第101話 【断章】星空の下で①

 慌ただしく年末が過ぎ去り、新しい年がやってきた。

 着々と水面下で進んでいくミレニア逃亡計画に対して、周囲の混乱はどんどんと進んでいくようだった。

 優秀な参謀を手に入れたギークの横暴は加速の一途を辿り、貴族階級はどんどんと腐敗していく。ゴーティスとザナドは早々に長兄に見切りをつけ、軍部の求心力を極限まで高めて完全に私兵に近い独立部隊として編成し、国防のための出兵を繰り返す。ギークの対抗馬として有力視される兄たちは、互いに水面下で勢力争いを続けるばかりで有効打を打てそうな者はいない。

(帝都の様子――それが、何だって言うんだ)

 昼間の出兵から帰ってきたロロは、ぐい、と煩わしげに首元を乱暴に緩め、手早く軍服を脱ぐ。

 ラウラの気になる言葉を自分なりに検証しようと、軍務に駆り出されるたびに時間が許せば帝都を歩いてみたりしたが、軍服に警戒するのか、人っ子一人近づいてこない。帝国ではあまり見ることのない白に近いシルバーグレーの髪と禍々しい紅い瞳、ダメ押しの奴隷紋がよりロロを遠巻きにしていた。

 ラウラはといえば、ビジネスのルールを覆すつもりはないらしく、報酬はびた一文負けるつもりは無いらしい。

(あの快楽主義者と一緒になるなんざ、絶対に御免だ。何とか情報を引き出したいが――……)

 苦い気持ちで頬を歪め、任務でついた埃や汗を落とすため、備え付けの浴室でザッと湯を浴びる。ミレニアの護衛任務につく時は、何かの拍子に彼女に触れなくてはならないときがある。あの清廉な少女を穢さぬよう、時間が許すなら、軍務の後はなるべく湯を浴びるようにしていた。

 天上から降り注ぐ湯の滝に打たれながら、そっと瞳を閉じる。耳の奥で、いつかの主の言葉が蘇った。

『お前、最近、何か悩んでいるでしょう』

『気になることがあるなら言いなさい。ちゃんと、聞いてあげるから』

「――――……」

 キュッ

 蛇口を閉ざすと、耳元でうるさかった滝が止まった。瞳を開けば、ポタポタと透き通ったシルバーグレーの髪から湯が滴るのが目に入る。

「今更――何だって言うんだ……」

 ぽつり、と口の端から零れ落ちた呟きは、狭い浴室の中に響いて消えた。

 くるりと踵を返し、脱衣所に向かうと、耳の奥に蘇った声を振り払うようにごしごしと乱暴に髪を拭う。洗濯担当の人間が優秀なのか、水気を吸っていく布は汚れ一つない新品のような白さだ。

 ふと目を上げると、脱衣所に設えられた鏡が目に入る。真っ白な布をかぶった頭から、血の色のような真っ赤な瞳が覗いていた。

 禍々しい、不吉の象徴。昔から、万人に忌まれた気味の悪い瞳。

 我知らず、ぐ……と息を詰めると、より醜く紅が歪んだ。

「――わかって、いたことだろう……」

 鏡の中の不吉の象徴から逃れるように視線を外し、うつむく。

 いつだって、すぐに思い描ける。

 肥溜めの中で、女神と出逢った、あの日のことを。

 ――この忌まわしい瞳を『美しい』といって、生きる価値を与えてくれた、澄み切った泉のような清らかな少女との出逢い。

 あの日から五年間――ずっと、ずっと、地を這う虫けらの胸の奥で燻り続ける熱の塊。

「……馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てるように言って、口の中で舌打ちを響かせる。身体に付着していた水分を吸って重くなった布を籠へと乱暴に投げ入れ、気持ちを切り替えるように手早くいつもの黒装束を身に纏う。

 この装束を身に着けているときは、いい。

 ――少女の専属護衛であるという本分を、いつだって思い出すことが出来るから。

 

