第55話潜入王子



 知努は従姉が床に脱ぎ散らかしている衣服、靴下を畳んでベッドの傍へ置いたり、寝相が悪い彼女に蹴り飛ばされた布団を掛けたりしている。



 ユーディットの目から見た彼は面倒見が良い人間だった。しかし、その優しさや気遣いを全く他で活かしていない。



 彼の社会性が著しく欠如しているあまり、周りの人間から一種の精神病を患っていると認識されていた。



 文月や忠清に献身的な彼の態度を見せられているユーディットは、彼の社会性の欠如が信じられない。



 彼女が知らない知努の姿を知りたいと思う反面、他人の繊細な事情は当然、易々と教えて貰えないだろう。



 彼女がベッドに腰掛けて顔を伏せていると彼はゆっくり近づく。何か恐ろしい事をされそうな予感がしていた。



 告白してきた男子に無理やり抱き着かれた事もある。その時、感じた恐怖が蘇り、彼女の体は震えている。



 怯えている様子に気づいた彼は足を止めてから心配そうな顔で見つめた。2人の間に見えない障壁がある。



 「やっぱり俺の事、怖いよね。乱暴されたら怖くて声が出ないから。ごめんね」



 屈みながら優しく微笑んだ彼は同級生の女子にからかわれている丸みを帯びた彼女の頬へ手を伸ばす。



 温かい知努の手のひらと頬が重なり、彼女は顔を上げる。目線が合った途端、互いの心拍数は急激に上がっていく。



 先程まで感じていた恐怖が消えていき彼女は安堵を覚えている。彼にとって大事な人間と思われている事が嬉しかった。



 ユーディットは両手を彼の後頭部へ回し抱き寄せて口付けする。無意識にしてしまう程、彼の事を好んでいたのかもしれない。



 驚きながらも彼は受け入れるように目を閉じた。頬から手を抜いて彼女の腰を固く抱き締める。



 体勢を崩した彼女の頭が横で寝ている文月の腹部へ落ちると目覚めてしまう。いかがわしい光景に驚いていた。



 「何やってんだし!? うちが寝ている横でチューすんなよ! マジ、あんたらヤバいっしょ」



 慌てて2人が体を離してからそれぞれ文月の隣と忠清の隣へ逃げ込む。恥ずかしいのか数分近く、布団の中に籠っていた。



 沈黙が続き、気まずくなった文月は布団の中に隠れているユーディットへ彼のどのようなところを好んでいるか訊く。



 「いつも優しくしてくれるところと格好良くて綺麗な顔が好き。絶対、チー坊に好かれた女の子はとても幸せ者だと思うわ」



 「ユーディットは男を見る目がないよ。顔だけ良い奴なんて将来、ヒモる。そんなクズを養ってたらパパとママに泣かれるっしょ」



 従弟の悪口を吐いた文月が拗ねたユーディットから何発も横腹を殴られる。幸い、あばら骨は外していた。



 数日後の月曜日。ユーディットは彼の助言通り、いじめの主犯格に水をかける準備をしている。



 ちょうど何も事情を知らない主犯格は教室で取り巻きの女子生徒と会話していた。今が絶好の機会だ。


 

 やや吊り目気味で運動部に所属している主犯格は男女から注目されている。そのせいかユーディットのいじめを黙認していた。



 もし、反撃して更にいじめが激しくなれば知努は助けてくれると信じている。今から彼女は勇気を振り絞って挑む。



 水を汲んだバケツを持ち教室へ戻ってから彼女は主犯格の後ろに忍び寄り、勢いよくかけた。



 「きゃっ! な、何!?」



 今まで受けた仕打ちに対する怒りが治まらないユーディットは彼女の頭にバケツをかぶせそのまま手前へ引っ張る。


 くの字の体勢で床に腰が直撃した彼女は、くぐもった悲鳴を上げながら悶えた。横にいた女子生徒は助ける事無く教室の隅へ退避する。



 1人の男子生徒がバケツを被っている主犯格をスマートフォンで撮影していた。ユーディットはそちらへ向く。



 黒縁メガネをかけている彼は変装してこの学校へ忍び込んでいた三中知努だった。どうやら彼女の痴態を撮影しに来たようだ。



 「今、撮影した面白写真をネットにばら撒かれたくなかったらくだらねぇいじめはやめろよ、バケツマン」



 彼に便乗した生徒達はバケツマンの写真を撮影する。最早、写真がインターネットに掲載される事は止められなくなった。



 バケツを頭から外した彼女は起き上がり、彼へ掴みかかる。しかし、股に膝蹴りされ、何度も飛び跳ねた。


 あまりのおかしさに先程まで彼女と話していた女子生徒すら嘲笑している。すっかり教室から彼女の味方がいなくなった。



 「何だバケツマン、〇ンコでも痛めたか? 情けねぇ奴だな。絶対、こんな間抜けな奴を好きになる男、いないだろ」



 多少、他人より容姿が優れていた彼女はいじめられた経験がない。そのため今の状況に耐えきれなくなり、教室から逃げ出した。



 用事が済んだ知努はユーディットへ軽く挨拶して帰ろうとする。しかし、鉢合わせた祇園京希に呼び止められた。



 「ね、ねぇ、ラズベリーが載ったワッフルは好きかな? 私、ブルーベリーの方が好きだけど」



 彼女は知努の方へ速足で近づいて足を滑らせる。見ていた誰もが床に顔面を打つと予想していた。



 すぐ彼は手際良く転びそうになっている彼女を抱き寄せる。そして、先程の質問へ答えた。



 「もちろん好き。でも、俺はブルーベリーもストロベリーも同じ位好き」



 祇園京希は嬉しそうな表情になりながら彼の胸に頬擦りしている。ユーディットが怪訝そうに2人の様子を見つめた。



 男女問わず知り合い以外の人間へ素っ気ない態度を取る彼があれ程、女子と親密に接している姿は珍しい。



 「次、会った時はもっとたくさん話したいな。貴方とは何だか気が合いそうだから」



 「いいよ。その代わり、さっきみたいに浮かれすぎて怪我とかしたらダメだよ」



 彼女の手の甲へ口付けしてから彼は教室を出る。柔らかな口調やどこか格好付けているような仕草が更なる謎を深める。



 いじめの主犯格に反撃してから教室内で彼女をいじめる人間がいなくなり、平和な生活はようやく戻った。



 知努を好きな異性として意識してしまった彼女は彼に対して独占欲を高めている。いつも彼の事ばかり考えていた。



 祇園京希や三中知努に2人の関係性を訊けず、2年の月日が経ってしまう。あの日以降、2人は再会している様な素振りを見せない。




 現在、知努はユーディットを原付に乗っている女から助けるため囮となり、川へ転落してしまった。


 

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