第五章 銀河鉄道の夜➁
私、夜永望結にとって朝比奈凛はヒーローだった。臆病な性格のせいでいじめられていた私を、凛は助けてくれた。凛だけが私を見つけてくれた。凛は私の太陽で、私の世界は凛を中心に回っていた。いつだってそうだった。周りにいくら釣り合わないと言われても、凛はいつだって笑顔でそれをはねのけてくれた。大好きだった。愛していた。否、愛している。ずっと、ずっと。去年の夏から凛は私の前に姿を見せなくなってしまった。恐らく春に会った大会で結果を残せなかったからだろう。凛はずっとそれを気にしていたので、自分の心を休ませるために引きこもってしまったのだ。きっとそうだ。絶対そうだ。
彼女が引きこもってしまった日から、私は毎日のように彼女の家へ赴いた。インターホンを押して、彼女が出てきてくれるのをひたすら待つ。たまに励ましの言葉をかける。彼女の両親には「もうやめてほしい」と言われてしまった。彼女の落ち込み様は、どうやら私の想像以上にひどいらしい。私は一旦、彼女の家へ赴くのをやめた。彼女がいない学校生活は灰色で、とてもつまらないものになった。私も彼女と同じように引きこもりたかったが、受験生のためそうはいかず、保健室登校という形で収まった。白い壁の中で彼女が帰ってきてくれるのを、いつまでも、可能な限り待つつもりだ。
ある日母が、彼女の両親へ泣きながら頭を下げていた。なぜ謝っているのか、何に対しての謝罪なのか。気になって仕方がなかったのに、私の耳は一向に母の言葉、彼女の両親の言葉を拾わなかった。謝罪の帰りに母に何かを懇願されたけれど、何一つ聞こえなかった。泣きながら私の膝に縋りつく母を見ても、何も思わなかったし、矢張り何も聞こえなかった。一度だけ母と彼女の両親に墓地へ連れていかれたことがあった。一つの墓の前に私を絶たせたけれど、私にはその墓標の文字が文字化けしいぇ見えて、当然のことながら何も聞こえなかった。自分でもそれがどうしてなのか分からないうちに、一人二人と私のそばから離れていった。誰もが皆、私のことを「おかしい」と言った。
そうして彼女がいない夏がもう一度回ってきそうだった頃。私の前に一人の教師が現れた。その教師は今までのそれとは違い、私を無理に教室へ行かせようとはしなかった。妙に寄り添ってくる感じがどうにも気持ち悪くて、でもかけてくる言葉は心地よくて。放課後気まぐれにやってくるその教師を、私は嫌いにはなれなかった。先生の口から出る話題は専ら、どうしようもない「愛弟子」のことだった。「人間失格」の話。「山月記」の話。「桜の森の満開の下」の話。「蟹工船」の話。全部全部、遠い異国のおとぎ話のようだった。キラキラしていて眩しくて、手を伸ばしたいのに伸ばせない。彼女との日々が頭をよぎって、もう一度帰ってくるその日々に胸を高鳴らせた。
そんな愛弟子さんと初めて会ったのは、ちょうど彼女が引きこもった一年の日だった。居心地悪そうに視線を迷わせ、でも先生の突拍子のない言動に鋭い毒を吐く。はっきりとした物言いが少しだけ、ほんの少しだけだけど彼女に煮ている気がした。愛弟子さんはどうやら、人と話すのがあまり好きではないらしい。妙な親近感を抱いた。そんな愛弟子さんは、彼女に似て聞き上手だった。今までする先々で嫌な顔をされていた彼女の話を、愛弟子さんは嫌な顔一つせずに、優しく相槌を打ちながら聞いてくれた。ますます彼女の姿が重なった気がした。そのことを先生に報告したら、先生は何故だか悲しそうに微笑んだ。
そうやって愛弟子さんに彼女の話をする日々。その日々を幸せだと思えている自分がいた。私が七位を話しても、聞き上手な愛弟子さんはすぐに頷いてくれる。私の言葉一つ一つを優しく包み込むように。いつからか白い壁の中で、彼女ともう一人、愛弟子さんのことも待っている自分に気が付いた。まだかな、まだかなと待つ時間は、とても幸せで満たされていた。いつか彼女が帰って来た時、「新しい友達だよ」と紹介出来たら彼女は喜んでくれるだろうか。「良かったね」と祝福してくれるだろうか。「友達作れたの?凄いじゃん」と褒めてくれるだろうか。来るべくその日を夢見ながら私は今日も、白い壁の中で愛弟子さんのことを待った。
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