第102話 【断章】星空の下で②

 頼りにするのは、静まり返った夜の裏庭に微かに漏れ聞こえてくる楽器の演奏。身に纏うのは、舞踏会の装いとは程遠い簡素な衣服と素人の手作りのショール。ダンスホールの煌びやかなシャンデリアの代わりに、二人を見下ろすのは、満天の星空の輝き。

 少女が夢に描いていたであろう華やかな光景とは程遠いだろうに、黒衣の従者の腕の中で舞うミレニアは、嬉しそうに頬を上気させていた。

「最後にレッスンをしたのは一年前なのに、意外と覚えているものね」

 くるくると舞う妖精のような美しい少女を、眩しいものでも見るかのように、ロロは微かに目を眇めた。

「お前も、踊りの心得があるかのようにいつも簡単に踊って見せるんだもの。才能かしら?」

「……昔、剣闘奴隷になったばかりのころ、よく商人に命じられて客の前で踊らされていました。そのせいで、コツをつかむのが早いんでしょう」

「え!?――ぁっ!」

 ガッ……

「……」

「ご、ごめんなさ――」

「お気になさらず。……何も感じませんでした」

 ロロの発言の内容に気を取られてうっかり足を踏み抜いてしまったものの、いつものように眉一つ動かすことなく、涼しい顔のまま、逞しい身体でバランスを崩した少女を支えてフォローし、すぐに踊りへと戻っていく。

 いたたまれない思いを抱きながら、ミレニアは足取りを乱した要因となった発言の趣旨を問う。

「どういうこと?剣闘奴隷が、踊るの?」

「はい。……時折、高貴な人物が見物に来るときに、いつもの前座に加えて、そうした趣向が入ることがあります。基本は、人気の性奴隷たちを呼び寄せて舞を舞わせるのですが――見目形のいい女たちの舞だけでは満足できないのか、剣闘奴隷に剣舞を命じられることもありました。ディオのような人気の白布や、ジルバのような曲芸が得意な者は、よく駆り出されていたのではないでしょうか」

 淡々と語るロロに、いつぞや彼がガント大尉にダンスを褒められて『奴隷は、やれと言われればなんでもやるので』と気まずそうに答えていたことを思い出す。

(なるほど。そういえば、お父様と訪れたときも、商人が時間稼ぎのために舞を云々と言っていたわね。舞……まぁ、ロロの見た目を思えば、真っ先に駆り出されるでしょうね)

 ガントに問われて嫌そうな顔をしていたことを思えば、本人にとってはあまり思い出したくないことなのだろう。確かに、このピクリとも表情筋が動かない男が、華やかな舞を披露しているところはあまり想像がつかない。それでも、この見目麗しい顔つきと、男らしさの塊のような身体付きで舞を披露されれば、場が盛り上がるのも容易に想像がついた。

