二人と一個の「ありさ」
Phantom Cat
1
「ただいま、
『おかえりなさい、あなた』
帰宅すると、すぐに妻の声が迎えてくれる。結婚して5年、それは常に変わらない。
妻が亡くなっても、ずっと。
早いもので、先日彼女の一周忌を終えたばかりだ。スキルス性のガンだった。分かった時には既に手の施しようがなかった。亜里沙は入院して治療するよりも、自宅での緩和ケアを選んだ。そして、プログラマーだった彼女は残された時間の中で、世界で唯一の、彼女の声で喋るスマートスピーカーを作り上げたのだ。
”これでまた、一緒にいられるね”
そう言って、亜里沙は朗らかに笑った。彼女が旅立ったのはそれから一週間後のことだった。
葬儀は慌ただしく過ぎていった。でも、かえってその方が有難かった。忙殺されていれば余計なことを考えなくて済むから。泣いているヒマもない。
だが、納骨を終えて自宅に戻った時、ようやく僕は亜里沙がいない現実に直面することになった。
もう彼女を抱きしめることはできない。食事をする時も独りぼっちだ。彼女の手料理も食べられない。いつしか涙が頬を伝っていた。彼女が亡くなって以来、初めて流した涙だった。
「会いたいよ……亜里沙……君の作ったコロッケが、食べたいよ……」
震える声で僕がそう一人ごちた、その時だった。
『あなた、コロッケのレシピを教えるわ。これからは自分で作ってね』
彼女の残したスマートスピーカーが、そう言ったのだ。
「……え?」
キョトンとする僕に構うことなく、スマートスピーカーはレシピを語りだした。ジャガイモの銘柄からひき肉、玉ねぎの分量、スパイスの種類、油で揚げる時間まで、事細かく。
反射的にメモを取ろうとしたが、すぐに思い直した。「彼女」が語り終えるのを待って、僕はもう一度「彼女」に問いかける。
「亜里沙、君の作ったコロッケが食べたい」
間髪を入れず、「彼女」はレシピを繰り返した。それで僕は早速その通りにコロッケを作ってみた。頬張った瞬間、涙が出た。亜里沙のコロッケ、そのものだった……
それ以来、スマートスピーカーの「亜里沙」は、僕の生活に欠かせない存在となった。
「彼女」のおかげで亜里沙の手料理はほぼ全て僕自身で再現できるようになったし、話し相手としても十分だ。当然スマートスピーカー本来の機能であるスケジュール管理、情報検索、家電製品の操作などもしてくれる。
だけど、本物の亜里沙のように触れ合ったり抱きしめたりすることはできない。それでも目を閉じて「彼女」の声を聴いていると、まるで本当に亜里沙が生きてそこにいるような気持ちになれる。もちろん中身は普通のスマートスピーカーとそう変わらないから、時にはトンチンカンな受け答えをしたりもするが、僕にとってはそれは些細なことだった。
そして。
寝る前に、僕はいつも「彼女」にこう言うのだ。
「亜里沙、子守唄を歌って」
そうすると、「彼女」は亜里沙の声で子守唄を歌ってくれる。それを聴きながら眠りに落ちると……不思議なことに、亜里沙の夢が見られるのだ。
一緒に暮らしていた頃の、とても幸せな夢……
だけど、夢はいつかは覚める。初めの頃は、目覚めた後で悲しくていつも泣いていた。でも今は慣れてしまったのか、涙することはなくなった。彼女が夢に出てくる、ということは、僕の中で彼女は生きているんだ。そう思えるようになったから、かもしれない。
「おはよう、亜里沙」
いつものように、声をかける。
『おはようございます。今日の天気は、晴れ時々曇り。降水確率は10パーセント。最低気温12℃、最高気温23℃です』
何の変哲もない、スマートスピーカーの応答。だけど、それが亜里沙の声というだけで、とてつもない安心感に僕は満たされるのだった。
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