◆◆◆


「たまには、夜の散歩でもしようかしら」

 書斎の中で、羽ペンを片手に考察に行き詰ってしまったらしいミレニアは、疲れた笑みを漏らしてから立ち上がった。

 ここに籠り始めて早数刻――その間、一言も声を漏らすことなく視界の外で直立不動で控えていた寡黙な護衛兵を振り返る。

 ふわり、とミレニアの顔に柔らかな笑みが浮かんだ。

「ついてきてくれる?」

「はい」

 礼をして返事をすると、ミレニアは満足げに頷いて部屋を出る。ロロはいつもの定位置に控えて影のように寄り添った。

 気ままに足を向けているらしいミレニアは、宮の中から足を延ばして、庭園の先まで歩いていく。既に日はとっぷりと暮れてしまい、ミレニアの髪と同じ色の空が広がり、いくつも星が瞬いていた。

「寒くはありませんか」

「ふふ、ありがとう。大丈夫よ。これ、とても暖かいの」

 肩にかけているショールの端を軽くつまみながら嬉しそうに笑う。何枚も持っている上等な刺繍の施されたショールと異なり、やや網目が不揃いな素朴な厚手のショールは、掃除担当のうちの一人が見つけた趣味の手芸作品らしい。冷え込みが厳しくなる夜遅くまで平気で作業に没頭するミレニアを思って、従者の一人が心を込めて編んでくれた決して上等とは言えないそれを、ミレニアは最近ずっと、毎晩上機嫌に身に着けている。

「ねぇロロ」

「はい」

 前を行くミレニアは、振り向くことなく、思い出したように声を上げた。

「……”幸せな”結婚、って何かしら」

「――――……」

 紅い瞳が、せわしなく数度瞬く。

 ミレニアは、宝石のような翡翠の瞳を空へと向けて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「私は、昔から――結婚と言えば、己の意思が反映されることなど決してない、家と家との結びつきだけを考えた”契約”の結果だと思っていたわ」

「…………」

「どんなに性格が悪い男だろうと、能力が低い男だろうと、関係がない。女に生まれた以上、己の人生について選択をする自由はないんだもの。幼少期からデビュタントを迎えるまでは親兄弟に縛られ、嫁いでからは嫁ぎ先の家に縛られる。……夫との間には、愛だの恋だのが芽生えるよりも先に情が芽生えて離れがたくなるものなのだ、と、昔お茶をさせられた貴族の令嬢たちは言っていたわね」

「……そうですか」

「恋愛をして、その結果として結婚をするというのは、私にとっては書物の中にしかない世界。――勿論、知識としては、市井の民がそうした結婚をすることもあると知っているわ。ごくまれに、道ならぬ恋をした令嬢が、こっそりと屋敷を抜け出して親が決めた相手とは別の男と駆け落ちをする、なんて事件が起きることも知っている。……だけどそれは、やっぱり遠い世界の出来事。想い人と添い遂げる、なんて無責任なこと、皇女として生まれたときから空想の出来事だと思っているわ」

 可憐な唇が、ほぅっとため息を吐くと、白い吐息が宙にこぼれてゆっくり溶けていく。

 星が瞬く夜空にそれが完全に溶け切ったのを見てから、ミレニアは横顔でロロを振り返る。

 口の端には、柔らかな笑みが浮かんでいた。

「でもね。――決して叶わないことだと思っているから、恋愛というものに、憧れの気持ちを持っているのも確かなのよ」

「――……?」

 ロロの眉が怪訝に寄せられる。

 ミレニアは笑みを悪戯っぽく深めて、くすりと吐息を漏らす。

「家だの身分だのを考えず、周囲の目も己の果たすべき役目も無視をして、ただ心が赴くままに、胸を焦がす愛が囁くままに伴侶を決めて、添い遂げたら――そういうのが、”幸せな”結婚なのかしら」

「…………」

 にこり、と笑みだけを残して、ミレニアはまた気ままに足を向ける。ひんやりとした冬の夜気が二人を優しく取り囲んだ。

「絶対に出来ないことだとわかっているから、憧れを持ってしまうのよ。……もしも、そんな人生を”選択”出来るとしたら、どんなに”幸せ”なんだろう――そんな風に、思ってしまうのよ」

