星月夜
朝乃雨音
星月夜
※星月夜
1・月が出ておらず、星だけが輝いて見える夜。
2・オランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画。
「ここが武蔵野だよ」
「ここが? あの?」
「あぁ、あの武蔵野だと思うよ」
友人と話しながらそれを見たとき、正直私は酷く気落ちした。
それほど期待していた訳では無いが、それでも、もう少し何かそれらしい物が残っているだろうと私は思っていた。
しかし、そこにあったのはただの公園だった。
確かに土地は広く木々も多く生えてはいるが雑木林とは決して呼べず、況してや山田美妙や国木田独歩が描き、歌人が詠んだ絶景の趣はかけらも残ってはいなかった。
平原でもなければ雑木林でもない。武蔵野と言う名の公園がそこにはあったのだ。
「不服そうだね。顔に出てるよ」
友人は私の様子を窺いながらそう言った。
「まぁそうだね。僕の知ってる武蔵野とは遠くかけ離れてるから正直ぼやきたくもなるよ」
「でもせっかく来たんだから少し中を見て行かないかい?」
「あぁ、そうだな。せっかくだし見ていこうか」
友人に誘われた私はがっかりとしながらも、武蔵野には変わりないと割り切って武蔵野と呼ばれる公園へ足を踏み入れた。
公園へ入ると同時に青い匂いが鼻を抜ける。夏を主張する日差しはアスファルトを焦がし、晴天の下には広場で遊ぶ子供の声と林で叫ぶ蝉の声が響いていた。
本来騒がしい筈であるその喧騒は、広い公園に紛れ林にこだましていた為にそこまで五月蝿くはなく、むしろ心地よかった。
その様相に私は驚いた。
原野の武蔵野のような雄大さや林の武蔵野のような壮麗さは無いが、茫漠としたノスタルジアの気配を私はその公園に見つけたのだ。
ただの公園であるはずだが何かが違う。初めそれは、武蔵野という名前に引っ張られているだけだろうと思ったが、公園内を歩くとどうもそれは違うようだと気づいた。
時折見せる、まるで夜中に一人で地元の街を歩いているかのような寂れた哀愁が私の心を惑わしたのである。
一体この公園のどこにそのような懐かしさを孕んだ哀愁があるのだろうかと気になった私はその要因を探そうと歩き回ったが、終ぞその答えを見つけることは出来なかった。
「そういえば、ちょっと行ったところに同じように武蔵野って名前がついた林みたいな場所があるみたいだけど、そっちにも行ってみるかい」
ベンチに座り、お茶を飲みながらこの哀愁こそが武蔵野が持つ魅力なのだろうかと思い耽っていた私に向けて友人がそんな事を言い出した。
「本当か?」
「あぁ、ちょっと距離はあるけどバスや電車を使えばすぐの所にもう一つ有名な武蔵野の観光地? みたいな場所があるんだ。予定にはなかったけどそっちも行ってみるかい?」
「行ってみたいな」
友人の提案に私はすぐに答えを返した。
この公園で感じたノスタルジアの気配。その正体に私は少なからずやきもきとした感情を抱いていた。何がこんなにも引っ掛かっているのかは私にも分からない。しかし、だからこそ今はまだ見えて来ない武蔵野の土地が持つ何かに私は引き摺られてしまっていたのである。
もう一つの武蔵野へ行けばその何かが見えてくるのでは無いか。期待して私はその土地へ向かった。
電車を乗り継いで街の中を進んだ先、住宅街の中にその林は現れた。
「ここだよ」と、言って友人が案内した林は住宅に密接しており、街の中では非常に浮いた存在であった。
林の端にある小さな遊び場には遊具が設置され、道もしっかり整備されているため雑木林というよりは作られた林の景観といった印象が強いが、先ほどの公園よりは武蔵野のイメージに近い。
木々の間に敷かれた細道や無造作に置かれたように見える腰掛け石も庭園のように洒落た配置になっており、遊べる公園とは違い景色を楽しむ林となっているのが分かる。しかしながら、土地は数分で横断出来るほどに狭く少し目を凝らせば近くの民家が見えてしまうため、壮観美麗と呼ぶにはあまりに日常に密接し過ぎていた。
