僕/私の七日間
きぃつね
一日目 会ってしまった
これは六ヶ月も前に起きたこと。まだ若かった頃の話だ。
人はなぜ海に来るのだろうか。
そう訊ねたならば、十人十色、色んな答えが返ってくるだろう。
家族で遊びに、友人と楽しむために、新しい恋を実らせるために。
動機は様々、だが理由もなく海へ来る人などいないはずだ。
たった一人を除いて。
灼熱の太陽が容赦なくその光線を地面へと照らしていた夏の猛暑日、貴浩はメモを片手に店の注文を取っていた。
ペンは汗で滑り、メモ紙も目に入った汗で滲んで見える。
「この焼きそばってどれっくらいの量ですかぁ」
鼻につく声をした女がメニューにある焼きそばをつついている。
この店自慢の焼きそばだ。店長いわく特製タレと紅ショウガに美味しさの秘密があるらしい。なので、味を聞かれるのはともかく量を聞かれたら何と答えようか。
「普通ですね」
――グラムで答えるべきだったか。いや、具材の量は店長のさじ加減で変わるからな正確なグラム数は分からないな。
「んじゃぁ、私はこれで。ミコミコはどうする」
――そんな適当な答えで良いのかよ!
貴浩が内心で激しく突っ込んだ反面、二人組の客は注文を続ける。
「私はイカ焼きとアメリカンドッグで。あと、ビール」
「えー、じゃぁ私もビール飲んじゃおう」
「シズシズはお酒弱いんだからほどほどにしなよ」
見たところ、二人は二十代前半といったところだろうか。
小さなビキニがなんとか溢れんばかりのバストを抱えている。
貴浩は何気ない動作で視線をそらすと、厨房に向かってオーダーを叫んだ。
奥から店長の返答が聞こける。
「ねぇねぇ、お兄さん。私たちさぁ、二人で来てるんだけど、このあと一緒に遊ばない」
「本当は男友達と来るはずだったんだけど、ドタキャンされちゃったんだよね。私たち可哀想じゃない」
猛獣のような眼差しで己の肉体が舐め回すように観察されていることに呆れ、貴浩は友人から「女キラー」と呼ばれている営業スマイルを浮かべた。
大変不名誉な名前が付けられているスマイルだが、その効果は絶大だ。
「申し訳ありません。私はここで働いておりますので、ご注文以外のプライベートなお誘いは全て断らせて頂いております」
すると、シズシズと呼ばれている方が頬を羞恥で染め上げ、目を怒らせた。
どうやら自分の容姿に相当な自信があったようだ。断れるとは思いもしなかったのだろう。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
面倒を避けるため席を離れて少ししたところで、貴浩は二人の女性客にお冷を出すのを忘れていたことを思い出した。
あの二人が用意周到に水筒やペットボトルを持っているとは思えない。それに自販機の飲料氏はこの時期、いつも売り切れている。
「熱中症で倒れられたら店長に申し訳ないな」
お客様第一主義を日頃から掲げている店長だ。もし客の一人が熱中症で緊急搬送されたら、海の家を閉じかねない。
「オトヨさん、3番卓にお冷出すの忘れてしまったので、4番卓のオーダーを取ってもらえますか」
「貴浩くんがうっかりミスをするなんて、今日は午後から雷雨にでもなるかね」
「すみません」
「ええよ、私だって働かなくちゃね」
店長の母親でおそらく一番の常識人であるオトヨさん。
すでに還暦をすぎてはいるが、その足腰は衰え知らずで仕事も早い。
貴浩のようなバイトにまで優しく接してくれる人格者だ。
さっぱりと割り切った性格は長年、ここの美しい海を見て育まれたからだろうか。
「氷入れすぎたらお腹壊すかな…って俺が心配することでもないか」
お盆にコップ二つとポットを載せ、覚悟を決めた貴浩は再び座席へと向かった。
その時、二人連れの客が「海」とダサい文字で、店長によれば味のある字で、書かれた暖簾をかき分けて入ってきた。