「…………はい」

 言葉少なく相槌を打つ護衛兵に、ミレニアは苦笑する。

 そして、すぅっと息を吸い込んでから、今度は身体ごとロロを振り返った。

「お前は『特別』だから、教えてあげる。……<贄>として選ばれたと知って、一年後に確実に迫る”死”を意識したとき――皇女ミレニアに、”未練”なんてなかった」

「……はい」

「でもね。十四歳の、ただのミレニアは――ほんの、ほんの少しだけ――”幸せ”を叶えられなかったことを、残念に思っていたわ」

「――――――」

 紅の瞳が、素早く瞬く。

 悪戯っぽく笑って、翡翠の瞳が柔らかく緩む。

「だって、あんなに練習したのに、デビューダンスも踊れないのよ?人生で結婚式の次に美しく着飾るデビュタントも夢のように消えてしまったわ。将来を約束した殿方と、初めて手を取り合って、身体を寄せ合って、音楽にかき消されないように囁くように会話するドキドキも、永遠に経験できない」

「……はぁ…」

「デビュタントでは、婚約者か、未婚の親族の男性とデビューダンスを踊るものなのよ。――あぁ、私にそんな殿方がいるのか、なんて現実的なツッコミはなしよ?これは私の妄想と憧れのお話。……私には、心から恋焦がれる婚約者か、私のことを心から大切に思ってくださるお兄様がいて――ふふ、そんな殿方と、ドキドキしながらダンスを踊る妄想をしたの。そんなことが実現したら、どんなに”幸せ”だっただろう――って。ふふふ、可愛いものでしょう?」

「……はぁ……」

 よくわからない、という顔で眉をしかめながら、言葉だけで相槌を打つロロにミレニアはさらに言い募る。

「キラキラ輝く豪奢なシャンデリアの灯りに照らされて、十五年の人生で一番きれいに着飾って――その夜出逢う人皆に『今年十五を迎える淑女の中で、最も美しい』と褒めてもらうのよ。……でも、誰に言われるよりも、愛しい将来を約束した殿方に言われることが、一番嬉しいの。たとえそれが、どんなに拙い表現だったとしても、ね」

 いつかミレニアが口にした『何を言うかではない。誰が言うかだ』という台詞を思い出す。どうやらあの台詞は、この妄想から生まれたものらしかった。

「熱く滾る胸を持て余すような恋に溺れることも――口付けの一つだって経験せずに寂しくこの命を終えるのだと思ったら、ほんの少しだけ、残念に思えたのよ」

 最後は、少しだけ、寂しそうに。

 ミレニアは吐息だけで笑って、長い睫毛を伏せた。

「嗤っちゃうでしょう?でも、同時に、覚悟も決まったわ。私が、”死”を意識したとき、唯一頭をよぎった”未練”は――どうせ、生きていても、叶わない」

「――――……」

「ふふ……勿論、現実くらいわかっているわ。私には、私を大事に思ってくれるお兄様なんていなくて、愛し愛される恋人なんてどこにもいなくて――これから先、何年生きようと、この”未練”は叶わない。……じゃあ、別に、一年後に死んでしまっても特に悔いはないわね、と――そう、思ったのよ」

 寂しげな横顔を見せた主に、ロロは少し瞳を揺らす。

「……意外でした。……姫が、そのような、”未練”を抱いていたとは――……」

 ゆっくりと、慎重に言葉を選んで声を発する。

「しかし、それは――クルサールとでは、叶えられないのですか……?」

 しん……と静まり返った夜気の中、低い声が響いて消える。

 ミレニアは、どこか達観したような、諦観したような笑みを浮かべた。

「私が彼と結婚するのは――このまま<贄>になってしまったら、今の紅玉宮の従者たちを不幸にすると思ったからよ。愛だの恋だのではないわ。……言ったでしょう。私の”未練”は、<贄>になろうがなるまいが関係なく、叶わない」

 言ってから、くるりと踵を返して歩き出す。

「どうして急にこんなことを言い出したのか?と不思議に思っている顔ね?」

「……はい……」

「ふふ。教えてあげる。――今日が、私が昔描いた”未練”の日――今年十五になる娘たちの、デビュタントが行われる日だからよ」

「!」

 息を飲むと同時、ミレニアがどこに足を向けていたか思い至った。

 紅玉宮の裏庭――皇城の敷地と接するそこは、つい数年前、ダンスの練習を重ねるミレニアとよく通った道。

 ――皇城の広大で煌びやかなダンスホールへと続く道だった。

「姫――……」

「ほら、耳を澄ませてみて?……音楽が聞こえるわ」

 言いながら、裏庭の端――少し開けた場所に足を止めて、耳に手を当てて見せる。そんなことをしなくとも聞こえるほどに、この静かな澄み切った空間に、遠くに確かに楽器隊の生演奏が響いていた。

