第78話 “神”に選ばれし<贄>③
皇城に併設された軍事施設の一部屋――元帥の称号を頂く男にだけ与えられる、最高級の執務室。
「……以上が今日の報告です。もう、退勤してもよろしいでしょうか」
「まぁ待て。まだ話は終わっていない」
トン、トン、とこめかみを叩く仕草は、ザナドと同じだ。ロロは、これから先の展開の想像がついて、げんなりと胸中でため息を漏らす。
「お前はいつになったら、正式な軍属になる」
「……ありえません。俺は、生涯、姫以外の誰にも仕える気はないと申し上げました。姫をお守りする任以外を主業務とするようなことは、天地がひっくり返ってもありえません」
「だが、今の生活は殆ど軍属といっても差し支えないだろう」
「それは、貴方が毎日のように俺を貸し出すように姫に連絡をするからです。姫は、お優しいので、それに否を返すことはないですが――俺個人としては、もう少し、姫のお傍に控えたいと思っています」
ぎゅっと眉間に皺を刻んで心根を吐露する。
――心配だ。心配で、堪らない。
契約締結の時、ロロの代わりに優秀な軍人を派兵するようにとしっかりと念押しした。ザナドはもちろん、ゴーティスも、書面で交わした契約を無に帰すような男でないことは、こうして束の間の間彼の部下として討伐に出るようになってからよく理解した。きっと、今も紅玉宮に送られている軍人は、優秀な男に違いない。
だが、今の紅玉宮に、正式な従者として登録されている者は一人もいないのだ。古株たちが、善意でミレニアの身の回りの世話を買って出てくれているだけに過ぎない。
紅玉宮付の従者がいなくなった今――正式な従者は、ミレニア個人と契約を交わしているロロ一人しかいないのだ。
(既に、姫は上申を済ませたと聞く。姫は「大丈夫」と笑っていたが――万が一、姫の存在を邪魔に思った長兄の手の者が何かを仕掛けてきたりしたら、どうする……)
己の命よりもミレニアを、と優先して考えてくれる古株の従者は、いつまでいられるかわからない。臨時の派兵でしかない軍人にそれを求めるのは酷だろう。有事の際、いったいどこまで信用できるのか。
今も正直、そわそわして仕方がないのだ。早く、任務が終わったなら一秒でも早く紅玉宮に帰してほしい。
(早く顔を見て、安心したい――姫が今日もご無事でいらっしゃることを確認しないと、全く気が休まらない)
少し、軍の任務に就くことに異論がないと自分から申し出たことを後悔するくらいに、ロロは精神的に疲弊していた。――まさか、こんなに毎日、駆り出されるようになるとは。
「お前の働きは、申し分ない。正式な軍属になれば、特別に階級を用意すると約束しよう。奴隷という出自を思えば、とんでもない待遇だ」
「……要りません」
「俺の元に来るならば、庶民ではなく、貴族の養子として登録してもいい。ガント大尉あたりならば、お前も交流があったはずだ。俺の命であれば、否を示すことはないだろう」
「要らないと言っています」
むしろ、戸籍がないことは、ミレニアを主と頂く奴隷にだけ許された特権だとすら思っている。光栄としか思えぬそれを手放すことなど、我慢が出来ない。
「では、何故そんなにミレニアに執着する」
「――……」
「給金ではないという。労働の中身や待遇ではないとも言っていたな。皇族に従いたい、というなら、俺でもいいはずだ。ミレニアが与えられるものの全ての上位互換を用意しても、お前は興味を示さない。それどころか――地位も、戸籍も、ミレニアが用意できない物を示しても、一切なびかない」
「はい。何を用意されようと、俺の意見が覆ることはありません。そろそろ、諦めていただけるとありがたいです」
トントン、とこめかみを叩きながら威圧感をまき散らす上官を前に、きっぱりと言い放つ。――本当に早く、ミレニアの安全を確認したいのだが。
「では、なんだ。――まさか、あの女に惚れているとでも?」
「は――?」
ぎゅっと、ロロの眉間に不機嫌そうに皺が寄る。
「ふん。……まぁ、子供とはいえ、確かに昔から、あの外見は整っているな。――では、あれ以上の美女をやると約束しよう。貴族の子女を嫁に取らせてやってもいい」
「要りません、そんなもの」
「貴族の女というのが気に食わんのか?確かにあの肌と瞳の色は、貴族の娘では難しいか。お前も酔狂な男だな。……市井に降りれば、ああした肌や瞳を持った女もいるだろう。それを売りにした娼館もあったはずだ。どれでも好きな女を選ぶ権利を――」
「いい加減にしてください……!」
さすがに我慢の限界が来て、ロロが静かに怒気をはらんだ声を上げた。
「俺は、姫の所有物です……!姫に絶対の隷属を誓った、姫だけの従者です。主のことを、そんな風に懸想したことなど、一度もない――!」
