第13話 夜の病院

時計の針は十一時を過ぎていた。両親が寝室に入って三十分は経っている。

「よし、いける」

光一はパジャマを脱いで服に着替えた。厚手のジャンバーのチャックを引き上げ、そっと部屋を出た。慎重に歩いているのに床がきしんだ。息を殺しながらドアの鍵を外し、ようやく外に出た。

「ふーー」

溜めていた息を、思い切り吐き出した。見上げる夜空には、砂をぶちまけたような星が光っている。

「おっと、お仕事、お仕事と」

ガレージの戸をこっそり開けて、自転車にまたがった。


『さあ、出発だ』

こんな夜中に家を出るのは大晦日おおみそかぐらい。頬を撫でる冷たい風が、新年を迎える時のように新鮮な気持ちにさせた。

目指すは、信二の入院している病院。町の中心を走る大通りに面していて、先日、偵察に行った英才ゼミナールよりは近いはずである。


すぐにも大通りに出た。もう夜中近いからか、車はまばらだった。擦れ違った車の運転手が、いぶかしむような視線を向けた。

光一は慌ててジャンバーのフードを被った。塾帰りの手提げを持っているわけでもなく、中学生がこんな時間に自転車を漕いでいるなんて、どう考えてもおかしい。警察署の前を通る時は、胸がどきどきした。パトカーに乗り込もうとしていた警察官と目が合ったようだが、パトカーは反対の方向に走っていった。


しばらく行くと、前を進む自転車が見えてきた。漕ぎ手は半纏はんてんのようなジャンバーを着ている。時折、満天の星空を見上げては、ハンドルをふらつかせている。光一はペダルに置いた足に力を込めた。


「おーい、勉!」

「や、光一君。よかった、僕一人だったら、どうしようかと思っていたんだ」

光一は片手を伸ばして、相棒の背中を叩いた。勉も真似をしようとしたが、あいにく片手運転は苦手らしい。ハンドルが曲がりかけて、慌ててバランスをとった。

「ほら、見てごらんよ!」

勉が空を見上げながらいった。

「白鳥座の右の方に、彗星が見えてるよ」

「えっ」

勉の見上げる方に顔を向けると、確かに、淡く尾を引く小さな星が浮かんでいた。

「あれって数十年に一回しか、地球に接近しないんだよね。肉眼でも、こんなにはっきり見えるなんて思わなかった」

「ふふ」

光一は鼻水を流しながら話す勉に、思わず笑ってしまった。

「なんだい、何かおかしいことあった」

「いや、勉って本当にいい奴だなって思ってね」

「また、そんなこといって」

勉はにんまり笑った。


別にからかったわけではなかった。特に約束したわけでもないのに、このように家を出てくるし、そうかと思えば、星空を見て感動したりしている。拍子抜けすることも多いが、付き合えば付き合うほど、勉のよさというものが分かってきた。

「光一君、一人で乗る自転車もいいけど、二人乗りの方がもっと楽しいね」

勉がぼそりといった。

「そりゃそうさ、相棒と乗る自転車は最高さ」

光一は力強く頷いた。


二人は夜空に白く伸びる大きな建物の前で、ブレーキを握った。

美月市立総合病院・・信二の入院している病院。そして今夜、鼠の大群が押し寄せるはずの場所だった。


二人は自転車置き場の横、夜間受付の案内灯のついた入り口から入った。

小さな待合いにソファーが並び、五人ばかりの人が座っていた。中には赤ん坊を抱いた女性もいる。

「夜の病院って、こんな感じなんだね」

感心したように話す勉の横で、光一は案内図を見上げた。

「えーと、中学生の入院する所は、まだ小児科の扱いだろうから・・・この棟の三階だ」


二人が薄暗い階段を登っていくと、中年の男性警備員が懐中電灯を照らしながら降りてきた。

「君たち、夜間は保護者と一緒にいなければだめだよ」

優しい声で話して離れていった。どうやら親と病院に泊まっていると思われたらしい。

「病院って意外と不用心なんだね」

勉が改めて感心した。


三階に上がった所、ロビーのソファーに髪の長い女性が見えた。隣には小柄な少女がいる。清水先生とひかりだ。二人とも眠っているらしい。平和な雰囲気・・まだ鼠の大群は訪れていないらしい。

