第八章 金魚撩乱②

「珍しいね」


そう声をかけたのは、彼女が珍しく漫画を読んでいたからだ。国語科準備室に放置していた資料集を取りに立ち寄ったそこで、放課後の茜色の差し込む教室の中、窓際で秋風に髪を靡かせる彼女がいた。彼女の横顔の少し奥にある窓枠が、絵画の額縁のようで美しかった。その視線の先、白くて細い手の中にあるのはいつもと変わらず本だと思っていた。しかしそれは違って、彼女の手の中にあったのは一台のスマホだった。冒頭の言葉をかければ、ふとこちらを向いて柔く微笑む。「莉子ちゃんに薦められたので」と画面の中にまた視線を戻した。「夜永さんはどうしたんですか?」の問いに目的を応え、そしてお目当ての資料集を手に取った。そして流れるように私は、彼女が座っている長机の対面へ腰を下ろした。

古びたパイプ椅子が怖い音を立てても彼女は動じない。もう私なんて、彼女の興味の扉の外側なのだろう。スマホの画面をスワイプする指先から目が離せない。対面に座った私に数十分後に気付いた彼女は、少し照れくさそうに気まずそうに謝ってからスマホを閉じた。まだ物語の余韻に浸っているのか、伏せられた瞳は蕩けていて、その表情自体がどこかうっとりとしていた。この彼女の表情を、私は今独り占めしている。その事実がどうしようもなく心地よかった。「どんなお話なの?」と私が問えば、待ってましたと言わんばかりに言葉を紡ぐ。光の灯った黒曜石が西日の光と乱反射して、なんとも言える耀きを持っていた。


「金魚撩乱は岡本かの子が著した小説です。簡単に言ってしまうとこの話は、美しく成長した幼なじみの真佐子に挑発さて、美しい金魚を作りだそうと、一心不乱に努力をする青年の話です」

「恋愛小説ってこと?」

「そうですね」


意外だった。彼女はそういった類のものは読まないと思っていたからだ。「主人公の復一金魚屋の息子です。幼少期は幼なじみのご令嬢である真佐子をいじめていました」と言いかけて彼女はのニカを思い出したかのように言葉を止めた。そしてふっと、表情を柔らかくして無邪気に笑った。小学生の子供が友達と談笑する時に浮かべるような、そんな笑顔だった。それは私が初めて見る種類の笑顔だった。きょとんとして、そして見とれてしまった私の彼女は説明した。その内容は出来れば、聞きたくなかったものだったけれど。

「ごめんなさい。そういえば白峰君に小学校の頃、似たようないじめられかたしたなと思って」なんて、そんな声でそんな笑顔で聞きたくはなかったよ。そんな私の心を置いてけぼりにして話は進む。だんだん美しくなり手の届かない人になってしまった真佐子への愛を、やがて復一は金魚作りに対する熱へと変えていく。復一は彼女を自分のものにしたいという支配欲を、彼女のように美しい金魚を作るという熱へ変えていった。 しかし目当ての金魚を作り出すことはなかなか出来ず、そんな中で彼の家は大雨の被害を受けて金魚の水槽などが流され彼は一度落胆する。


「そんな水槽の中、失敗作にまみれ、大雨で壊された中に彼は光をみます。そんな酷い状態の水槽の中で目当ての美しく華やかな金魚が誕生していたんです。…見つけたところで物語は終わってしまいます」


話し終わった彼女は机に放り投げられたスマホの画面を撫でながら、心底楽しそうに「ふふふ」と笑う。話題はそんな金魚撩乱を原作とした漫画の方へ移っていく。窓の外では空が暗くなり星が瞬き始めている。それを見上げて気付いた。今日が満月なことに。窓の外へ向けていた意識が彼女の方へ戻る。彼女は変わらぬ笑顔のまま話し始めた。


「漫画と小説の違いは二つ。復一の交友関係、真佐子との肉体関係」

「…どう違うの?」

「まず漫画の中の復一には同性の親友がいます。その親友は復一へ恋慕…と呼ぶには強い、執着でしょうか?そんな感情を抱いています」


自分でもわかるくらい脈が早くなる。冷や汗が背中を濡らしていく。もう暑くないはずなのに、自分が吐く息が熱かった。そんな私の様子に気がついて彼女は話を止めて、静かに透き通るような瞳で私の様子を窺っている。何とか口を動かして声を捻り出して、彼女に問いかけたのは情けない縋るような疑問。