「お前……それはそれで、大丈夫か。お前もいい歳をした男だろう」
半眼でゴーティスが呆れた声を出す。
ロロが紅玉宮に来てからというもの、どこまでも忠実にミレニアについて回っていることは、皇城内の者であれば誰でも知っている。冷遇されているわけでもないのに、自ら進んで不休で働くような勤勉さは、さすがは奴隷だと揶揄されるくらいだ。
そんな生活をしていて、恋人の一人も作れるとは思えない。いい歳をした男が、恋人もいない、ミレニアに懸想しているわけでもない――とは、いったいどういう了見か、と言いたいのだろう。
「俺みたいな穢れた存在が、雲上人たる姫をそんな対象に見るなど、考えただけで罪悪感で死にたくなる……!」
「……それはさすがにミレニアを崇拝しすぎじゃないか?」
「まして、嫁を取るだの家族を持つだの、まっぴらごめんだ……!俺の人生において、姫以外のことに時間を割く余裕なんか一瞬たりともない……!」
「お前――いくらなんでも、拗らせすぎじゃないか……?」
イライラと吐き捨てるように言うロロに、呆れた声でゴーティスはつぶやく。未来ある若者が、何たることか。
「俺の人生に、恋愛なんぞ必要ない!性欲を発散したいだけなら、そこらで適当に済ませればいい!これで満足ですか……!?報告の任も終わったので、今日はこれで失礼いたします――!」
「あ、おい、待――」
命令をされてしまえば厄介だ。ロロは、ゴーティスが言い終わるより先に扉を開けて退室し、全力で紅玉宮までの道のりを急いだ。
◆◆◆
外に出れば、いつの間にかとっぷりと日が暮れていたようだ。ロロは、脇目もふらず、一心不乱に紅玉宮へと向かう。
己の部屋など当たり前のように通り過ぎて、一直線にミレニアの部屋の前へと向かえば、そこには軍服に身を包んだ屈強な男が控えていた。
「――交代だ」
「いや、しかし、まだ時間は――」
「いい。交代と言ったら交代だ。下がってくれ」
上官からの命令で勝手に帰るわけにいかない軍人を、半ば強引に下がらせる。
確かに、日が暮れたとはいえ、まだ夜番との交代の時間には早い時間だ。男が戸惑うのも当然だが、ロロは、夜番が来るまでのわずかな時間でも、心の安寧のために、『ミレニアの護衛兵』として過ごす時間が欲しかった。
コンコン、とミレニアの私室の扉をノックする。中から返事がして、扉が開いた。
「姫――っ……ただいま、戻りました……」
視界に飛び込んできた、いつも通りの少女の姿に、言葉に出来ぬほどの安堵が広がり、胸が震えた。
「まぁ、ロロ。お前ったら……ふふっ……着替えもせずに、来てくれたの?」
クスクス、とソファに腰掛けて笑うミレニアは楽しそうだ。
「軍服姿のお前を見られるなんて、今日はとても貴重な日ね。よく似合っているわよ」
「っ……お戯れを……俺は、護衛兵です。貴女の、貴女だけの、専属護衛です」
懇願するような声に、ぱちりとミレニアは目を瞬く。他意はなかったのだが、どうやらロロは、護衛兵の装束よりも似合っていると言われたと捉えたのか、酷く哀しそうだ。
いつもは感情をあまり表さない面が苦悶に歪み、美しい紅の瞳が苦しそうに揺れている。
ミレニアは首を傾げ、口を開いた。
「どうしたの、ロロ。様子がおかしいわ」
「姫――……」
「何か、あったのかしら……?お兄様に、辛く当たられたりしたの……?」
心配そうな声を掛けられ、ぐっと堪え切れない感情が噴き出す。
「姫――申し訳ございません」
「ぇ……?」
「少しの間――お傍に、控えさせていただいても、よろしいでしょうか……」
ぱちぱち、と翡翠の瞳を彩る漆黒の睫毛が、何度も上下して風を送る。
書斎やそのほかの部屋では常に視界の外、ミレニアの斜め後ろか部屋の隅あたりに控えるロロだが、私室の護衛に当たるときだけはさすがに扉の外で待機する。ミレニアが夜中に書斎で寝落ちたのを運ぶなどのイレギュラーな対応を除けば、ミレニアに呼び入れられない限り、基本的には部屋に立ち入ることすらしない。
そのロロが、自分から、私室の中に入ってミレニアの傍に行きたいと申し出るのは、彼が紅玉宮に来てから初めてのことだった。
「ぇ……えぇ、勿論――」
「失礼します」
まだ、夕食も食べていない。寝巻に着替えたわけでもないのに、特に拒否する理由もないと許可を与えると、ロロは深く礼をした後、大股でミレニアのすぐ前までやってきた。
そのまま、ソファに腰掛けるミレニアの足元に流れるように躊躇なく跪き、首を垂れる。
ふわ……と、ミレニアのドレスの裾から、花のような香しい匂いがほんのりと香った。
(あぁ――姫の、香りだ)
いつも、傍に控えるたびにふわりと漂う香り。それが傍にあることに、心がじんわりと熱を持ち、温かくなっていく。
「ロロ……?」
怪訝な声が降ってくる。心配の色を宿した可憐な声音は、間違いなく、己が心血を注いで守り抜くと誓った主の声だ。
