DEEP

平 遊

MAZE ~ side Ichinose ~

1.きっかけ

「一之瀬」

「はい」


部長席から、俺を呼ぶ声。

光石さんが、俺を呼んでいる。

ここは会社だ、もちろん、仕事の話だろうけど。

それでも、俺の名を呼ぶ光石さんの声は、いつだって心地よい。


俺、一之瀬 怜司。

A会社の企画部門に所属している、中堅社員だ。

実は以前、営業部門にいた頃にかなりのでかいミスをし、そのリカバリで精神的にも肉体的にも追い込まれていた所を、光石さんに救ってもらった。

当時の光石さんは、俺の隣の課の課長。直属の上司では無かったが。

俺の課の課長がロクにフォローをしていない事に気付いていた光石さんは、見えない所で俺のフォローをし続けてくれていた。


「一之瀬。全てを独りで抱え込もうとするな。もっと周りを頼れ。例えば俺とか、な」


その時の、厳しくも優しい光をたたえた、光石さんの瞳。

俺は恥も外聞も無く、光石さんの前で、泣いた。


当時の俺は、同期の中では出世頭。

おまけに、女に不自由することもなく。

すこしばかり、天狗になっていたのだろう。

そのミスも、もとはと言えば、ほんの気の緩みが引き起こしてしまったもの。

完全に、俺一人だけの責任だった。

『天罰だ』だの『いい気味だ』だの、陰から聞こえる言葉ばかりに気を取られていた俺にとって、光石さんは俺が縋れるたった一人の味方だった。

もともと、光石さんの評判は耳にしていた。

ミスター・パーフェクトの異名をとるほどに完璧に仕事をこなし、且つ、部下の面倒見も良く、誰からも尊敬され憧れる存在。


「起こしてしまった事を悔やむ暇があったら、まずはリカバリだ。プライベートをとやかく言うつもりは無いが・・・・仕事に支障を来たす事は、慎んだ方がいい」


天狗になっていた俺には誰も掛けなかった言葉を、光石さんはストレートに、嫌味なく掛けてくれた。

それは素直に俺の胸に染み込み、心からの反省を促す言葉。


光石さんのお陰で、俺はなんとかミスを挽回し、事なきを得る事ができたのだった。

だが、光石さんはただの一言も、自分がフォローしたという事を口にせず、会社からの俺の評価は逆に上がってしまったくらいだ。


「光石さん、この件は光石さんがいて下さったから・・・・」

「これは、君の実力だ。俺はほんの少し、手伝っただけだ」


光石さんはそう事もなげに言って、笑う。

この件を境に、俺は光石さんに心酔し始め。

それはいつしか胸の奥深くで、別の感情へと変わっていたのだった。



その後、光石さんは企画部門に部長として栄転し、そのすぐ後に、俺を部下として同じ企画部門へ引っ張ってくれた。

今俺は、光石さんの元で働けるこ事に、日々喜びを感じていた。

半面。

胸の奥底では、常にチリチリとした鈍い痛みを感じていた。

その理由は。

総務部にいる、光石さんの彼女だと噂の女子社員。

おそらく、ただの噂では無いのだろう。

うちの部へ書類を届けに来る彼女を見る光石さんはいつでも、満たされた微笑みを浮かべているのだから。

胸の痛みは、くだらない嫉妬。

分かっている。分かっているんだ。

俺のこの想いは、絶対に叶わないものだということくらい。



「新規プロジェクトの話は、聞いているな?」

「はい」

「実はきみに、プロジェクトリーダーを任せたいと思っている」

「は?」

「やってくれるな?」


期待に満ちた、光石さんの目。

その期待に応えない理由が、俺には見当たらない。


「はい!」

「期待しているぞ」


光石さんは、嬉しそうな笑顔を浮かべて俺を見る。


「先方のプロジェクトリーダーは、社長のご子息だそうだ。先方もかなり気合が入っているようだからな。しっかり頼むぞ」

「はいっ!」

「今日の午後、、先方の社長とご子息であるプロジェクトリーダーがお見えになる。挨拶の場には私も出席するが、その後の打ち合わせは、リーダー同志で進めてくれ」

「承知いたしました」


光石さんに深々と頭を下げ、俺は自席へ戻った。

嬉しさに、その場で踊り出したい気分だった。

光石さんが、俺を認めてくれて、プロジェクトリーダーに抜擢してくれた。

全面的に期待してくれている。

これはもう、全力でこのプロジェクトを成功させるしか無い!


この時の俺は胸の痛みも感じなくなるほどに、全身にやる気をみなぎらせていた。

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