文学談義
斎宮
第一章 人間失格 ①
朝起きて最初にすること。それは今日の一冊を決めること。眠い目を擦りながら、本棚に並ぶ数百冊の中の一冊を手に取る。書店のブックカバーに包まれたそれを開けば、あまりにも有名な漢字四文字が視界に飛び込んできた。
「人間失格」
こうして手に取った本のタイトルを読みあげることが、私の一日の始まりの合図だ。窓から覗くのは満開の桜と、群青の空。その眩しい二つのコントラストに目を細める。窓を開けて、中途半端に開いていたカーテンを全開にすれば、春風に運ばれた薄桃色の片鱗が部屋の中へと侵入してくる。それを拾う事もせず放置して、学校へ向かう準備を始めた。紺色のプレザーに袖を通せば、ぼやけていた景色が一気にクリアになり、自然と背筋が伸びる。どうせ背が伸びるからと大きめのサイズを買ったくせに、そんなに伸びず少し不格好な全体図。スカートの丈は少し短くなったかもしれない。そんなこの制服と過ごす三度目の春。そして、「最後の一年」の始まりだ。
前日のうちに準備していた通学用のリュックを手に取り、朝から「しゃんとしなさい」と、小言をぶつけてくる母親を無視して家を出る。春風という言葉は一見優しい雰囲気がするが、今私にぶつかってきているそれは全くもってそんな優しいものなのではない。桜の花を全部散らすかの勢いで吹き荒れるそれに、深く大きなため息をこぼした。リュックを背負い直して、重い足を引きずるように歩みを進めた。
「恥の多い生涯を送ってきました」
スクールバスに揺られながら、その一文を目で追う。ここから学校へ到着するまでの数十分は、長いようでうんと短い活字の旅だ。私だけが味わうことを許された至高の時間である。次々と乗り込んでくる生徒達の声をBGMに、ページを捲る手と活字を追う目だけを動かしていく。そして車内アナウンスの無機質な声に意識を引き戻され、人に流されるようにバスから降りる。私のいつもの通学風景はこんなものだ。
正門付近にはられた掲示板。そこに映し出されているのは、新しいクラスという名の箱庭の割り振りだ。とても窮屈で重く、不愉快極まりない箱庭の。同じ場所に名前が載っていて、同じ箱庭に振り分けられただけで苦楽を共にしろ、分かち合えと言われても無理な話である。早々に自分のクラスを見つけた私は、掲示板の前で飛び跳ねたり、肩を組んだり、抱き合ったりしている人々をかき分けながら、冷めた眼差しで昇降口へ向かった。
「ねぇねぇ、星野和香って知ってる?」
「え、聞いたことない。だれ?」
「いやぁ、名前の順的に隣の席かもなんだけど全然知らなくて」
スカートの長さ的に一軍女子だろう。入学して早々に理解したそのルールの一つだ。「スカートの長さで女子高生のランクが決まる」、そんなあってないようなルールを頭に巡らせ、横目で確認をしながら、その人たちの脇を通って教室へ入る。ガラッと開いた扉の音に数人がこちらを向いたが、全員私を知らない人だと認識すれば、途端に視線を外して楽し気に会話を再開する。そして私は自分の席に腰を下ろして、再び本を開いて活字の世界へ旅に出る。そのうちBGMにしていた生徒たちの話し声すら聞こえなくなり、ただページを捲る音だけが自分の脳内に響くようになる。そうなってしまうともう、ちょっとやそっとじゃ意識は戻らなくなってしまう。
私、星野和香は人と関わることが苦手。いや、嫌いである。小学生の時、クラスの男子からの告白を振っただけで、仲間外れにされて、虐められたことが原因だと自分では思っている。誰だって好きでもない男から、「俺の女にしてやってもいいぜ」などと言われたら、当然のことのように丁重にお断りするだろう。クラスで人気だかなんだか知らないが、私はその人のこと全く知らなかったし、関わりたいと思ったことも一ミリもなかったわけで。振って当然、振られて当然の告白だったのだ。
中学に上がっても小学校とメンツはあまり変わらないので、小学生の「イタズラ」で納まっていた虐めが、中学生の「嫌がらせ」に昇格したくらいしか変化はなかった。靴やものを隠されるのは日常茶飯事。件の男子生徒に付き纏われて、拒否したり苦言を呈したりするごとに、嫌がらせはひどくなっていった。そんな学校生活を送ってきたものだから、活字の世界に夢を見るのは別におかしな事ではないと思う。
活字の世界の住人は決して私を傷つけず、私という読者が描く理想の姿で常にそこにいてくれる。現実の人間とは、当たり前だが大違いだ。この人間失格の大庭葉蔵とて例外ではない。人間が理解できないと謳いながら、それでも人間に焦がれるその姿はとても美しいと思う。その末に待っているのが「人間失格」だとしても、その様はとても美しく、その醜さこそ人間ではないかと思わされる。こうなりたいとは思わないが、惹かれず、その人生に魅入られずにはいられない。大庭葉蔵とはそういう男だと、理想を抱く。少なくとも私は、彼をそう言う人間だと思っている。
そんな風に活字の世界へ旅に出て、逃避して、誰とも関わらず、相手にされず、高校最後の一年もそうして終わるのだと、この時の私はただ漠然とそう思っていた。
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