「姫――……姫っ……」
傍にいたい。――傍にいたい。
もう、一瞬たりとも離れていたくない。
「ふふ……どうしたの、ロロ。私はここにいるわ」
そっ……と嫋やかな手が、優しく青年の焼き印が刻まれた頬に触れて、顔を上げるよう促す。
誘導されるままに顔を上げれば、宝石のように美しい翡翠の瞳が、優しく緩んでこちらを見ていた。
「連日、軍に駆り出されて、疲れてはいないかしら?危険な任務も多いでしょう」
「いいえ――いいえ、姫っ……疲れなど、微塵も感じておりません……!」
今、こうして、ミレニアの傍にいられるだけで、どんな疲れも一瞬で吹き飛んでいく。
「ふふっ……お前が人並外れた体力を持っているのは知っているけれど……でも、慢心はいけないわ。心も、身体も、しっかりと休ませねば駄目よ。――勝手に死ぬことなど許さないと言ったでしょう?」
「っ――」
初めて出逢ったときのことを思い出させるようなことを言われれば、心がぐっと締め付けられた。
何度でも思う。――この人以外を主と頂くことなど、決してあり得ない、と。
「姫――姫、お願いがあります……!」
「?」
本来、従者の立場で主に何かを乞うなど、めったなことでない限り、あり得ない。それはわかっているが――それでも、これは、滅多なこと、だと思う。
「俺の心と、身体を、休ませたいと思ってくださるなら……次のゴーティス殿下からの連絡には、否と返してくださいませんか――?」
「ぇ……?も、勿論、それは構わないけれど――お前、もしかしてどこか怪我でも――!」
ミレニアの顔色が蒼く変わる。心配そうに腰を浮かしそうになった主に、頭を振って言葉を重ねた。
「いいえ。っ……もう、心が、限界なのです……!」
「え――?」
「週に、少なくとも一日――いや、二日――可能なら、三日以上、俺は姫のお傍に控えていたい――!」
「――――……」
ぱちぱち、と虚を突かれたように何度も翡翠の瞳が瞬く。
「お願いです――討伐任務の最中も、ずっと、ずっと、貴女の無事が気がかりで、このままでは、任務中に集中を欠いてしまいます……!」
「そ、そんな……今、私の命を狙う者など――」
「関係ありません……!これ以上、見知らぬ誰かに姫を任せて、傍を長く離れるなど、心が擦り切れて死にたくなる……!」
たとえ魔物の討伐任務であっても、優秀な軍人と共に立ち向かえるその任務の中で、ロロが疲弊することなど殆どない。
魔物と相対したとき、どのように対応すべきか、どの魔物がどういう動きをするのか――連日のように駆り出されたおかげで、だいぶ知見を得られた。もう、大して軍の任務に就かずとも、次にあの夜と同じことが起きてもミレニアを守って逃げられる自信はついた。
ロロ個人の目的は、達成された。あとは、ミレニアが国を憂慮する気持ちを汲んで、任に就くだけだ。
主の希望を叶えたい想いは確かにあるが――それでも、心が、悲鳴を上げる。
(もしも、万が一、何かが起きてしまったら――)
自分でも、どうしてこんなに不安に駆られるのか、わからない。城壁と敷地を屈強な兵士に守られた皇城の中――敷地の中でも奥に位置する紅玉宮にいるミレニアの身に、危険が及ぶ可能性など殆どないことなど、冷静に考えれば理解はしている。
だが――魂が、叫ぶ。
ミレニアの傍を、決して離れるなと。
――彼女を失いたくないのなら、片時も、決して離れるな、と――
「休みなどいりません……休んでいるくらいなら、姫の護衛任務に就かせてください。俺には、それが何よりの休息だ」
「お前……それはさすがに言い過ぎではないかしら……?」
呆れたようにつぶやく口調は、どこか先ほどのゴーティスに似ている。互いに水と油だと認識してはいるが、やはり血の繋がった兄妹なのだろう。
大きく嘆息したあと、ミレニアは苦笑した。
「全く……お前の献身は、相変わらず信じられないほど重たいわね」
「……申し訳ございません。ですが――」
「いいわ。次のゴーティスお兄様からの要求は、しばしロロを休ませたいと言って突っぱねましょう」
きっぱりと言い切ってくれた主の言葉に、ロロは安堵の表情を浮かべる。
ミレニアはそんなロロを見て、少しだけ困った顔を浮かべた。
「お前が、どうしてそんなにも私に尽くしてくれるのか――正直、よくわからないのだけど。でも、ありがたく受け取っておくわ」
それは――
――ロロにも、わからない。
ゴーティスに連日、何度聞かれても、どれだけ考えても、わからなかった。
もし言葉にするならば――魂が、そうしろと、叫んでいる。
そうとしか言いようのない、強い衝動が、突き抜けるのだ。
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