第六章 友達の喜び⑤
星野さんの背中を見送る彼女の瞳が、確かな熱を持って揺らいでいた。その熱の温度を知っている。白峰風虎が星野和香へ向ける熱と同じだ。それに気付いてしまったら、なんだかこの状況で彼女を一人にするのは宜しくない気がした。一度自分のクラスの屋台へ戻り、手持ち看板を持ち出した。再び彼女の元へ向かえば、彼女は先程と変わらぬ姿勢のままだった。その姿勢のままただ、もうそこには無いはずの背中を見つめている。名前を呼ぶと大袈裟に肩が跳ねる。
「これから暇?」
「あ、はい、うん…」
「良かったら一緒に行動してくない?この空間を陰キャひとりで歩き回るのキツイ。誰か知ってる人道連れにしたい」
「道連れ...」
二人で祭りの中を歩き出したはいいものの、気の利くような会話は一切浮かんでこない。今までまともに話したことがある女子は何人いただろうか。桜城さんくらい陽でこちらのこと何も気にせずズカズカ来てくれる人の方がなんだかんだ楽だ。看板を見て場所を聞いてくれる方々をロータリーへ促しながら、ずっと共通の話題を探る。そんな少し気まずい沈黙を先に破ったのは夜永さんの方だった。おずおずと申し訳なさげに「今日バイトは?」と、え?今聞く?と思ったが、恐らく彼女も死ぬほど脳内を探し回った末に絞り出した話題だと思うので今日はない旨をちゃんと返す。
夏休み前に店長に諸々の事情は話した。もっと早く言えと怒られたのと同時に、学校行事の際は有給を使えるようになった。そして時給が少し上がった。自営業だから為せる荒業だと笑ったあの人に、俺はおそらく一生頭が上がらない。俺の話を聞いて先程まで表情が抜け落ちていた彼女に笑顔が戻った。それからズルズルとしばらく最近の話をした。空気は一回くだければ、あとはヌルヌルと流れるように柔らかくなっていく。仕事をしない状況が落ち着かなくて、文化祭中全部クラスのシフトに入っている俺の話を聞いて彼女は若干引いていた。
「…夜永さんって、星野さんのこと好きなの?」
俺の腹ごしらえのためにパンを売っているクラスに寄り、何個か買って頬張る。頬張りながら歩いている俺の代わりに看板を持ってくれる夜永さん。邪魔にならないように廊下の隅に寄り止まってパンを貪る。俺の咀嚼音しか響かない空間が嫌すぎて、見切り発車で口に出した話題は恐らく地雷。前にも風虎相手に恋バナを仕掛けて地雷原の上でタップダンスを踊る結果になったのだが、どうやら俺はその経験から何も学びを得なかったらしい。そしてその地雷は毎回星野さんで、つくづくあの人はいつも誰かの心の中にいる人だなと思った。意識を遠くに飛ばして現実逃避を図っていた俺は、隣の彼女が言葉を発するために吸った息の音で現実まで戻ってきた。
「変、ですよね」
その「変」は何についてなのかしばらく考える。同性だからなのか。星野さんが恋愛と無縁すぎる人だからなのか。おそらく前者だろうと思われる。少し考えた。俺は生まれこのかた恋というものをしたことは無い。おそらく自分はそれに向いていないとさえ思う。しかし、風虎や夜永さんの様子を見ていると別に悪いことではないと思う。人のいい所を見つけて惹かれて、好きになれて愛せることは凄く素敵な事なんじゃないかと思う。「変じゃないよ」と返した俺を、彼女は夜空のような瞳をめいいっぱい見開いて見上げてくる。食べ進めていたパンの最後の一口を放り込んで咀嚼する。しばらく沈黙と咀嚼音に満ちた数秒。その間に自分の中で言葉をまとめた。
「だって夜永さんは、「星野さん」を好きになったんでしょ?素敵なことだと思うよ」
自分が酷く小っ恥ずかしいことを言っている気がして、彼女の顔は見れなかった。語彙力がないなりに頑張って言葉を紡いだのだが、当の彼女からは何も言葉が返ってこない。おずおずと彼女の方へ目を向けると音もなく静かに泣いていた。どうしたらいいか分からなかった俺は、とりあえず彼女の手の中から自分のクラスの看板を取り返した。自由になった両手で涙を拭い続ける姿に、申し訳なさが一気に込み上げてくる。自分はなにか不味いことを言ってしまったのかもしれないと、とりあえず近くの壁に看板を立てかけて床に膝を着いて座った。流れるように土下座した俺に、彼女は慌てふためきながら震えた声で表をあげるように促してくる。
「ち、違うのっ!嬉しかったから…。自分でもさっき自覚して不安だったから…」
床に正座する俺に目線を合わせるように彼女もしゃがんだ。彼女の三つ編みが視界の中でふわっと揺れる。金縁の眼鏡を外して隔てるものが無くなった小さな夜空を、そこからこぼれ落ちる雫を必死に拭っている。ハンカチなんて気の利いたものを持っていない俺は、ただただ目の前の彼女が落ち着くのをひたすら待った。人通りが少ない場所を選んだと言ってもそれなりに人は通る。皆何事かと彼女の表情を伺うので、彼女の顔付近に看板をかざして道行く人の視線を阻む。再度情けなく「ごめん」と呟いた俺に、彼女はこれでもかというほど首を振った。
しばらくして泣き止んだ彼女にお詫びとしてラムネを奢る。閑散とした駐車場に一軒だけ出ている屋台は、なんとも物悲しい雰囲気を纏っていた。開け方が分からない彼女の代わりに蓋開けると、ビー玉が中に押し込まれた音と共に一気に炭酸が吹き出した。駐車場のアスファルトを炭酸が濡らす。隣で驚いて固まっている彼女と、やっぱこうなるよなと笑う俺。ベタついた手をクラスTシャツの裾で拭いながら、彼女にラムネのボトルを手渡した。瓶の中に閉じ込められたビー玉を、太陽の光に透かして眺める。その綺麗な横顔には痛々しい涙の跡。つくづく、星野和香という人間は常に人の心にいて、いちばん柔らかくて脆い部分を抉ってくる存在だと思った。以前に恋とは別の違う何かで抉られた自分の中にも星野和香はいる。
「絶対星野さんってモテますよね?」
ラムネを一口煽ってからそう呟いた彼女。脳裏に浮かぶの一匹の虎。かなり手強いライバルになるだろうなと思った。風虎にとっても夜永さんにとっても。お互いが。それを知っていながら「どうだろうな」と笑う俺は、ひょっとしたら性格が悪いのかもしれないなどと思った。もう少しで祭りが終わる。傾き始めた太陽の赤に目を細めながら、これから始まるであろう賑やかな日々に思いを馳せた。
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