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 程なくして、仙女のハーレーは待ち合わせ場所に到着した。手近なところにあった駐車場に愛車を停め、同行者の姿を探すことにする。

 先程、仙女の携帯電話には見知らぬアドレスからメールが届いていた。いわく、足湯で待っている──とのこと。どのようにして仙女のメールアドレスを知ったのか定かではないが、同行者からの伝言と見て間違いはなかろう。

 ならば向かうべき場所は決まっている。事前に調べた地図によれば足湯は入り口近くにあるようなので、もしかしたら気を遣われているのかもしれない。

 かつんかつんとブーティのヒールを鳴らしながら歩みを進めると、そう時間をかけずに足湯のあるエリアまでたどり着いた。入浴料はそこそこの値段だったので、今回は遠慮させてもらうことにする。決してケチった訳ではない。大学生たちを待たせないためだ──と仙女は誰にでもなく言い聞かせた。

 足湯には何人かの利用者がいた。それぞれのグループごとに足湯が割り当てられているため、同行者──単独の人物は見つけやすかった。他の利用者は軒並み複数人だったのだ。


「──お前が、発掘調査の同行者か?」


 石造りの浴槽に足を浸け、背中を向けていたその人物は、おもむろにこちらへと振り向いた。

 後ろ姿からもわかることではあったが、非常に小柄で幼げな少女だ。くすんだ灰色の髪の毛はミディアムショート、黒いパーカーにジーンズといった出で立ちから、一見性別不詳にも見える。しかし、服の上からそれとなくわかる体の凹凸が同行者の性別を物語っている。

 振り向いた表情は全くの無。ポーカーフェイスである。色白で鼻が高く、若干気だるげながらもはっきりとした目鼻立ちは西洋人のそれであろう。両の瞳だけが、漆を流し込んだように黒かった。

 その同行者はもぐもぐと口を動かしていた。足湯には机がついていて、其処に飲み物や果物が置いてある。浸かりながら飲食が出来る仕組みになっているのだろう。


「……はい。此度、発掘調査の同行を仰せつかった者です」


 口に含んでいたもの──皿を見るに恐らくパイナップルだろう──を飲み込んだ同行者は、こくりと小さくうなずいた。声は可愛らしい少女のもので、中華出身の人間と遜色ない語学力の持ち主だった。

 仙女はじいと少女を見つめながら、して、と言葉を次ぐ。


「お前の名は何という?」

「特にありません」


 即答であった。

 これには仙女も目を瞬かせる。いっそ清々しさすら感じさせる返答に、知らず口角が上がる。


「そんなはずはなかろう。人とはそれぞれ何かしらの名を持つものぞ。まあ、私はお前の名が知りたくて問うたのではない。呼び名がないのは不便だと思うてな。本名が名乗れぬのなら代替案を用意しておくが良い。その方がやりやすい」

「はあ」

「随分と気の抜けた返答だな。まさに炭酸を抜いた炭酸飲料の如し。飲めなくはないが何となくこちらの気勢も削がれる調子だ。私のことを知らぬ訳ではあるまいに、胆が据わっているのだな。褒めてつかわす」

「ありがとうございます?」

「語尾を上げるものではなし。素直に受け取るが良い。この程度の讚美程度で迷っていては、人生など迷路も同然ぞ」


 少女の調子は何とも言えないものだったが、仙女にとっては決して不快になるような会話ではなかった。むしろ面白いとさえ思えてしまう、不思議な魅力があった。

 少女は少し考える素振りを見せてから、では、と口を開く。


「私のことはヤンとお呼びください。楊貴妃の楊ではなく太陽の陽です。足の太さはコンパスには程遠いので、恐らく間違えることはないでしょうが──念のため」

「お前は中華の文芸作品にも少なからず触れているようだな。最近のものはあまり読めていないが、周樹人のことなら多少は知っている。奴はよく政府を批判していたからな。奴の書は発禁処分にもなっていた」

「魯迅を本名で呼ぶ方は初めて見ました。お会い出来て光栄です」

「いや、時機タイミングが違わない? 取り立てて気にすることでもないが──私が寛大で良かったな、小陽シャオヤン。君主級の人物なら不敬罪でお陀仏かもしれないぞ」

「いきなりちゃん付けですか……」

「聞いてる?」


 勿論、と少女こと陽はうなずく。わかっているのかわかっていないのか、掴みにくい顔つきだ。

 それはさておき、と陽は話を切り替える。さておくなよ、と突っ込みたくなったが、年長者としてこの小さな少女の言い分を聞くのも道理だと思い、仙女は黙って続きを聞くことにした。


「あなたのことは、どうお呼びすれば良いでしょう。人前で仙女様、と呼ぶ訳にはいきません」


 予想していたことではあったが、この少女は仙女の正体を知っている。共通の知り合いを持っているようなので、特段驚いたことでもないが──当たり前のことのように言ってくれる。普通なら、不老不死の人間に何らかの反応を示しても良さそうなものなのに。

 しかし、仙女はあれこれと騒ぎ立てられることが好きではない。そもそも、彼女の種族自認は人間だ。自分はたしかに老いることも死ぬこともそうそうないが、それ以外──とは言いきれないがほとんど──は人間と同様だと思っている。少し体質の特殊な人間、として扱われることこそ本望であった。