 くるりとミレニアがターンするのをいつも通りの無表情でエスコートするロロを見上げる。

「……何でしょうか」

 紅い瞳がぱちりと瞬いた後、表情筋を動かさないままに問いかける。ミレニアが何か言いたげだと察したのだろう。

 無駄なおしゃべりが苦手らしい男との会話は、それでもミレニアに苦痛を与えたことはなかった。いつだって、ロロがミレニアのもの言いたげな視線を取り違えることはない。

 言葉を交わさずとも自然と伝わる心地よい空気に、ミレニアは頬を緩めて笑みを作った。

「どう?――私、上手に踊れているかしら」

「……はい。最初の頃からずっと拝見していますが、とても上達されたと思います」

「本当に?ふふっ……やったわ」

 ロロに身体を預けるようにしてステップを踏みながら、ミレニアはわかりやすく破顔する。

「いつか、必ずお前に「上手くなった」と言わせてみせると思っていたのよ。お前、お世辞が苦手でしょう。だから、お前に褒められると、とても嬉しいわ」

「――――……」

 そういえば、いつか、そんなことを言っていた――と思い出しながら、ふとロロは先ほど少女が星空を見上げながら語った”未練”の中身を思い出す。

 一瞬、何かを考えるように紅い瞳が左下へと伏せられ――そのまま、何やら嬉しそうにしている腕の中の少女へと向けられた。

「――――姫は、美しいです」

「え――?」

 唐突に告げられた言葉に、一瞬意味を掴み損ね、ミレニアはぽかんと目の前の男を見上げた。翡翠の瞳が、虚を突かれたように何度も瞬きを繰り返す。

 ロロは、頭の中で何かを考えながら、静かに言葉を紡ぐ。

「きっと、今日、城に集まっているどの令嬢よりも――貴女が、世界で一番美しい」

「――――!」

 かぁっとミレニアの頬に一瞬で熱が灯る。白く抜けるような美しい肌が、桃色に色付く様は、確かに言い表せぬほどの美しさだった。

「っ……お、お前っ……急に何を――」

 動揺して、ステップが乱れる。赤く染まった顔を隠すように足元へと視線を落として必死に曲について行きながら、ハッとミレニアは目の前の美青年が急にそんなことを言い出した理由に思い至った。

「わ、私が先ほど言ったからでしょう……!」

「……はい」

「そ、そんな――同情で言われても、う、嬉しくなんか、ないわっ……」

 ドキドキと走り出した心臓をなだめながら口走る。

 顔を俯けたときに目に入ったのは――デビュタントに出る娘たちとは程遠い装いの自分。

「こんな、華やかなドレスの一つも身に纏えぬ皇女の、何が美しいと言うの――!」

「……姫は、何を着ていても、美しい。そこに、身分など関係ありません。一時期、従者がいなくなった時の飾らない装いも、前皇帝が生きていたころに公の場に出るときの華やかなドレス姿も――貴女はいつも、どんな時でも、美しい」

「っ……」

 いつもは決して視界にすら入ってこない青年が、ミレニアを支えるように身体を抱いて、至近距離から囁く言葉に鼓動が乱れる。

 奴隷根性が染み付いているロロが、ミレニアを褒めないなどありえないと知っているが――それでも、まっすぐな言葉は、ミレニアの胸を大きくざわめかせた。

 何故なら、ロロは――お世辞が苦手な、男だから。

「で、でもっ……せ、世界一は、言い過ぎではないかしらっ……?」

「?」

 ミレニアはロロの逞しい身体に寄せた手を軽く握って、桃色の頬のまま反論する。

「剣闘奴隷時代に、沢山美しい性奴隷を見ていたでしょう……!舞を踊ったと言う奴隷たちは、さぞ天女のような美しさだったのではなくて!?」

 きっと、たった一曲を踊れるようになるまでに何年もかかるような自分とは違う。軽やかに、艶やかに、美しい女たちが華を添えていたはずだ。

「お前がいつも”お遣い”に行く情報屋も――そうして、出逢ったのでしょう!?」

「――いや……それは……」

 急にロロの目が泳いで逸らされる。――この清廉潔白な美少女に、あんな肥溜めの中のさらに汚れた行為の象徴ともいえる出逢いを耳に入れたくはない。

 口ごもった青年の反応に、一瞬息を詰めてから、ミレニアはきゅっと繋がれた手を握った。

「世界一というなら――その情報屋よりも、私の方が美しいということになるわ!」

「?」

 踊るためではない強さで握られた手に、疑問符を返す。

「どうなの!?」

「どう――……とは」

「私と、その女――どちらが美しいか、と聞いているのよ!」

 ぱちぱち

 ロロの瞳が数度瞬かれる。

 脳裏に浮かぶのは、どこかの祖先に帝国貴族の血が入っているらしい黒髪黒目をした『夜の女王』。

「――姫です」

「嘘!」

「嘘など言いません。……そもそも、比べるという発想自体が烏滸がましいので、考えたこともありませんでしたが――比ぶべくもない」

 いつもの無表情で、当たり前のように言ってのける。

 ロロにとって、ラウラの見た目などどうでもいい。昔から、ただの都合のいい性欲解消の相手でしかない。今はそれに、情報屋というステータスが加わったことで、更なる利点が追加されてはいるが、美醜についてどうこう考えたことはない。

