第2話 朝の読書と所長命令

 長い夢を見ていたような気がする。

「目を開けて……私を守ってくれた人……」

 優しい響きに目を覚ますと、君がいる!

 黄昏の空のような紫の瞳に僕だけが映る。

 もう離さない……!

 柔らかな身体を強く抱きしめ、唇を重ねながら瞼を閉じたとき……。


 手の中に何かが押し潰された感触だけを残し、全てが消え果てた。

 潰れたのは僕の右目。

「ああ! やってしまったね……」

 そこに現れた半仮面の麗人。紅を差した唇を嘲るようにニヤリと歪めた。

「可哀想に。もう彼女とキミを繋ぐものはない」

 僕は殴りかかろうとした。半仮面はひらりと身をかわして去った。

 落ち込んではいられない。探しに行かなくちゃ。歩き出そうとする僕に声を掛ける人がいた。


「もうやめたら? そんな苦しい旅は」

 甘い声に振り返ると、栗色の巻き毛の少女が何故か地べたを這うように、僕の脚に縋りついてきた。顔は髪に隠れて見えない。

「きっと新しい恋人がイルよ……あのひとにも、あなたにも……」

 甘い声はしかし、まるで不吉な予言のように響いて僕を苛立たせた。

「ウソだろ、エレン。僕の気を引くために、想像で言っているんだろう」

 身体の熱を彼女で鎮めることを思いつく。理性が止めるより早く僕の手が彼女の腕を掴んだ。

「イヤ!」

 栗毛の少女の顔が見えた。僕の知っている顔と違う。その眼からは痛みと恐怖しか読み取れない。

「助けて……お姉ちゃん……!」

 この子は妹のメリッサのほうだ! どういう理由か知らないが、僕は石にならずに済んだ。

 悲鳴を聞いて駆けつけたのがエレンだ。

 妹を害する者。彼女自身の純情を裏切った者。何重もの失望と嫌悪が僕に向けられた。


 胸の苦しさに目が覚めた。最悪の夢だ。

 

 

  *  *  *

 


 ローラ専用の魔力感知……だと思い込んでいた能力は、実はそんなものではなかった。ただ僕に反魂術を使うときに取り出された右眼に反応していただけ。

 いまローラを探すのにさしあたり出来ることがない。不死者の僕は、睡眠欲が希薄なので翌朝ずいぶん早めに職場に着いた。


 相談所の鍵は開いていた。もっと早い人がいるのだ。

「おはようございます」

 入ってすぐ誰の姿も見えなかったが、誰にともなく挨拶した。皆さん、呪わしき不死者が人間のふりをしに来ましたよ。

 つい、資料室に足を運んでいた。塔の見取り図を暗記するためによく行った部屋だ。

 

 奥から女性のすすり泣く声がして驚いた。本棚の段と段の間から見るに、読書中の人だ。金髪が日焼けした肩にかかっている。

「お、おはようございます……サリアさん?」

 慌てて涙を拭きはじめたのは、やはり先輩職員のサリアさんだ。しかし僕が数日間で知った、仕事好き、お金はもっと大好きな彼女の人物像から意外な状況だった。

 それに泣くほど感動的な本がこの資料室にあるとは知らなかった。

「おはよう。これね、熾火のネリーの自伝。知ってる?」

 彼女の抱えた本の表紙には『火の悪魔の子と呼ばれて』と書いてある。


 彼女は「熾火のネリー」の話を始めた。火の魔力の持ち主で、いまは西都で孤児院の運営に携わっている女性だとか。

 寒村の貧しい家に生まれたとき魔力を暴走させて火傷を負い、苦労してきた。

 村の篤志家から奨学金を出してもらい、魔法学校で資質を見出され出世したそう。

 サリアさん自身が炎の魔力を持つので、なおさら感じるところがあったのかもしれない。


「勉強と思って読んでみなよ。とりあえず第1章だけでも」

 困った。熾火のネリーが立派な人なのは分かったが、興味が無いなんて言えない。

「あの、僕、新人ですし、そろそろ掃除でもしようかと……」

「それは私がやっとくから」

 サリアさんは僕に本を持たせて資料室の出口へ行ってしまった。

「資料室の本は禁帯出だからね!」


 いまのはおかしくないか。朝の掃除は新人の義務ではないのに、掃除を代わってもらうかわりにオススメの本を読む約束をした風になってしまった。

 読めばいいんだろ、読めば。第1章だけ。いつまでも気にするのもイヤだからな。



  *  *  *



 著者ネリーの前半生は幸薄い。序盤の出生の話からして気が滅入る。


 父親は旅の駆け出し魔術師で、母親の妊娠中に失踪。そんな男でも、貧しい母に未知の世界を教えてくれた存在だ。

 父譲りの魔力ある子に対応できる産婆を雇いたくても無理だ。せめて火事など出さぬよう、村外れの小川の岸で秘かに出産。懸念どおり火の魔力が暴走し、必死に助けを求めた。

 おかげで大事に至らなかったが、女の赤ちゃんの顔に大きな火傷の跡が残った。この子が後のネリー女史だ。 


 村人たちは、命を助けてやったし他に何も要求するなと言わんばかり。ネリーは何かにつけて「火の悪魔の子」と罵られた。母親は優しいのが、かえって読むのが辛いほど哀れを誘う。

