水曜日 その五

「なんで病院に来たの?」


「食べる甲斐のある黒魂がこの中にあるから」


「ここに?」


葉月はただうなずいただけ、前に向かってすたすたと歩いて病院に入った。


子供の頃から病院がいやだった。病院独特の薬のにおいと、陰鬱的な雰囲気が一瞬にして僕の全身を包んだ。病院にはいったら椅子には坐ったり、横になったりしている人達が見える。誰を待っているのかは知らない。受付の看護婦は忙しく働いている。廊下から、医者や患者が歩きまわっている。患者の家族のような人もいれば、お見舞いにきた人もいる。


僕と葉月はエレベータに乗って最上階の5階へ向かった。


エレベータから出た瞬間、冷たい空気が正面から吹いてきた。5階の廊下には電気もろくについていない。お化けが出てくる絶好の場面だ。それに、人の気配がいない。エレベータに一緒に乗った人も5階になる前に、約束でもしたように全部、下りてしまった。


暗い廊下の中でも、葉月はつかつかと何の迷いもなく歩いて言った。


すると、ある部屋の前に立ち止った。目に力をいれてみると、かろうじて札の文字が読み取れた。「院長室」と書いてある。


勢いよくドアを開けて、葉月は部屋の中に入った。


本で隙間なく詰め込まれた本棚、事務用の机、盆栽。いかにも、事務室の感じを与えてくれた。机の向こうには五十代に見える男が坐っている。僕らが入るのを見て、手にしてた本を机の上おろした。


「あなた達は誰かね?」


声も歳月に擦れてしわがれている。


葉月は答えず息を吸った。


しかし、院長の身体からは黒魂が出てこなかった。


「はっはっは。あなたが『月』ってわけね?でも、あんたにはワシは吸われないね」


机に手を付いて立ち上がった院長の身体はは急速に変化し始めた。身体からは筋肉がむっくりと腫れ上がってしまった。


一番僕を驚かせたのは院長の頭だった。頭だけは身体と比率にかまわず風船のように膨らんだ。目玉は小さな赤い点となった。口だけはバカでかい。そのでかい口の中から真赤な舌が蛇のように、這い出してきて葉月に向かって、銃弾の速さで飛んできた。


飛んでくる舌に、葉月はびくともせず、ただ手を払っただけだ。葉月の手に院長の舌はあっさりと弾き飛ばされ、壁にぶつかった。


葉月はすぐ自分の髪の毛を毟り掌に平らげた。髪の毛は葉月の手の長さに延びて、親指ほどの太さになった。変化したた髪の毛を、葉月は院長の舌に向けて投げた。


だが、髪の毛はすべて院長の口の中に吸い込まれてしまった。


「わしの吸力の方が上のほうだなあ」


院長はけらけらと笑って、舌を無闇に狭い部屋の中を薙ぐ。むちゃくちゃにされた家具や紙の破片が部屋中で舞う。


葉月は僕を連れてあちこちに避けた。破片が僕に傷付けることができないように。


この情況をみた院長は顔を上げ舌を吐き出した。院長は天井を貫いた舌を力いっぱい葉月の頭上に向けて叩いた。


葉月はやすやすと避けたのだが、勢い着いた院長の舌が床を叩き割って、三人は崩れた穴から下に落ちた。


病院にはたちまち喚き声や泣き声が広がった。逃げる人と助けようとする人で、病院内は乱雑そのものとなった。


葉月は狭い場所での攻撃は思うままにできないと分かって、僕を連れて外に出た。


なぜか、足に力が入れなくなって地面に座り込んでしまった。葉月は病院の方をじっと見つめている。そんな葉月を見上げると、院長が飛び降りてくるのが見えた。


赤い舌はまた葉月を狙ってを強く叩いが、葉月の投げだした髪の武器に弾き飛ばされた。


「おとなしくわしに食べられたらどうだい?」


院長の話を聞いて、葉月は何も言わなかった。ただ僕の前に立っている葉月の背中がなぜかたくましく見えてきた。


「何する気なの?!葉月」


僕は怖くなって、震える声で早口にいった。


じっとしている葉月をみた院長は口を開いた。


「やっと食べられる気になったかい」


院長の舌はすばやく葉月を巻きつけて、自分の口元に引きずっていった。葉月は抵抗せず引きずられるままに身を任せた。


葉月の身体が院長の口元とほんのわずかな距離をおいた時、院長は急に葉月を放り出した。


「お前、わしの身体に一体何をした?!」


院長の腹の部分から白い斑点は現れ、徐々に広がって黒い院長の身体を真っ白に染めようとした。院長は白くなっていく自分の身体を見てから、気が狂ったように喚き出し、赤い舌で周りにいる人を――看護婦、医者、患者、見舞い者――にかまわず巻きつけて、口の中に引きずった。


捕らわれた人は助けを求めても、誰も勇ましく怪物のような院長と戦おうとしなかった。


不思議なことに、人を食べたら白い斑点は一時的、蔓延を停止したように見えたが、またすぐ、院長の身体中に広がった。


院長は爆食者のように人を食べたけど、白い斑点の蔓延を抑えることはできなかった。


「無駄だ。あなたは私に食べられる運命だから」


葉月は冷たく言って吸う準備をした。


院長の身体から分離された黒魂は凄まじい叫び声を立てながら、葉月に吸い込まれた。黒魂をなくした院長は地面に力なく倒れた。黒魂に食べられた人々は院長の周りに倒れた姿で現れた。


葉月は自分の髪を毟りとって息を吹いた。髪は四方八方に向かって飛んでいき、人達の頭に差し込んだ。


「記憶を消すため」


僕が聞く前に葉月が教えてくれた。葉月はそのまま倒れ、僕が駆け寄って背負った。疲れたのだろう。遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきたので、僕はどうすればいいか考える暇もなくすぐその場を離れた。

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