第29話花びらは美しく散るためのモノ


 花見客が残したゴミによって美しい景観を損なってしまう話題は、この時期の報道番組で定番となっていた。


 有名な桜並木がある立派な国立公園を持っていない地域でまともに花見を行うならこの場所しかない。


 地面は1週間前まで木に付いていたであろう桜の花びらが散りばめられていた。終始を象徴する樹木だけあり、落ちている花びらにすら風情を感じさせられる。


 愛らしく枝へ付けている蕾を膨らませ、開花の後に美しく花びらが散っていく桜と違い大半の人間は醜く死んでいく。


 もし、不老のまま死ねる代償として短命になる薬があれば、恐らく知努は迷わず飲むだろう。桜の美しさの前で長く生きる素晴らしさをいくら主張しようが所詮、負け惜しみだった。


 靴擦れの影響で正座したくない染子は彼の膝に座って読書している。物語全体が陰鬱に包まれており、誰かと一緒にいる時しか読みたくない本だ。


 彼女は困らせる事覚悟でもし突然、両親に鶴飛の家から放逐されたらどうするかを訊いた。


 帰る場所がない女を好き放題扱える絶好の機会に優しく接する人間はそういないだろう。


 「家に連れ帰って孤独が癒えるまで何十時間も抱いてあげる。その後、一緒にご飯食べたり、入浴したりしようか」


 知努がハープの音色を奏でるように背中まで伸びている長い髪を指先で梳きながら耳元に顔を近づけ、優しく囁いた。


 言葉が出て来ない彼女は衝動的に彼の手首を掴み、自らの左胸へ持って行かせて、高鳴っている鼓動を聴かせる。


 恥ずかしそうに知努の目が泳ぎ、その様子を楽しんだ染子はまた読書へ戻った。しばらくして彼女の腹から空腹の音が鳴る。


 咄嗟に彼女は振り向くと気まずそうな表情で知努は顔を逸らして、バッグから3段重ねの漆塗りされた箱と2つの箸箱を取り出した。



 蓋を外すと1段目にアスパラのベーコン巻き、唐揚げ、出汁巻き卵、金平ごぼうが入っている。


 花見に着ていく服を選ぶため、朝早く自宅へ戻った染子は全く弁当の内容を知らない。好物な料理ばかりだ。


 箸を取り出した彼女が合掌し、出汁巻き卵から食べていく。椅子代わりに使われている彼は小声で皮肉を零す。


 「染子の事だから好きな卵焼きと唐揚げだけ食べて、嫌いな野菜をどうせ僕に押し付ける気だろう?」


 考えを見透かされても動じず染子は、予定通り詰められている出汁巻き卵と唐揚げを全て食べる。


 自宅ですれば両親に怒られるが、尻へ敷いている知努は諦め、にべもなく桜の木を眺めていた。


 彼は怒らせると手が付けられない事で有名だった千景を怯えさせている。それでも反省すればすぐ許していた。


 2段目がちらし寿司へ少量かかっている所しか見た事ない桜でんぷんがふんだんにまぶされた白飯だ。


 よく幼い頃に彼女は弟の庄次郎とちらし寿司の桜でんぷんがかかっている部分を取り合った。結局いつも母親に促され、無理やり弟へ譲らされる。


 母親から受けた屈辱を思い出した染子は傀儡かいらいの幼馴染に人前でとても出来ない行為を要求した。


 「く、靴擦れで痛いから私にご、ご飯を食べさせなさい」


 「おや? 染子たんは足が痛い痛いでちゅか? それなら仕方ないでちゅね」


 一瞬、知努の脳に異常を来たしたのかと彼女は心配したが、すぐ思い出す。父の影響なのか昔から小生意気な真似をする。


 服装も相まっていつも無気力のような話し方をする白木文月と同じどこか冷笑的な女性に見えていた。


 染子が花見で愛しの彼氏にたくさん甘えると文月から先程、送られたメッセージ通りの行動をとっている。


 知努が、染子を蔑んでいる文月へ今回の事を正直に伝えられるとしばらく彼女はからかわれてしまう。


 なりふり構っていられない染子は向き直り、知努の右腕を強く抱き締めながら弱々しい声で懇願する。


 「お、お願い。からかわれるからこの事は絶対、文月に言わないで。知努だけが頼り」


 若い娘の豊かに膨らんだ胸を腕に当てられている彼は慣れているのかにニタニタと笑っていた。


 帽子につけられているベールでうっすら見えるせいか女性のような色気を感じさせられている。


 「はいはい、分かったから女の子が大事な体を安売りしないの。これは2人の秘密」


 舌が軽く痺れる様な感覚に襲われた彼女は頷き、大人しくなった。今までこれほど奥ゆかしい知努は見た事ない。


 染子が半分ほど桜でんぷんがかかった白飯を彼に食べさせてもらった後、3段目の桜餅も同じく口へ運んで貰う。


 人間の弱点である口の自由を他人へ委ねている背徳感と緊張が彼女の体にしっとりとした汗をかかせている。


 満腹になった染子は彼の体にもたれかかり、大人しく座っていた。ようやく残った分の料理を知努が味わっている。


 食事を終えた彼が漆塗りの重箱をボストンバックの中へ片付けている背後に1本の箸を持った染子は忍び寄った。


 彼女の悍ましい支配欲が理性を凌駕し最早、彼の美しさを独占する事しか考えられなくなっている。


 「桜はかわいらしい花びらが枝に付いているだけじゃダメ。散ってこそ美しくなれるの」


 「私はあなたの美しさを独り占めしたい。だから私のためだけに散って下さい」


 昨日の朝、千景から殺されかけた知努は染子の鼻や鳩尾を肘鉄で打撃する事なく、座して待つように正座した。


 確実に苦しまず息の根を止められる喉仏へ箸を突き刺そうとする。だが何かが遮る様に途中で腕は震えて動かなくなった。


 そよ風が吹き枝に付いている花びらは宙を舞っている。毎年、人々がこの光景を幾度となく見ていた。


 これで桜が持つ美しさは終わってしまう。しかし夏、秋、冬とまだ季節が始まったばかりだ。


 揺るぎなき美しさを支配する代わりに彼女がかけがえのない家族と会えなくなってしまう。脳裏にあの言葉が蘇る。


 『願わくば物静かで色んな人間を愛せる素晴らしい女性になって下さい。心の底から尊敬し愛しています』


 強く握っていたはずの右手から箸を落としてしまい、染子は糸が切れたように崩れてしまう。


 一瞬しか訪れない機会を逃してしまい、脳内に終わりなき孤独を表したような美しい旋律が流れる。


 双眸から頬へ伝っている温かいはずの涙は、温度が消えたかのように何も感じさせてくれなかった。

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