「いらっしゃい…….」
太陽の精がそこにいた。
白色のオーバーウェアを羽織り、ゆったりとウェーブのかかった髪を濡らしている。
笑窪が特徴的な人だ。
日焼けを知らない肌の色が眩く、大人びいた仕草には気品があった。
「い、いらっしゃいませ」
尻すぼみになった貴浩の声だったが、どうやらその客たちには聞こえたようで、微笑みと共に軽く会釈が返ってきた。
「空いているお席にどうぞ」
――何をやっているんだ俺は。水着の客ぐらいどれだけ見てきたんだよ。
どうやら昼食を食べにきたのではなく、何かをレンタルしにきたようだ。
ここはビーチパラソルやビーチボール、浮き輪にビート板、更にはダイビンググッズまで幅広く貸し出しを行っている。海の透明度が太平洋側随一と知られているこの海ではスキューバダイビングが盛んに行われていた。
もちろん、ライセンスが無ければ水深12mしか潜れない。だが、それでも十分楽しめるほど様々な海洋生物を簡単に観察できるのが一番の売りだ。
と断言できるのも、貴浩がダイビングインストラクターを努めているからに他ならない。
王道のカクレクマノミから小魚の群れ、運が良い日はマンボウやウミガメも見ることができる。
初心者からベテランまで思う存分楽しめる、それこそが貴浩の愛してやまない生まれ故郷にある海だった。
「お冷をお持ちしました」
可能な限り目を合わせずに、テキパキとした動作で貴浩はコップを配った。
そして話が始まらないうちに足早に立ち去ると、例の二人が貸出所で店員を呼び出すベルをちょうど鳴らした。
店長は厨房で働いるためベルの音が聞こえないだろう。そしてオトヨさんは別の客への対応に追われている。
ここは貴浩が対応しなくてはならない。
気を引き締め、貴浩はレンタル専用の受付に行くと笑顔で二人を迎えた。
「お待たせしました。何かお手伝いできることはありますか」
「ワンデイダイビングの予約している篠原という者です」
予約表をパラパラとめくり、予約を確認する。
繁盛期。大勢の客が多種多様な海水浴グッズを予約していくため探し出すのは至難の業だが、今回は早く名前を探し当てることができた。
「失礼しました。二名様でご予約の篠原楓様と萩谷玲音様ですね」
「はい」
笑窪が魅力的な方は篠原楓というらしい。
それより少し上背があり、男勝りなボブカットが萩谷玲音だ。
片や深窓の麗人、片や明朗快活な美人。
対象的な二人ではあるが、貴浩にはとても仲睦まじそうに見えた。
「私は本日のインストラクターを務めます吉田貴浩です」
朝、店長からダイビングの予約があると言われていたのだが、忙しさのあまりすっかり忘れていた。
確かに今日はダイビングの予約が一組だけ入っていたのだ。
「既に料金はお支払い済みと伺っておりますので、まずは裏手に取り揃えてあるダイビングスーツにお着替えください。終わりましたら、ダイビングのご説明をいたします」
「はい。よろしくお願いします」
どうやら萩谷は何やら面倒ごとがあるらしく、スマホを険しい顔つきで眺めていた。
そんなことは他所に貴浩の心は高鳴っていた。
決して客が視線を奪われるような美人という理由だけではない。
ただ、ダイビングに興味を持ってくれる人がいてくれて嬉しいのだ。
「少々、お待ちください」
若干、客の波が引いてるとはいえ無言で行くわけにもいかない。
貴浩は断ってから、この海の店を取り仕切っている店長の元へと向かった。
「店長!ダイビングのお客様が来られたので僕は一旦、そっちを優先しますね」
夏日の厨房はまさに絵に描いたような地獄だ。
10年物のエアコンが激しく唸り声を上げているのだが効果はそれほどもない。
三口コンロの前で仁王立ちになり、Tシャツの背中を汗のせいで張り付かせている店長が振り返らずに答えた。
「もうすぐしたら昼時も過ぎるし大丈夫だけど…お願いだからお客様に怪我がないように細心の注意を払ってくれよ」