 それゆえに、陽の反応は不思議ではあったものの好ましい。どのような人生を送ってきたのかはわからないが、仙女に驚かないくらい波乱万丈だったのではなかろうか。彼女はまだ若いようだから、これからもっとすごいものを見るのかもしれないけれど。


「そうだな──私のことは、凰姐姐ファンジェイジェイと呼ぶが良い」


 ふ、と笑みを浮かべながら仙女は答える。堂々とした回答であった。

 これには、先程即答で以て返した陽も固まった。えっ、という困惑の声は小さかったが、しっかりと仙女の耳には届いた。


「ええと、あの……おう姐姐おねえちゃん……ですか……」

「そうだ。それがどうした?」

「馴れ馴れしくないですか? それと、我々に血の繋がりはないはずですが……」

「私はお前よりもうんと歳上だぞ? ならば姐姐と呼ぶのが良かろうよ。別に畏れ敬え、従属せよとは言っていない。ただ、ほんの少しの敬意と親しみがあればそれで良いのだ。過激な儒者どもの言うように死ぬ気で孝行する必要はない」

「しかし、私は本名を名乗った訳ではないのですが……」

「なんだ、やはり名前を持っているではないか。いや何、私も別にこれが生来の名ではないよ。気に入って着けている耳飾りが、たまたま鳳凰をあしらったものでな。指摘されることも多かったので、凰と名乗っているだけだ」


 そう言い、仙女は髪の毛を持ち上げて耳元を見せた。右側の耳には、言った通り鳳凰をモチーフにした耳飾りが着いている。

 陽はむむ、と小さくうなり声を上げた。仙女を凰姐姐と呼ぶことに抵抗があるようだ。


「では、凰さん」

「凰姐姐」

「凰殿」

「凰姐姐」

「……姐姐」

「凰、姐、姐」

「……わかりました。凰姐姐、改めてにはなりますが、目的地までのご案内、よろしくお願いいたします」


 仙女のごり押しにより、陽はついに折れた。もうどうにでもなれ、とその眼差しは物語っていた。

 勝った、と仙女は密かに拳を握る。年長者ぶる癖に変なところで負けず嫌いですね──と指摘してはいけない。


「ところで小陽。思ったのだが、人のいる中でこのような会話をして良かったのか? 人間は誰もがお前のような性分という訳ではないのだぞ」


 ふと疑問を覚え、仙女は声を潜めて陽に問いかける。周囲が静まり返っている訳ではないので、恐らく二人の間にしか聞こえないだろう。

 仙女は己が仙女だということを大衆に明かしてはいない。大抵の人々は驚いたり、妄言だとして仙女の言葉を信じなかったりする。中には口さがなく噂を並べ立てる者もいるし、老いないことに対して嫉妬されることもある。とにかく、普通の人間と違うというだけで大騒ぎされて、迷惑を被ることは目に見えている。

 幸いにして陽はそういった人間に見えないが、この会話が第三者に聞かれていたら面倒である。陽の雰囲気に流されて失念していたが、仙女は一般人を装っているのだ。正体が露見することだけは避けたい。

 内心焦りを抱いていた仙女だったが、陽はあくまでも落ち着いていた。ああ、と思い出したように呟く。


「その点に関しては心配いりません。他者に聞かれることを避けるために、ちょっとした隠行の術を用いています」

「隠行?」

「はい。フェート・フィアダと呼ばれるものです。これは魔霧であったり、衣服であったり、呪文であったりと語られるところは様々なのですが、どういった訳か私の場合は体質として持ち合わせているようなのです。ですから、姿を消す──とまではいきませんが、存在感を薄めることは可能です。気配を消すのによく使います。今回の場合は私の周辺が他者に注目されないよう気を張っていたので、直接私に相対していたあなた以外の人間は、会話の内容など知らんぷりで温泉を利用しているかと。勿論、あなたのような超自然的な存在や、相当な技量を持つ魔術師だとか法士だとかには、見破られてしまう可能性もありますが」


 ですので温泉の利用者が私たちの会話を把握することはないかと、と陽は締め括った。

 フェート・フィアダ──聞いたことのない単語だ。しかし、不思議と仙女には陽の語ることが真実であるという確信があった。仙女に真偽を見分ける能力はないはずだが、直感でこの少女の発言は正しいと断じることが出来た。

 人間でありながら、人智を超えた力を用いる。陽は人間の中で、仙人に近しいところにいるのではないか──そう思わずにはいられない。


「凰姐姐、ひとつよろしいでしょうか」

「うん? どうした」


 不思議な人間もいるものだ、としみじみしていると、陽から声をかけられた。視線を戻してみると、彼女の眼差しは机の上に注がれている。


「出立はこちらを完食してからにしたいのですが、差し支えはないでしょうか。まだライチとマンゴーが残ってて……牛乳もまだ飲めていないんです」


 陽が心配しているのは、今すぐ出発することで飲食物を完食出来ないことのようだった。これまでのポーカーフェイスに、ひどく悲しげな色が宿る。

 陽は食欲の塊であった。

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