 いっそ街の貧民窟のほうがましではないか。似たような境遇の母子が沢山いるぞ。

 でも、それでは水辺で出産できないか。

 いかんいかん、先を急ごう。


 主人公にも読者の僕にもひとときの安らぎとなったのは、彼女と同い年の少年二人。正義漢ジェイクと親切なロムだ。ネリーはジェイクを好きだったように見えたが、彼はエイラという美少女と仲良し。

 ロムは奇しくも僕の前任者と同じ名前だ。前任者のほうは勉強熱心な人だったとセロ先輩は語る。僕はいま勉強していると言えるだろう。


 ともかく、貧しさも周囲の偏見も、脱するのは難しいものだ。魔法学校の学費を得たのがネリー女史の大きな転機だ。

 なら、奨学金を手に入れた経緯だけは知ってやろうじゃないか。金持ち、善意、将来性……そんな言葉を探して斜め読みした。

 いつの間にか、少女ネリーが希望に燃えて学園に辿り着くところで第1章が終わった。

 

 あ、あれ? 学費を調達した経緯は? 

 いい加減に読んでいたから見落としたのだろうか。

 後で明かされる可能性もあると思い、第2章のページを開く。

 同じ寮の生徒と自己紹介しあう辺りで、著者はどうやら奨学金の獲得法を記す気はないらしいと思えてきた。でなければ、やはり僕が見落としたのだろう。


 もう始業時間も近い。

 本をどこの棚に戻せば良いのか分からず、近くの机に置いて資料室を出てしまった。



  *  *  *



 サリアさんはとっくに当番表に従って受付にいた。

 掃除のお礼を言うべきだろうか。けれど話しかけて本の感想を聞かれたくない。あの本を読んだ人が他にもいるといいのだが……。


「セロさんは、ネリーの本を読みました?」

「ええ」

 この話題を喜ぶ気配がないことに安堵して、隣席のセロ先輩に疑問を打ち明けた。まじめに読めば分かって当然のことかもしれないので、サリアさんのような愛読者には聞きづらい。

 彼は眼鏡の真ん中を中指で押し上げた。考えごとをするときの癖らしい。

「覚えている限り、出資者についてほとんど触れていませんでしたね。そうしたくない事情でもあるのでしょう」

 分からないのは僕のせいではなかった! サリアさんのところへ行こう。


 そこに、ドナ室長があわて気味に相談室から入ってきた。研究室との間の廊下から。

「皆さん、おはよう。モロー君、所長が呼んでいますよ。出張してもらうことになりますが、所長から詳しい話があります」

 

 ドナ室長に促されて所長室に入る。この部屋に入るのも、所長に会うのも初めてだ。


 奥に壁いっぱいの巨大な水槽がある。

 その内部に、まるで水の精霊のような薄衣を纏うた乙女が浮かんでいる。髪も衣も水中にゆらめく。

 人形なのか幻術なのか、どちらとも違う何かなのか……?

 ふだんは研究室にいる、魔術師の弟子のたいへん小柄な女の子もこの部屋に来ている。水槽の光景に驚いているのはどうやら僕だけだ。


「待ちかねましたよ、モロー君」

 水槽の中の女性がしゃべった! 水中と思えぬ明瞭さで。そういえば初対面の人物は彼女しかいない。


「あの神秘的な女の人が所長……?」

 年齢性別よりも驚くことは山ほどあるが、他に言い方が思い浮かばなかった。

「そうです。見た目は乙女なんですよぉ」

 僕は小声でドナ室長に言ったのだが、答えたのは魔術師の女弟子だ。見た目は乙女で中身は何なのだろう。


「あなたには、二人の人物の旅の護衛をしてほしいのです。一人はそこにいる、若き魔術師シンディ」

 魔術師の弟子はとんがり帽子をとって一礼した。

「研究室長の内弟子ですが、こう見えても一人前の魔術師なんですよぉ。よろしくお願いしまぁす」

 よろしくお願いしますと返しながら、この人は師匠ともこの口調で話しているのだろうか、と不思議に思う。

「さて、もう一人は……」


「遅くなりまして申し訳ありません!」

 そこに息を切らして男が駆け込んできた。中年と言っていいくらいの年だ。汗をふきふき自己紹介を始める。

竜殺しドラゴンスレイヤージェイクの旧友、ロムと申します。

 お初にお目にかかる方は、はじめまして。魔人狩り更生施設の職員です。以前こちらの相談室に勤めさせていただいておりました」

 この人が前任者か。どこかで聞いた名前も出てきたような……。

 水中の乙女が涼やかな声で僕に言う。

「私から紹介する手間が省けましたね。

 あなたに護衛をお願いするもう一人が、この方です」



(続く)



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