私と友人は静かにその林を歩いた。
鳴り響く蝉の声と時折聞こえる車の音。林の中で立ち止まって目を閉じると、私は再びノスタルジアの気配を見つけた。
それは、やるせない懐かしさである。
もう二度と戻る事が出来ないあの頃。何も知らず、だからこそ最も空に近かった童心の景色が目の前に広がった。私は一面の青草の中に一人で立ち、今にも届きそうな蒼天に浮かぶ雲を掴もうとして手を伸ばし拳を握った。
そして私はゆっくりと目を開ける。
握った拳の中に雲はなく、私は手の平を数秒間見つめた。
「どうだい、何か見つかったかい?」
友人の言葉に私は首を横に振った。
「もう少しで掴めそうなんだけど、上手い具合にするりと交わされてしまうよ。……でも来て良かった。どうやら武蔵野には僕が求めていた物があるみたいだ」
「それは良かった。それで、どうする? 入間も行ってみるかい?」
「あぁ、ここまで来たら入間の方も見てみたい気持ちが強くなったよ」
「よし。じゃぁ向かおうか。前に話していた吾野の方でいいかい?」
「任せるよ。僕はこの辺の地理には詳しくないからね」
吾野に着いたのはもう日が暮れ始めた頃だった。
駅は閑散としており、先ほどまで居た都会の喧騒とは程遠い大自然が辺りには広がっていた。
私は友人に連れられ、森へ向かって歩いた。
駅のすぐ近くにある橋を渡り、二つ並んだ学校の横をまっすぐ進んで森に挟まれた細道へ入る。細道の両側にはぽつぽつと民家が見えていたが、更に進むとそれも無くなった。
それから、永遠と広がる森の中を私と友人は歩いた。
見間違いようなく、私が歩いていたのは林であった。舗装された道は所々が割れており、擁壁やガードレールには苔が覆う。
影を持った雲は山の上に横たわっていた為に星はよく見えた。
そんな大自然の中で、私は立ち止まって目を閉じた。
日も沈み暗くなった林は静かで、とても涼しかった。
そして武蔵野が姿を現したのである。
満天の星と億万の青草を照らす満月が見える原野の武蔵野。私はオミナエシやムラサキの生えるその草原を駆け回り、ふと立ち止まって空を見上げた。
そこにあったのは手付かずの大自然であった。
空と大地は一枚の絵になるほどに密接していて、満月は全てをさんさんと照らし出している。
私はそこに際限無い器の大きさを見た。
そこで初めて、あぁ、これこそが武蔵野の美しさなのだ。と、私は理解した。
彼はまだ知らないのだ。これから様々な人と出会い、林へと成長し、街へと変貌する事を。
しかし、だからこそ彼は私に哀愁を持ったノスタルジアを感じさせ、可能性を持った童心を思い起こさせたのである。
瞼を上げると平凡な林が眼に映る。
平凡な林になってしまったからこそ、詠まれ書かれた過去の武蔵野が瞼の裏で光り輝く。
武蔵野の中で、私は唯一無二の雄大な過去に浸っていたのだ。
決して戻る事の出来ない英雄だったあの頃に武蔵野を重ねていたのである。
武蔵野には哀愁が漂う。まるで草臥れた中年のような哀愁。だが、その哀愁こそが武蔵野の美しさであるのだろう。
月望む/原の武蔵野/何処へと/星月夜の下/思い語らう
私は社会を生きる中で過去に憧れてしまっていたのだろう。しかし、もう大丈夫だ。同じように過去を持つ武蔵野が教えてくれる。
武蔵野、それは英雄だった過去を持つたった一人の一般人なのである。
「そろそろ戻ろうか」
私は友人にそう言った。
「正体は見えたのかい?」
「あぁ、彼も僕と同じただの人間だったよ」
その言葉に、友人は静かに笑った。
星月夜 朝乃雨音 @asano-amane281
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