第87話 【断章】とっておきの記念日
ずぅん……と重苦しい音を立てて扉が閉まると、ロロはスッと何事もなかったように手を離した。
「……失礼しました」
「ぁ……いえ、別に、良いのだけれど……」
自分の役目は終わり、とばかりに一礼した後、視界からふっと掻き消えていつもの定位置――左斜め後ろ――へと控える寡黙な護衛兵に困惑した声を返す。
少し逡巡したのち、軽く嘆息して、ミレニアはゆっくりと足を踏み出す。住み慣れた紅玉宮へ向かって。
ミレニアが歩き出せば、当然のように影のように寄り添って、黒い気配が一定の距離を保って後ろをついてくる。
「……ロロ」
「はい」
歩みを止めずに呼びかければ、当然のように返事が返ってくる。
あれほどの大立ち回りをした後とは思えぬほどいつも通りの護衛兵に、ミレニアは思わず苦笑した。
「お前は、本当に、私のことが大好きね」
一瞬、妙な間が空く。――返答に困っているのだろう。
「……以前も、お伝えしましたが。好きとか、嫌いとか、既にそんな次元には、ありません。……俺は、俺の全てを賭けて姫をお守りする。――それだけです」
「そう。……ふふっ……」
思わず、堪え切れずに桜色の唇から笑みがこぼれる。
「姫……?」
「ふふっ……ごめんなさい。本当は、怒らなければいけないところね。ゴーティスお兄様がおっしゃったことは正論よ?お前とあの場所を逃げ出したとて、その先に未来はないのだから、あそこで不敬を買って良いことなど何もないの。全く、お前はいつも、私のこととなると、感情を先立たせては無茶をして――」
嗜めるような言葉とは裏腹に、ミレニアの顔は上機嫌に緩んでいる。
珍しい主の様子に、ロロは軽く眉をひそめて疑問符を上げた。
「でも――でも、いいわ。許してあげる。今日の私は、とても気分がいいの」
「……はぁ」
実の兄たちに陥れられ、執行までの時間が設けられただけの無情な死刑宣告を受けた直後の言葉とは思えないそれに、ロロは怪訝な顔で返事を返す。
クスクス、とミレニアは堪え切れないように笑いだした。
「帰ったら、暦に印を付けましょう。あぁ、今日は、とっておきの記念日だわ」
「姫……?」
血を分けた兄たちからの無慈悲な宣告に、気が触れてしまったのだろうか。少し心配になり、ロロは主の様子を伺おうと一歩、歩みを進める。
すると、待ち構えていたようにミレニアが振り返る。
夜空のような漆黒の髪が宙に舞い、艶やかな翡翠の瞳が嬉しそうな光を宿して、こちらを向いた。
「初めてよ。――初めて、お前が、私の名前を呼んでくれたの」
「――――は――……?」
ぱちぱち
紅玉の瞳が、素早く二、三度上下して、長いシルバーグレーの睫毛がせわしなく風を送った。
それを覗き込むようにして、翡翠の瞳が下からじっと見つめてくる。
とろりと艶めく宝石のような瞳がふわりと緩み、少女はそのまま、見るものすべてを魅了する極上の笑みを浮かべた。
「お前の声が、『ミレニア』と確かに音を紡いだの。『姫』でも『アンタ』でもなく――お前が、確かに私を、『ミレニア』と呼んでくれたのよ」
「――――」
何度も素早く瞬きを繰り返しながら、ロロは己の発言をゆっくりと振り返る。
言われてみれば、そんなことを言ったかもしれない。
呼んだ、というほど大層なものではなかったが、確かに二度ほど、『ミレニア』と発言したような気がする。
「……申し訳ございません」
「あら。どうして謝るの?」
「俺のような下賤な輩が、姫の御名を呼ぶなど――恐れ多いにもほどがある。……普段は、決して、何があっても口を吐くようなことはないのですが」
「もしかして、この四年、意識して呼ばずにいたの?」
驚いたようにミレニアは瞳を大きくする。
すぃっと紅玉の瞳が左下へと移動する。それが、全ての答えだった。
ミレニアは「呆れた……」と呟いて嘆息した後、再び上機嫌な笑みを浮かべて口を開く。
「もっと、呼んでくれて良いのよ?」
「……ありえません」
「どうして?――私、とても、嬉しかったわ」
「……不敬です。俺のような男に呼ばれるなど、姫の名が穢れます」
「そんなことは――でも、そうね。では、名前で呼べぬと言うなら、『ミリィ』と呼んでくれる?『ニア』でもいいわ。お前には、そう呼ぶことを許してあげる」
「お戯れを……勘弁してください」
ぐいぐいと勝気な表情で、生き生きと詰め寄ってくる主を軽く手で制し、ロロはこれ以上なく顔を苦しげに歪めて呻く。
頑なな従者の拒否反応に、むぅ、とミレニアは軽く唇を尖らせる。
「……ケチ」
「どうかご勘弁を……本当に、無理です。罪悪感に苛まれて、死にたくなる」
ぷ、と小さくむくれるミレニアは、傾国と謳われるに相応しい可愛らしさだったが、ロロは砂を吐きそうな表情で懇願する。たとえ国が傾こうが、この要求は呑むことが出来ない。
どうにも言うことを聞かない従者にミレニアは一つ嘆息すると、しぶしぶ勘弁してやる。いい加減でやめておかないと、この奴隷根性が染み付いた男は、今からでも先ほどの発言を反省して、死にそうな顔をしかねない。
くるり、と再び前を向いて歩き始めたミレニアに、ロロもほっと息を吐いて、再び影のように寄り添う。
「……ロロ」
「はい」
呼びかければ、いつものように返ってくる返事。
「今日は、とても驚いたわ」
「申し訳ございません」
「まさか、お前が、私の名前を呼ぶことがあるだなんて、思ってもいなかったから――」
そのまま、そっと陶器のように美しい白い右手を、胸の上に添えて、吐息を漏らすように音を紡ぐ。
「――胸が、ドキドキしてしまったわ」
「――――……」
ふ、と頬を少しだけ緩めて、うっとりと囁くような言葉に、ロロが困惑している空気だけを返してくる。
本当は、あの場で、皇族を相手取って不敬な態度で大立ち回りをするロロを止めるべきだった。それは、ミレニアにしか出来ない役回りだからだ。
だが――不意にロロが名前を呼んだことで、一瞬頭が真っ白になってしまった。
聞きなれた、口数の少ない低い声音が、たった四音を紡いだ。
それだけが――まるで、奇跡のように、感じられて。
「お前の声が、私の名前を呼ぶ音が、好きよ。大好き」
「……はぁ……」
「だから――いつでも、呼びたくなったら、呼びなさい」
「…………」
視界に入っていなくても、普段仕事をしない表情筋をこれ以上なく働かせて、顔いっぱいの渋面を作っていることがわかる気配に苦笑してから、ミレニアはそれ以上は何も言わず、静かに紅玉宮へと向かって行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます