足に乗っていた。
急に辺りが静まり返る。
「俺が作った雰囲気返して…… ?」
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