「僕が事故を起こしたことがないのは店長も知っていますよね」
「慣れた頃のなんとやらだろう」
「はいはい、それじゃ倉庫の鍵借りますね。昼食は適当に食べるんでまかない飯はいらないです」
「鍵も無くなさいでくれよ。あと器具も大切に扱ってくれ、頼むから。あと…」
そろそろ本格的に面倒になってきた貴浩は店長の気を遮るように伝票を押し付けると、受付に戻った。
萩谷という女も用事が済んだのか、店のお土産コーナーを物色している。
「お待たせしました。それでは、ご案内しますね」
夏の昼間。
こうして貴浩と二人の客はダイビングに乗り出したのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
よく、テレビなどでダイビングの特集番組があると、船を使って沖合まで行く様子が映像として流れることが度々ある。
だが、それは予算のあるテレビ局だからできることだ。
集客が良ければ船を出すこともあるのだが、二人しかいないで船を出せば確実に赤字だ。
良くてボートだ、手漕ぎの。
「今日、お二人にはビーチから海に入るビーチダイビングという方法でエントリーしてもらいます。初心者の方にも楽しんでいただけますし、ここでは浅瀬でもサンゴ礁や熱帯特有の魚をご覧いただけますよ」
「私は経験者だけど楓は潜ったことないんだよね」
ボブカットの萩谷玲音はどうやら経験者のようだ。
人を見た目で判断するのは違うが、スポーティーな感じがするのは間違いないだろう。
「シュノーケリングならしたことがあるのだけど、酸素ボンベを使うのは初めてね」
「もしかして萩谷さんはライセンスをお持ちなのですか」
「高校生の時、AOWを取得したのですがそれ以降潜ってないので楓とあまり変わらないですね」
AOW-アドバンスウォーターダイバーはダイビングライセンスの一つで初心者が初めに取ることになるOWD-オープンウォーターダイバーより一つ上のライセンスだ。
水深30mまで潜れるため、一般的なダイバーはAOWまで取得している。
「ええと...吉田さんはOWSIも取得されているんですよね」
「お詳しいのですね萩谷さんは」
貴浩はインストラクターであるため、OWSI-オープンウォータースクーバインストラクターという資格を取得している。
様々なシチュエーションを想定した難易度の高いダイビングを最低でも60回する必要があるOWSIは今回のようなビーチダイビングには少々、過剰と言わざるを得ない。
「海は好きだからね。だから、私より楓のほうを見てやってくれないかな」
「い、いいよ。私だって泳ぐのは得意なんだから」
「プールでしょ」
「そうですね、プールと海は似ても似つきませんから油断は禁物です。ダイビング中は篠原さんと一緒に行動させていただきますね」
自分で言っていた気恥ずかしくなった貴浩は次の言葉をつむげなかったが、どうやら篠原も何か思うところがあったらしい。
少し首を傾けている姿は楚々としており、貴浩はクラッと意識が飛びかけた。
「...そ、それではボディスーツを選んでください。サイズは豊富にあるので、試着してみてください」
「そのボディスーツはどこに」
「あ、ここの扉から入って右手側が女性用のボディスーツです。奥に進むと更衣室があります」
「選び方のコツとかはありますでしょうか」
「そ、その...」
――どうしたんだ、俺は。いつものように笑顔を貼り付けて、言えばいいだけだろ。
貴浩は数秒間、悶えたのち覚悟を決めた。
「首、手首、足首がピッタリとしているものがベストです。それとポイントになるのが胸囲ですね。もし息苦しく感じるなら一つ上のサイズに変えるのをオススメします」
「あ、ありがとうございます」
萩谷さんの方はどのサイズでも大丈夫だろう、だが篠原さんは...
