第76話招かれざる客



 生命の危機に対する対処は行動へ移した時、全てを決している。それは無意識のうちに迅速だった。



 下から掬い上げるように刃物を持っている右手首へ近付けた彼の手首で捌き、そのまま肘を左手で押さえ、扉へ叩き付けて、横から右膝を踏む。



 そして、包丁が落ちた右手首を掴んでから左手首を曲げ、鍵状に変えたまま顎へ引っ掛け、手前に引っ張る。



 勢いのあまり、後頭部を地面に直撃させないため、右膝で反っている背筋に添えた。落とした包丁を蹴り飛ばす。



 「2度とみっともない事をしないなら今の事は忘れる。殺人未遂で少年院行きへなって青春を無駄にしたくないだろ?」



 環椎と手首の関節を固定されている彼女は、何度も降参する意思を叫ぶ。彼から身柄の自由が戻るとすぐさましゃがんだ。



 不意打ちでまたもや彼へ襲い掛かろうと果物包丁を慌てて探すも、駆け寄って来た知羽が手に取る。



 向き直った彼は鋭利な刃物を手にした以上、知羽が相手より優位な立場でいると検察は判断する事を伝えた。



 他人の生命、財産を守る名目があったにせよ、武器を手放した相手は包丁で反撃する正当性がない。



 息子を殺しに来た女へ般若のような形相で怒っている涼鈴が、睨み付けながらこちらに歩き出した。



 「私の大事なちーちゃんを3回も狙い、温情までかけられ挙句、また殺そうとした。右の人差し指以外、全部切り落とせ。早くしないと目玉穿り出すぞ」



 娘から包丁を奪い取ってから女の目の前へ落とす。刃先が地面に当たって跳ね返り、彼女の方へ柄を向けながら着地する。



 金属の残酷な音が女の耳の中で何度も反響し、体を大きく震わせながら後ろへ下がった。気づけば涙や鼻水を零している。



 後の扉からトレンチコートを着た女性が入って来た。群青色の眼鏡をかけ、後ろ髪が纏められている。



 色白の肌でやや吊り目の彼女は、菓子折りが入った袋を持ったまま深いため息が漏れた。



 「包丁持って奇襲かけたけど、失敗した、と。どうして私がせっかく上手く話を収めようとしたのにこんな事をしたのよ」



 彼もそれに続いて、収集する運びだった事態の流れを壊されてしまい、ため息が出る。ひとまず、しゃがんで彼女の靴を脱がせた。



 「母さん、そんな事させたらあいつらに合わせる顔がないだろ。もう、俺は怒ってないから怖がらなくていい」



 微笑を浮かべている知努のきな臭い顔を彼女のまつ毛が長く、鋭い目で睨み付けてくる。



 「結局、お前は誰だよ。というより、三中知努って弟も兄もいなかったはずだぞ、意味が分からない」



 サングラスをかけているせいか、あれ程、固執していた相手が目前にいると彼女は認識出来ていなかった。



 居間に置かれている椅子へ知努、涼鈴、倉持親子が座り、未だナプキンを着けていたアパアパが机の上へ座っている。



 彼がサングラスを外して机に置くと素行の悪い娘は、目線を横へ逸らした。目尻に引いている紅が苦手なようだ。



 非行ばかりに走る娘の年相応な珍しい反応を見た彼女の母親は、苦笑しながら冷やかした。



 「彼の事、気になる? やっぱり嫌よ嫌よも好きのうちってところかしら。明日のお昼、作って貰ったら?」



 「そんなんじゃねぇし! 大体こいつに昼、作って貰ったらチビデカがからかうだろ」



 2人の昼食は彼が作った事を伝えると彼女達の母親は驚いている。まさか扱い辛い2人すら交流があると思っていなかったはずだ。



 「威張ってばかりの常盤はともかく、閉鎖的な性格のあの久遠が完全に気を許すなんてあり得ない」



 実の母親からこう言わしめる彼女は、家庭内でも愛想笑いを振り撒き、決して心の内側へ近づけさせてないと分かる。



 昨日、久遠が怯えながら吐露した感情は、嘘偽りなく彼女の奥底へ秘めていた恐怖だと知努は信じていた。



 「お母さんですらそう思われるでしょうな。ですが、昨日、ショッピングモールのフードコートでトンカツを私が勧めたっちゅう事も今日、タコスを食べさせたっちゅう事も紛れもない事実なんです」



 「ちーちゃん、依頼人に調査内容を報告する時の工藤ちゃんの真似をしないの」



 半信半疑の彼女に、揺るがない状況証拠を格好良く突き付けている彼は、母親の横やりで場が締まらなくなる。



 随分遅くなって2人が謝罪すると渋々、涼鈴は許した。まだ許したくない本音は横目で表情を見て、彼が察している。



 「実は君の事をよく知っているわ。だからこそ、いつか君みたいに娘達が私の意思を継いで欲しいと思っているの」



 1度だけ、彼女の娘である夏織から両親の職業を聞いた事があった。父親は政治家、母親は開業医になっている。



 政治家はなろうがなるまいが、代わりなどいくらでもいた。しかし、代々引き継いている家業は誰かしら継がなければならない。



 「叔母さんの意思なんて継いで欲しくなかった。人が持つ残虐性なんて覚えて欲しくなかった」



 話が脱線しそうになっているため、彼は無理やり辛気臭い空気を変えるように間の抜けた声で答えた。



 「そ、そうですねぇ。と、常盤と久遠は人の不幸で飯が食えると焚き付けたら頑張って継ぎそうですよぉ」



 将来、医者になった2人が人の不幸だけで満足出来ず、鎮痛剤の横流し、臓器売買などに手を出さないか知努は心配している。



 目を逸らし、大それた未来を想像している事が母親に見抜かれ、呆れられてしまう。彼女の息子は他人の将来を悪い方面で考える癖があった。



 「悲しいけど、人の笑顔より不幸を見る方が多い商売だから、それくらいじゃないとやっていけないわ。それなら夏織と愛羅あいらは?」



 「夏織は人望がありますし、愛羅? は昔ヤンチャしていましたと更生路線で出馬したら少なくとも世間知らずの裕福な家庭育ちの人間より、庶民的で人気あると思いますね。2世路線でもいいです」



 当選さえすれば与野党関係なく任期中は他人から尊敬される議員という肩書に加え、相当な給与が貰える。



 「どっちかが当選して議員になったら俺、秘書やりたい。今まで知犬やオカマ呼ばわりした前髪パッツン妖怪を見返したる」



 彼の小学校高学年男子でも言わなさそうな下らない発言に初めて愛羅が笑う。もしかすれば体裁ばかり整える嫌な人間と思われていたのかもしれない。



 しばらくし、用事が済んだ2人を母親と共に玄関まで送っている彼は愛羅へ果物包丁を渡した。



 「今度は俺が包丁を握って、愛羅のために昼食、用意してあげる。こう見えて人見知りなんだから」



 口説かれているような気分になった愛羅が睨むもどこか妖艶な印象がある彼の目元は直視出来ない。



 彼女以外の娘と知り合いである知努に愛羅の母親は娘の面倒を頼んでくる。彼女もまた傀儡支配を企てていた。



 「クソッ! 何なんだあいつ、デカい方のように不気味でヘラヘラしやがって。キモイキモイ」



 対抗する手段がない愛羅は逃げるように玄関から出て行く。彼女の母親も帰って行き、ようやく三中親子がひと息つける状況となった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る