 仮にそれが、一世を風靡した性奴隷であっても関係ない。彼女一人を手に入れるために、何人もの貴族や富豪が必死になって金を集めて、身を持ち崩していったとしても、関係ない。

 所詮は奴隷だ。ロロと同じく、世界の肥溜めの中で、醜く汚泥に塗れて生きている穢れた存在だ。

 ミレニアの、清廉潔白な清水湧き出る泉に住まう女神のような美しさとは、比べるまでもない。

「ほ、本当っ……?嘘じゃない――?」

「はい」

 嘘など言ってどうするのか。頬を上気させて重ねて問うミレニアに、ロロは当たり前のように肯定する。

「本当?」

「はい」

「本当に本当?」

「はい」

 どうしてそんなにも、くだらないことが気にかかるのかはわからないが、何度も問いかけるミレニアに、律儀に頷く。ロロにとっては、わざわざ問われるのも馬鹿馬鹿しい問いかけだ。

 ぱぁっとミレニアの桃色に熟れた頬が嬉しそうに緩み、極上の笑みを彩った。

「本当ねっ!?」

 ドキン

「――――――はい」

 至近距離――己の腕の中で笑顔をはじけさせた少女に、心臓が一つ、不自然に跳ねた。我知らず、瞬きが早くなる。

「ふふ……駄目ね、こんな、ダンスの最中にはしたない……ドゥドゥー夫人に怒られてしまうわ」

 言いながらも、腕の中のミレニアは、酷く嬉しそうに破顔している。

 気が付けば、もうすでに曲も終盤だ。

 最後の難関ステップを危なげなく踏み、ミレニアは曲の終わりをしっかりと締めくくった。互いに礼をして、ダンスを終える。

 本来ならば、割れんばかりの拍手に包まれるべきところだが、当然そんなものはどこにもない。彼女の成人を寿ぎながら、次なるダンスに誘ってくる相手もいない。

 ただ、煌びやかな星空だけが、二人を静かに見下ろしていた。

「ありがとう、ロロ。――おかげで、決して叶わないと思っていた夢の一つが、叶ったわ」

「……他に選択肢がなかったとはいえ、俺なんかが大事な思い入れのあるデビュタントのお相手をするなど……恐れ多いです」

「ふふっ……そんなに恐縮しないで。私は、お前と踊れて、とても嬉しいわ」

 礼をしたミレニアをエスコートするように手を差し出して支える。めったに運動をしない少女は、一曲を踊り終えて頬を上気させながら息を弾ませていた。

「でも、そうね。どうせ叶えてくれるなら、もう一つの夢も――このまま、口付けをしてくれてもいいのよ?」

「――――――――……お戯れを……」

 悪戯っぽく笑いながら言うミレニアに、これ以上なく顔を顰めてロロは呻く。

「……そういうのは、本当に恋をした男としてください」

「あら。……残念、振られてしまったわ」

「姫……」

 嘯くミレニアに、ロロはさらに渋面を刻む。

 クスクス、と笑ってから、ミレニアは軽く額に浮いた汗を拭い、ほぅっとため息を吐いた。

 弾む息を整えながら、星の瞬く夜空を見上げる。

「――ロロ」

「はい」

「私には、どうしても空想の中の出来事でしかないけれど――お前には、決して、空想ではないのよ」

「?」

 するり、と支えられた腕を抜け出すようにして、ミレニアは足を踏み出し、少し先でロロを振り返った。

「お前に、心から想い慕う女性が出来たなら――どうか、お前は、心が望むままに、”幸せな”結婚をして頂戴」

「――――」

「それが、主である私の心からの願い。――お前には、幸せになってもらいたいのよ」

 にこり、と笑う笑顔は、ダンスの最中、腕の中で見せた歳相応の少女の笑顔ではなく、従者を従える”主”の顔だった。

「…………俺は……」

 ぽつり……と呟かれた声は、続きを紡ぐことなく、ひんやりとした夜の空気に紛れていく。

「さて、帰りましょう。汗をかいたから、湯に入りたいわ」

 ミレニアも、敢えて続きを催促することなく、踵を返す。

 ふわりと冷たい夜風がショールを揺らし、二人の間を駆け抜けていった――


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