第79話バター猫のパラドックス
放課後を迎え、受け持っている授業が一通り終わった生徒指導教諭はそろそろ知努を呼び出す頃合いだ。
自然体を装うため、いつものように教室で帰り支度をしていると意外な人物が訪れる。染子の叔母である千景だった。
校内で堂々と彼に食事や逢引きの誘いをする程、非常識な人間でないため、用件は1つしかない。
一般的な家庭環境と思えない倉持家に加え、どういう行動原理か分からない三中知努が絡んでいる以上、生徒指導教諭の手に負えないと判断したようだ。
警戒しすぎたあまり、今朝は保険のため、長年隠していた秘密を明かしてしまった。しばらく京希が時の人でいられるだろう。
無言のまま、彼の隣へ座った。生徒指導の定番である応接室を使う許可が下りていないと分かる。
「上手く3馬鹿を弁護しようなんて考えなくていい。ただ、事実を教えるだけでいい」
入学してからあまり教諭らしい1面を見ていないせいか、初めての教諭らしい態度に思わず彼は感心してしまう。
彼女へ倉持愛羅の件を許した理由について説明する。母親が直接謝罪したため、そこでこの1件は解決した。
以前、知努の首を折ろうとした千景は多少、彼から反撃されてしまうも謝罪した事で許して貰っている。
「それにわざわざ家で居場所を失いたくないから、もうしないと思う。俺は信じている」
未だ知努に嫌われていないか疑心暗鬼となっていそうな彼女の手を握った。暴力性がある反面、心は繊細だ。
何か勘違いしている千景が握られた手を振り解き、少し距離を空けてしまう。素直になれない思春期の女子のようだ。
「強引な方法でモノにしようとする積極性は嫌いじゃないが、ここだと恥ずかしい」
「そっか。ごめんね」
脊髄反射で謝罪してしまった知努は忠清と接する時の口調になっている。将来が心配な箇所は2人共似ていた。
必要な事を喋ったと判断している彼が立ち上がろうとした矢先、千景は次の質問を出してくる。
「これも聞くように頼まれたが、
あまりの抽象的な質問に彼は意図を汲みかねていた。教諭側が求めている疑問次第で答えも変わってくる。
某国の諜報員や宇宙人だと信じている訳でもないと踏み、当たり障りがない関係性について話す。
「あいつの中学生の妹と知り合いだからその縁で仲が良いだけ。よく受けた家庭内暴力について周りへ話しているらしいけど」
「そういう事じゃない。家庭内暴力、生まれ育った家の父親が死んだ話はみんな知っている。あいつの正体を知りたいんだ」
倉持久遠は三中知努にだけ心を開いているような素振りがある理由は、彼が倉持家以前の姿を知っているからだと疑っているようだ。
彼女という器の中に閉じ込められている秘密は、決して明かすべきでない性的暴力以上の狂気が待っている。
俯きながら彼が重い口を開く。倉持久遠はこの先、苦しみつつも生きられるように、下らない社会正義で潰されないように決して秘密は明かさない。
「公に出して良い物でないから教えられない。でも、カゲ姉にだけヒントをあげる。三中の家系でもう1人、久遠と深い関係を隠している人がいるよ」
日頃から警戒心を持っていたと言わんばかりに千景は、すぐとある人物を連想したようだ。
「そうか、
最低限のヒントで事の重大さに気づいて貰えた彼が安堵する。しかし、千景の表情はひどく悲しそうだった。
恐らく想像している人物が抱えていた苦痛を察している。今度は彼女から知努の手を握った。
「チー坊は怪物でもあの人の亡霊でもない。確かに強くなった。でも、私の傍でいたあの頃と変わっていない」
「そういえばお前のじいさんが言っていたぞ。少しずつ若い頃のばあさんに近づいていると」
妹に似ているという理由で忠文から過剰な触れ合いをされ、悩まされた彼は少し複雑な心境を抱く。
もし、祖母のような人間へなる場合、上品な言葉遣いにならなければいけない。果たして、それが三中知努の在り方として正しいのだろうか。
「それは嬉しいけど、もう少し男らしさも無かったら物足りない気もする。知羽と忠清のお兄ちゃんだから」
試しに目を細めて微笑むと一瞬、男である事が忘れてしまいそうになる。普段の振る舞いより少し優しく接している相手以外に見せたくない。
「ばあさんの真似をしなくていい。こういう上品なチー坊は周りから僻みを集めてしまいそうだな」
美しいものを穢したくなる感情は人間誰しも潜在的に備わっていた。美しさが手に入らない代償として、穢し征服感を得る。
日頃、なるべく目立たないように行動している彼は上品さで人の注目を集めたくなかった。
急に千景は何かを思い付いたらしく、彼の方へ向く。彼女の好奇心を抱かせるような心当たりが多く、彼は胸騒ぎしかしない。
「倉持久遠の件を黙っておくから祇園京希の飼い猫の写真を見せろ」
スマートフォンに保存されている猫の写真を彼女へ見せる。白い猫を抱き上げていた彼の頬は前足で素早く叩かれており、その部分だけブレて写っていた。
所望していた写真を見られたにも拘らず、どこか不機嫌そうな表情だ。その理由は凡そ分かっている。
「羨ましい! 猫なんて懐いていないとそうそう抱っこ出来ないぞ。私は猫の背中にパターが塗ってある食パンを付けて落下させる夢があるんだ」
動物虐待や食べ物を粗末にする遊戯へ加担したくない彼は聞き流す。もし、鶴飛家で猫を飼われていたら彼女の玩具となっている。
もし、従姉の白木夏鈴が彼女と同じような事を考えていれば、さすがの彼も少しばかり軽蔑してしまう。
爆竹を蛙の尻に入れ、爆殺して遊ぶ残虐な男子小学生と倫理観が変わらない。蛙の肉片や千切れた四肢が飛び散っている光景に無邪気な彼らは笑っていた。
話が終わると痺れを切らした染子が教室に入ってくる。仏頂面のまま、速足で近づき彼の頬を何度も軽く叩いた。
「猫の話はちょっと
ガーゼが顔に貼られている彼女が暴力を振るう事は分かっている。今までも幾度となく痛めつけられた。
姪の注意が彼に向いているうちに千景はニンマリと笑いつつ年甲斐もなくふざけ出した。
「頑張れよチー坊、この鶴飛火弦2号はチンパンジーと遺伝子の類似性が常人より高い脅威の98%だ!」
たった1%だけ、染子がチンパンジーに近い存在だと彼は感心してしまう。その直後、千景は後頭部を殴られる。
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