『よかった。間に合った』

光一は勉と目配わせしながら、そっと近づいた。居眠りしている二人を驚かすつもりだったが・・

「バアー」

いきなり二人が顔を上げて目を見開いた。おまけにソファーの前に置いてあった大きなバックからは、黒い影が踊り出た。

「うはっ」

光一らは派手に尻餅をついた。

「わしらを驚かそうなんて、百年早いわい」

清水探偵が牙をガチガチと鳴らした。


「私は、光一殿が家を出られた時から、ずっと気づいておりましたよ」

ひかりは自分の額を指さして、けらけらと笑った。

「君には、何も隠せないんだね」

光一は肩をすくめた。ひかりとは遠く離れていても繋がっている。くすぐったいようで、正直にいえば嬉しかった。

「そう、あなたは精霊である私の主人。離れていても、つい見守うてしまう。それが私の務め」

無邪気に話すひかりの横から、清水先生の拳骨が伸びてきた。

「もう、あなたたち」

先生の目は笑っている。先程見た夜空の星が宿っているようだった。

「仲間なのだから当然です」

胸を張った二人は、先生の拳骨に頭を突き出した。



実の所、光一と勉は、病院に来てはいけないと言われていた・・

二時限目のチャイムが鳴り響くなか、二人は職員室に向かった。そして授業に向かう清水先生を待ち構え、資料準備室で聞いたことを報告したのだ。

「じゃあ今夜も信二君は、鼠に襲われるということなのね」

腕組みをして考え込んだ先生は、丁寧に頭を下げた。

「それはとても貴重な情報よ。父さんは鼠の臭いを辿るといっていたけど、鼠は下水道とか地下を移動するから、たぶん、無理だと思うわ。でも発信器を鼠に付けられれば確実に目的地が分かる。今度こそ、精霊に行きつくことができそうよ。

あとは私たちに大人に任せて。信二くんが襲われたのは夜中、今夜もきっと遅い時間になると思う。だから、二人には無理はいえないわ」

「ここまで手伝ってきて、そりゃないよ」

がっかりした光一の横で、勉が首を伸ばした。

「けど、人の役に立ちたいという気持ちに、大人とか子供の区別ってあるのかな・・」

勉の小さなつぶやきは先生の耳には届かなかったらしい。

「さあ、教室に行きましょう」

背筋を伸ばした先生は、二人の背中を優しく押した・・・



ロビーに光が射し込んだ。ナースステーションから見回りの女性看護師が出てきた。

「先生、この子たちも生徒さん?」

光一と勉を見て目を丸くしている。

バッグに飛び込む間がなかった清水探偵は、ソファーの下に潜り込んだ。

「はい。皆、友達思いで、ほんと困っています」

苦笑いしながら話す先生の横、ひかりの顔が急に強ばった。


「近づいている」

「え、なに?」

看護師が頬を揺らした。壁の時計は、ちょうど0時を指したばかりだった。

「この病棟には、危険な状態の患者さんはいますか」

先生が聞いた。

「いいえ、今夜はいませんわ。これからお決まりの、」

先生の質問に、きょとんとした顔で答えた看護師の言葉が止まった。その目はいつの間にか、白い手に握られたペンライトを見つめている。

「催眠術・・これって・・」

勉がつぶやいた。光一はまだ何か話し出しそうな相棒の唇を指でつまんだ。

「あなたは壁の時計を見続ける。時計の針が一時を指したら、見回りの時間・・」

低い声で繰り返して話す先生に、看護師はこっくり頷いてソファーに座った。瞬きもせずに時計を見つめている。


「わが娘ながら大したものだ」

看護師の太い足の間から、清水探偵がのっそりと顔を出した。

「この仕事をしていたら、このぐらいの事はできなければね。ひかりちゃん、鼠たちは今どこに?」

「すぐそこに・・ ・・来た」

遠くを見つめていたひかりの視線が下がった。途端、けたたましい悲鳴が響いた。

「下の階だ、行こう!」

清水探偵の唸り声とともに、四人と一匹は階段を駆け下りていった。


既に数十匹もの鼠が、一階の階段の縁に沿って走っていた。子猫ほどもない小さな体だが、数の多さが不気味さをかもし出していた。滑らかなタイル地のせいか、二十センチほどの段差が登れないらしい。この状況なら、信二のいる三階までは辿り着けそうもなかった。


「あれっ」

「なに!」

せっぱ詰まった人声が、暗がりの向こうから聞こえてきた。

どこかしらから湧いてくる鼠たちに気を遣いながら進んだ先、夜間入り口の前に、四、五人の人が立っていた。先程すれ違った警備員が、ガラスドアに懐中電灯を向けている。

「うぅ」

光一は思わず息をとめた。

ガラスドアの下、三分の一ほどが灰色の小さな塊で埋まっていた。鼠たちが幾十にも折り重なってもだえているのだ。更にドアの向こう、青白い街灯に照らされた駐車場は、一面が夜の海のようにぞわぞわとうごめいていた。


