拝啓、エスメラルダより

海老名 点睛

第1話『その名はテオ』


 目が覚めて最初に目に飛び込んできたのは、無限に広がる荒野だった。


 歩いても歩いても、生き物の気配は全く感じられず、緑だってどこにもない。


 つい、いつもの癖でスマホを取り出して画面を開いた。圏外。


 当たり前だ、電波塔がないんだ。荒野を抜ければ繋がるか?と聞かれたなら、ありえないと答えるほかない。


 ここは俺が生まれ育った世界ではないのだから。俺は事の経緯を思い出す。



 ◇



 俺のかつての名前は沖野ハヤテ。日本で暮らす25歳の、ごく普通の詐欺師でしかなかった。


 ここへ来る転機となった場所は、仕事帰りの駅のホーム。


 何か特別なことが起きた訳じゃない。たまたま酔っ払いに突き飛ばされただけ。


 迫る列車の前に投げ出された俺は、死の間際、人を騙しに騙し続けたツケを払う時が来たんだな、と考えるくらいの猶予しか与えられなかった。……のだが。


 まさに列車に轢かれるその瞬間、世界が止まった。


 モノクロに反転した静寂の中、投げ出された俺の体は貼り付けられたかのように、宙に吊られたままだった。


「あーあー、聞こえますか?私は女神です」

 緊張感のない声が脳内に響く。


 女神ですかそうですか。今まさに死にそうなわたくしめを救ってはいただけないでしょうか?


「そう!私は女神エスメラルダ。理解が早いのは素晴らしいことですよ!敬いの心もしっかりと抱いていますね、よしよし!えらいぞ人間くん!」


 馬鹿にしてんのか?つか喋ってないのに心の中を読むなよ……。


 土下座でも靴でも舐めるんで早いとこ助けて下さいよ。


「助けますよ?じゃなきゃこーんな面倒な事しませんからね。時間止めるのって疲れるんです。あーあ、誰か私を崇め奉ってくれないかなー?このままだとせっかく止めた時間が動き出してしまうかもしれませんねー?」


 ……エスメラルダ様は最高です!よっ!女神の中の女神!どうして俺は今まで女神様の名を知らずに生きてきたんだろう?後悔しかないぜ!


「うーん、持ち上げられて悪い気はしませんね。及第点」


 ………暇なんすか?


「まあ暇ですね。そもそも、この世界の管轄ではないのです。とはいえ、私は今気分が良いのでしっかりと説明してから転移させてあげましょう」


 気分で説明しない時もあるのかよ!最悪だなこの女神!?


 ……じゃなかった、さすがエスメラルダ様!この矮小わいしょうなるわたくしめに温情を掛けてくださるとは!それで転移とは何でしょうか?


「くぅ〜ッ、やっぱり生信仰はキくわね!最ッ高に気分が良いですよ!もちろんお教えします!」


「おほん。まず、あなたがこの世界で生き延びる事は不可能です。本来ならばここで亡くなるのがあなたの運命でした」


 まあそうだよね。じゃなきゃ女神様が出てくる必要もない。


「そこで。この女神エスメラルダが治める世界に連れて行ってあげよう!というのです」


 ……おぉ、態度からは想像もつかないほどの大サービスですね!


「えぇ!そうでしょうそうでしょう。もっと感謝しなさい人間くん!」


 ありがとうございます!女神様は俺の命の恩人です!


「ふふふ、よせよせ。ただ、私が勝手に自分の世界へ異邦人を呼び込むのは、神々のルールに抵触します」


 ……ん?大丈夫かなこの人?


「ですが安心なさい、これは例外です。まず私の世界には、限られた人間のみ扱える異能スキルを持つ者が存在します」


 すごいですね。全員ではないんですね?


「ええ。そして近頃、異能スキル持ちの中から、他の世界の人間を召喚する能力を持つものが現れました」


 ……なるほど。俺が転移できるのはそのスキルの恩恵って事ですか。


「正解です。女神特製ストラップを特典に差し上げましょう」


 いらねぇよ。何の特典だよ。


 ところで異能スキル持ちが限られるって事は、俺はスキル無しで転移するんですか?


「良い質問です。結論から言いますと、スキル貰えますよ!良かったですね人間くん!まあ詳細は召喚してくれた人に聞いてみれば分かるでしょう」


 ……わざわざありがとうございました。もういいですか?


 会話だけで疲れ……いやいや、早くその世界に行きたくなってしまいました!やっぱり女神様の治める世界は凄いなあ!


「ははは、くるしゅうない。それはともかく、最後に大事なことが残ってますよ人間くん!向こうでの名前を決めましょう!なまえ!!」


 ……元気だなぁ、この人。


 俺の中で関わりたくない神様ぶっちぎりでナンバーワンに輝いた女神、エスメラルダとの問答もこれで最後だ。


「人間くん、いまのお名前は?」


 ……沖野ハヤテです。


「ふむ……。オキノハヤテ、ハヤテオキノ。あ、ハヤオキくんとかどうでしょう?勤勉そうですし良い名前です!三文の得ですよ!」


 いい訳ねーだろ。この人段々面倒になってきてない?


 女神の気まぐれでいつ時間停止も解かれるか分からないし、さっさと決めてしまおう。


 ……じゃあテオにしてください。


「ハヤキノ、でテオですか。まあ良いんじゃないですか?じゃあそれで」


 ……………。


「こほん。異邦人テオよ、女神エスメラルダはあなたを歓迎します。それでは良い旅を」


 その言葉を最後に、俺の意識は途切れた。



 ◇



 ここまで振り返ってみたが、ロクな思い出じゃないな。嫌なことを思い出したせいで、気分まで最悪だ。


 最初、俺はどこかの街に転移するものだとばかり思っていたんだが……想定が甘すぎた。


 そのうえ俺を召喚した人間も分からない。転移した時点で近くにいるはずだと思っていた。


 思い込みってのは恐ろしいね。当面の目的は人探しになりそうだ。


 全部ちゃらんぽらんな女神様のせいにしたくもなったが……。話をさっさと切り上げたいあまり、転移直後のことを何も聞かなかった俺のミスだ。


 まずは荒野を抜けて、話の通じる人間を探さなくては。そう思い、一歩を踏み出したその時。


「よお。兄ちゃん」


 俺は、この世界で生き延びるという事がどれほど難しいか、その身で思い知る事となる。

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