 二人の間に沈黙が下りると、優雅なダンスミュージックが奏でられる音だけが響いていく。

「……不思議なものね。お前がこの紅玉宮に来たばかりのころは、今日、私もダンスホールに赴いてこの音楽に身を任せて踊ることを、信じて疑わなかったと言うのに」

 翡翠の瞳を閉じて、しみじみと言ってのけるミレニアに、ロロは何と声をかけてよいかわからず、押し黙る。

 幼い少女の夢を――”死”を告げられた時に抱いた”未練”とまで表現されたそれを、叶えてやりたいという気持ちはあるが、元奴隷であり、専属護衛であるロロには何も出来ない。

 少女が描いた夢の中に出て来るような、心優しい兄弟も、前後不覚の恋を抱く男も、現実にはどこにも存在していないのだから――

「……クルサールを」

「ぇ?」

「あの男を、呼んで来ましょうか」

 呻くように告げられた言葉に、ミレニアがぱちりと目を瞬く。

 それは、ロロが提示できる、唯一の苦肉の策だった。

(姫が夢見たような恋愛感情を抱いた相手ではないかもしれないが、正真正銘の”婚約者”だ。公の関係ではないが、仮にも結婚を約束している以上、そう位置付けて問題ないだろう)

 将来を誓い合った男と共に、十五になる新年に開催されるデビュタントの夜を過ごす――彼女が描いていたそのものではなくても、今実現できる、最も理想に近い過ごし方だ。

 ぱちぱち、と何度か目を瞬いた後――クスッ……とミレニアは吐息を漏らして可笑しそうに笑った。

「ふふっ……お前ったら。ふふふっ……」

「……?」

「ありがとう。でも、大丈夫。……第一、エラムイドに、我が国のようなダンスやデビュタントといった風習があるか怪しいものだわ。到底理解されないでしょう」

 不器用ながらも、決して主の子供っぽい夢を否定することなく、必死に叶える方法を探そうとしてくれたことに感謝を伝えながら、クスクスと笑う。

 ぎゅっと眉根を寄せて考え込んでしまった黒衣の美青年を可笑しそうに眺めていたミレニアは、ふと聞こえてきた音楽が変わったことに気が付く。

「あら。……懐かしい曲ね」

 それは、ミレニアがデビューダンスとして選曲した伝統的なワルツ。ドゥドゥー夫人の厳しい声を聴きながら、ガント大尉やロロの足を踏みながら、何度も何度も練習した、一番馴染みのある曲だった。

 ミレニアは、そのままロロに向かって、すぅっと右手を差し出した。

 闇に包まれた世界で、白く抜けるような肌がぼんやりと美しく浮かび上がる。

「ね。――踊って」

「――――!」

 小さく息を飲み、紅い瞳がこれ以上なく瞬きを速める。

 美しい朱唇を笑みの形に描いて、ミレニアは闇に溶ける黒衣の青年を眺めていた。

「俺、に……は……そんな、資格は……あり、ません……」

 カラカラに乾いた喉が張り付いて、上手く言葉が紡げない。

 ――自分は、奴隷だ。世界の肥溜めで醜く足掻いていた、汚くちっぽけな、虫けらだ。

 彼女が描いた夢を叶えられるような要素は一つもない。

 血を分けた兄弟でもなければ、彼女が胸を焦がす想い人にもなりえない。

 ――なりえない。

「いいえ。私は、お前と踊りたいの。他でもないお前と、この曲を、踊りたいのよ」

 一歩後退って拒否を示したロロに、ミレニアはふわりと笑った。

 闇の中でも輝きを失わない――清廉潔白な光輝く美しさを持つ、女神のような蕩ける笑み。

「ね?……踊って、ロロ。――ルロシーク」

 ドクン……

 胸が大きく、音を立てる。

「っ……」

 断るべきだ。

 わかっている。――自分は、この白く清らかな手を取ることすら許されない存在なのだ。彼女に触れるだけで、彼女を穢してしまう、そんな汚い存在なのだ。

 だけど――まるで、小さな虫けらが、光に焦がれ、吸い寄せられるように。

「――――はい……」

 呻くように返事をしながら、躊躇うように震える手で、そっと差し出された手を取る。


 ――吸い寄せられた光にその身を焼かれると知りながらも、決して抗えぬ、虫けらの本能のように――

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