「原因はあの子よ。ほら、昨日の夜中に入院してきた男の子、確か鼠に襲われたって」

病院の事務員らしい若い女性が怖々とつぶやいた。

「大丈夫だ。警察に電話したら、すぐに駆けつけてくれるという返事だった」

警備員がいった。その顔色は蛍光灯の明かりのせいか青白く見えた。

「あのう、警察って何をしてくれるんですか」

勉が聞いた。

「そりゃ、警察の仕事は人々の安全を守ることだからな。えーと」

警備員は困ったように天井を見上げたが、答えはすぐにわかった。

パトカーの赤い点滅が駐車場に見えたかと思うや、その後ろに眩しいほどの照明を発する車両、ポンプ消防車が顔をのぞかせたのだ。


「物々しく見えるが、何をするつもりか」

ひかりが眉をひそめた。

「あの消防車がすることといったら決まってる。鼠に放水して追い払うんだ」

光一の言葉が終わって間もなく、機敏に動きまわる消防士がホースを構えた。

「だめじゃ」

ひかりの呻き声と同時に、白い水柱が駐車場をなめ回し始めた。地面を覆っていた鼠は、塵のように吹き飛ばされ、流されていった。

「鼠たちに罪はありませぬ。誰かあの水を止めて下され!」

ひかりがガラスドアに駆け寄った。光一の左手が激しく疼いている。


「お嬢ちゃん、動物愛護もいいけど、そんなこといってる場合じゃないんだよ」

なだめるように細い肩に手を置いた警備員の手から、バチリと火花があがった。太い体がゆっくりと後ろに倒れていった。清水先生が支え、そっと床に横たえた。

「ひかりちゃん、落ち着くんだ」

光一は左手の窪みに指を折り込み、強めに握りしめた。

「痛い・・」

ひかりは頭を押さえながらしゃがみ込んだ。周囲の大人たちは、何が起こったのかわからない様子で、目を見開いている。


「ごめんよ」

「・・」

ひかりが顔を上げた。額の瞳は開いてはいない。黒い瞳がまっすぐに光一を見据えた。

「光一殿、鼠たちの悲鳴が聞こえぬか。彼らがここに来たのは、ただ餌が欲しいという純粋な理由から。なのにあのような仕打ちを!」

「仕方ないよ。この世界で優先するのは、まずは人間の安全なんだ」

「そのような勝手なことを・・彼らは人間のもたらした情報で導かれているというのに」

「ひかりちゃん、もしや、鼠たちの心が読めるの」

苦しげに話すひかりに先生が聞いた。光一は握り込んでいた左手を緩めた。


「あすこには数十匹の首領格の鼠がおります。彼らの心には、ここまでの道のりとこの建物内の案内図、空腹を満たしてくれるものとして、信二くんの顔が、しかと刻まれております。他の鼠は、道すがら、首領格のものの動きに付き添って集まってきた」

「でもどうやって・・彼らを操っている人間がいるってこと?」

勉が首をひねった。


そうこうする間にも、目の前のガラスドアに、滝のような水が浴びせかけられた。張り付いていた鼠は、泡もろともに弾き飛ばされた。


「これ、なに」

後ろに立っていた女性が、引きつった声を出した。

振り返れば、廊下の縁を鼠たちが三列ほどになって走っていた。それこそ綱引き用の太いロープがずりずりと移動しているように見える。

「ハッ フッ」

これまでどこに行っていたのやら、清水探偵が爪を滑らせながら走り込んできた。先生の前で一旦止まり、階段のある方を【お手】の格好をして示し、そちらに走っていった。病院職員の手前、話すことができないのだ。

光一らはぽかりと口を開けた人たちを置いて、清水探偵を追った。


階段付近は、先ほどの駐車場と同じ光景が広がっていた。数千匹を優に超える灰色の塊が、重なり合いながら階段を登っている。

「さっきの放水で、地下室の換気口の蓋が破れてしまったんだ。そこから鼠たちがなだれ込んでいる」

清水探偵が吠えた。


「地下には売店があるのに」

「彼らの空腹は、信二君のいるところで食物を口にしないと、満たされぬのです」

光一の疑問にひかりが答えた。

「ひー、やめて」

勉が叫んだ。

階段と勘違いしたのか、鼠の大群は、四人の足元にも集まり始めた。振り払おうすると、鋭い歯が皮ふに噛みつく。足を床に置くと、その度に、柔らかい感触を靴底に感じた。仕方なく靴底をするように後ずさった。


「おそらく鼠たちは、三階に行きついている」

跳ね上がるように大群の中に突っ込んでいった清水探偵だが、たちまち鋭い歯に襲われて戻ってきた。

「信二の所に行かなければ!」

「でも、どうしたらいいの。これ以上進めないよ」

「ひかりちゃん、鼠を退治しろとはいわないわ。せめて私たちが前に進めるように、床に電気を流して」

ひかりは先生の言葉に頷いた。ひかりの足に登ろうとした鼠は、すぐにも転げ落ちたが、目の前に増え続ける群れに変化はなかった。


「帯電防止処理がされてる」

清水探偵が唸った。

「ここは病院。精密機器が置かれている。だから床は電気が流れないようになってるんだ」

「僕らがひかりちゃんの電気にも平気なら行けるのに」

勉のつぶやきに、光一ははっとした。

「僕なら大丈夫だ」

光一はひかりの手を取った。一瞬、体の筋肉が強ばったがすぐに慣れた。

「行こう」

ゆっくりと進み始めた。電流を感じているのか、鼠たちは光一とひかりの足元を小さく開けた。


「光一君、鼠のリーダーが分かったら、これを取り付けて」

先生が五百円玉大の丸いものを投げた。厚手の粘着テープが裏についている。

「発信器よ。壊れなかったらいいけど、それで鼠が帰る場所が分かるわ」

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