などと失礼なことを考えながら、貴浩は酸素タンクの用意を始めた。
タンクの容量としては40分前後を想定しているのだが、初心者は呼吸が荒くなるため30分弱を想定したダイビングコースを頭の中で練る。
クマノミ、真っ白な海底、サンゴ礁ーこの三つは外せない。
最近は海流が穏やかになり遠くにまで行けるのだが、初めて潜る人間がいる場合は思わぬ事故につながる恐れがあるため無理はできない。
手際よくタンクを用意すると、防水カメラを自分のポケットに入れる。
「俺も早く着替えよう」
貴浩はハンガーにかかっている自分のボディスーツを掴むと簡易トイレに駆け込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
総じて言えばダイビングは何の問題も起こらずに、スムーズに運んだ。
合計で三回潜ったのだが、萩谷はやはりクマノミを、そして篠原はタツノオトシゴを気に入ったようで最後はタツノオトシゴをモチーフにしたストラップを購入したほだどだ。
「今日はありがとうございました。どうでしょう、楽しめましたか」
「ああ、とっても」
「私もとても楽しめました。吉田さんの説明が丁寧だったおかげですね」
「それは良かったです。そう言っていただけるのはインストラクター冥利に尽きますね」
事実、年々ダイバーの数が減少しており、深刻な問題となっている。
インストラクターの平均年齢が上昇しており、さらには貴浩のようにインストラクターをしている者ですらショップなどを経営していない限り、職としては安定しない。
「今日は近くに泊まられるのですか」
昼から午後にかけての予約だ。近場に宿を取っているのだろう。
「少し離れたところにある緑園荘という温泉宿に宿泊する予定です。ここから送迎が出ているみたいななので楽で良いなって思ったんです」
――それって
「なるほど…それでは、ご案内しますね」
「ん、どういうことだ」
休憩を挟んだ三時間のダイビングで萩谷の口調は随分と軽くなった。
だが、その方が貴浩も気兼ねなく話せて、無駄に緊張せずにインストラクションを行えた。
「その宿、自分の両親が経営しているんです。自分が送迎を担当しているので車までご案内しますね」
ポカンと呆けていた二人だったが、どうやら貴浩が緑園荘でも働いていることがようやく呑み込めたらしい。
「海の家は繫盛期だけ手伝っていて本業は宿の方なんです。といっても、ツアーリングを主にしているんですけど。あ、荷物はお預かりますよ」
「別にこれくらい大丈夫だ。そのツアーリングっていうのは今の時期もやっているのか」
「ええ、山岳に入って自然を満喫するものですね。バードウォッチングから虫採集まで幅広く行っていますよ」
「虫は別にいいかな。おい、楓。体調が悪そうだが大丈夫か」
「ちょっと、疲れてしまいました。やはり日頃の運動不足が原因ですかね」
「それでしたら荷物をお持ちしますよ。ダイビングは普段使わない筋肉を酷使しますからね。私でも日に数本潜れば夜はもう身体が動きませんよ」
見た目からは想像もできない重さをした篠原のバックを抱える。
貴浩は自分の母親が旅行に行く際に持ち歩いている巨大なボストンバッグを思い出し、それに比べたらマシかな、という感想を抱いていた。
「ご宿泊は数日間のご予定ですか」
「一週間泊まる予定です。ゆっくりと自然を楽しみながら」
「そうですか。ここはネイチャースポーツも盛んですし、一週間では遊びきれないぐらい豊富なレジャースポットですよ」
「そうなんですよ。だから私達、夏にここに来ようねっていう話になったんです」
「ぜひ、楽しんでください」
一週間は七日間。
たった168時間。
だが、どうしてこんなに心躍るのだろう。
少し後ろを疲れたような表情で、しかし満足げな表情で歩いている彼女の姿は……
なんで、こんなにも揺さぶられるのだろうか。
思わず営業スマイル以外の何かが表情筋を動かした。
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