「星野さんは、そういうのどう思うの…?」

「え?」

「そういう、同性愛みたいなの」


どうか、どうか否定しないで欲しいという気持ちが滲み出ていたと思う。私のこの恋を彼女に否定して欲しくない。恋をすること自体を否定されたくはなかった。彼女は少し考える。視線をさ迷わせて言葉を必死に選んでいるようだった。やがて彼女は何かを悟ったように目を伏せる。長い睫毛に隠された黒曜石は未だ迷いを帯びていた。それでも優しい声色で彼女は、私の疑問に丁寧に答えた。


「…私は恋愛というものが、よく分かりません。だから気の利いた言葉は出せないけれど、その…、恋愛対象の性別やその他特徴について「どう思う?」って他者に意見を窺わなきゃいけないのは嫌だなと思います。端的に言うと…そうですね…。好きになりたい人を好きになればいいのでは?と思います」


否定も、肯定もされてない。そういうのではなくて、ただ「好きにすればいい」とあまりにも投げやりで無責任で、そして簡単で綺麗でシンプルな答えが返ってきた。その答えが嬉しくて、心の中がじんわりと温かくなる。礼を述べればなぜ礼を言われたのか分かっていない彼女は、それでも「どういたしまして」とまた笑った。話の先を促せばまた楽しそうに話始める。漫画では肉体関係を持っている復一と真佐子は、小説の中では文通をし続けたまに会ったら話すだけのプラトニックな関係を築いているらしい。復一の保護者でも真佐子の保護者でもないけれど、妙にほっとしてしまった。彼女の話を聞いてその漫画を読みたくなった私は、彼女から漫画のURLを送ってもらった。

季節が深まった影響で早まった最終下校時刻のアナウンスが鳴る。校庭では運動部が片付けを始めた。彼女は席を立ち開け放っていた窓を閉めようとする。そしてその動きを止めた。彼女が手をかけた窓の隣の窓へ駆け寄り彼女の表情を盗み見る。その視線の先に白峰君がいた。白状すると、私はかなりそれで焦った。彼女の瞳に熱はなかったけれど、それでも嫌だったから。どうにかこちらを向いて欲しかったから。夜空には都合良く満月が身を置いている。


「月が綺麗ですね」


彼女がこちらへ振り向くまでの動作がコマ送りのようにゆっくり見えた。秋の夜風に靡くレースカーテンの向こう側で、拐われそうな白い肌が月の光で青白さを増している。室内にあかりはない。思えば私達はずっと、蛍光灯の科学的な光ではなく月や星の自然な小さな灯りの中で話していた。秘密なんてないのに、コソコソ話をするように。桜色の唇が動く、それすらもスローモーションに見えた。彼女の瞳の中にある感情を私は知ってる。体育祭の日、借り物競争で白峰君を見上げていた表情だ。観客席からただ見ていることしか出来なかったあの日の表情。困らせていると、分かってしまう瞳。


「ごめんなさい」

「死んでもいいわ、と返せなくて…ごめんなさい」


不思議と涙は出なかった。今まで彼女へ思いを告げる想像をしてこなかったわけじゃない。でも私はきっと振られたら泣くのだと思っていた。涙は出なくて、むしろ心がスっと軽くなった気がした。その断り方さえも彼女らしくていいと思ってしまうから、私は彼女のことが本当に好きだったのだろうと思う。付き合いはそんなに長くない。今は亡き親友に重ねてしまうことはあったけれど、でもその度に「違うな」と「それがいいな」を積み上げて、そして今日全部崩した。頑張って積んだ積み木を倒した時みたいな呆気なさ。でも同時に、満足感が少しだけあったから。だから私は彼女に、笑顔で「ありがとう」を言えるのだと思う。

「…よし、最後にはい!」と腕を広げた。彼女の表情はずっと困ったままだった。「これで最後だから」と彼女に言っているようで自分に言い聞かせた。


「最後にハグしていい?今時友達でもするから…だから、これで私はちゃんと友達に戻るから」


私の言葉に納得してくれたのかは分からないけど、彼女はおずおずと腕を伸ばして、その細くて薄い身体を私に預けた。今腕の中にあるこの熱を、私は一体これから何に変換していけるのだろう。控えめに背中へ回された腕が苦しくて、すぐに離したかったのになかなか離せなかった。

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