第72話 動き出す歯車⑦
キン――
一瞬、不自然な耳鳴りがして、周囲の音が遠のく。
ロロは、紅玉の瞳をいつもより早く瞬かせ、主の方へと視線をやった。
「さすが教養深いお兄様方ですこと。大陸古語にも造詣が深いようで、何よりですわ」
「お前……わざとらしいぞ」
半眼で呻くザナドに、ミレニアは少し寂しそうな横顔で告げる。
「でも、契約ですから。署名をした以上、必ず、呼んで下さい。――私が呼ばなくなれば、もう、誰も呼ぶことのない名ですから。なるべくたくさん、呼んでやってください」
「姫――……?」
ザァ――とロロの顔色が青ざめる。
「お待ちください、姫」
ふらっと思わず視界に入るようにして、ミレニアの方へと歩みを進める。ミレニアはふわり、と優しくロロに笑みを向けた後、何も言わずに懐からもう一枚の紙を取り出した。
それは――どこかで、見たことがある。
(あれは――)
熱気が渦巻く、狂気じみた剣闘場の檻の中――女神と出逢ったあの場所で、まじまじと隅から隅まで眺めた、一枚の書類。
奴隷番号66番の所有権について書かれた、一枚の薄い薄い、ちっぽけな紙きれ。
「私から、唯一無二の護衛を取り上げるのです。必ず、必ず、彼を大切に扱うと約束してください」
「姫!お待ちください!」
そっとそれを、ザナドに差し出すようにして机の上に置いたミレニアに、黙っていることが出来ずロロは声を荒げる。
チラリ、とザナドは怪訝そうな目で黒衣の青年を見上げた。
「何を驚くことがある、66番。……いや、ルロシーク」
「!」
「お前は軍属になる。つまり、所有権は第六皇子ゴーティスへと移るわけだ」
「な――!」
絶句するロロに、ザナドは冷ややかな目で指示を下す。――この所有権について記載された紙を受け取った瞬間から、ロロは”ゴーティス”の持ち物だ。つまり、それはザナドの持ち物でもあるということになる。
己の所有物をどういう目で見ようと、契約に反していない限り、もはやミレニアに指示される謂れはない。
「紅玉宮の部屋を引き払い、兵舎に拠点を移せ。明日までに荷物を移し、明後日からはさっそく市街に降りて任務に就いてもらうぞ」
「待ってください――承服しかねます!」
バンッと机の上に置かれた己の所有権について書かれた紙きれを叩きつけるように抑えて、ミレニアへと視線を向ける。この手の下の書類を、今、この男に渡すわけにはいかない。
「今更、駄々をこねるつもりか?既に契約は交わされた。契約に書いていないことに関して、履行する謂れはない。軍部において、上官の命令は絶対だ。指示に従え、ルロシーク」
ザナドの冷ややかな言葉が飛んだ瞬間――ギラッとロロの瞳の奥で、怒りの炎が燃え上がった。
「姫以外の人間が、気安くその名で呼ぶな――!」
ボンッッ バチバチバチッ
「――!!?」
応接室に取り付けられた燭台という燭台全てが、暖炉の炎までもが、ロロの感情に煽られて小爆発を起こす。頭上から降りかかってきた火の粉を、咄嗟にザナドは己の魔法でかき消した。
ジュッ……と一瞬で水滴が蒸発する音がする。――ギュンター譲りの、水魔法。
「姫!っ――姫、話が違います!」
「何も違わないわ」
「違います!!!!俺は、貴女以外の誰にも、この名を呼ばせるつもりはないと言った!!!!」
ボボボッ バチンッ
「っ、ミリィ!何とかしろ!火事になっても知らんぞ!」
毛足の長い絨毯にでも燃え移れば、一瞬でこの部屋中に燃え広がることだろう。立ち上がりながら降りかかる火の粉から身を守り、ザナドは苛立たしく叫ぶ。
「ロロ。落ち着いて。お前の主は――」
「姫です!!!!姫以外の誰も、俺の主になどなりえない!!!俺を騎士たらしめるのは、アンタだけだ!」
紅の瞳の奥に、轟々と苛烈な炎が渦巻く。
「軍の任に就くことは構わない!森に出て魔物と戦えと言われれば、いくらでも戦う!束の間、上官となった軍人の命令を聞けと言われれば、従う!だが――だが、アンタ以外の人間に所有権を渡し、主と頂くことだけは承諾できない!!!」
ボボボボボッ
蝋燭の火が、これ以上なく燃え盛り、部屋の温度が急激に上がる。
「クソッ――これのどこが、”従順”なんだ、ミレニア――!」
ゴォッ ジュワッ――
埒が明かないと思ったのか、ザナドは口の中で毒吐いて、燭台に灯る火を全て片っ端から消していく。ロロの魔力暴発による火災の危険を防ぐためだろう。
さすがに様子がおかしいと思ったのか、扉が外からうるさいくらいにノックされる。ほどなく下がらせたザナドの従者がなだれ込んでくるだろう。
この状況を見れば、ロロが不敬罪で投獄されかねない。ミレニアは、ロロの手に手を重ねて、真摯に言葉を重ねた。
「ロロ。もう、契約は成ったのよ。お兄様があの書類にサインをした時点で――」
「そんなことは、知ったことか――!」
激昂したロロは、聞く耳持たず、ギッとザナドの方へと鋭い視線を投げる。
ボッッ
「な――!?」
ザナドが手にしていた羊皮紙が、一瞬で燃え上がり、灰へと変わった。
「これで契約は無効だ――!俺は、姫の傍を離れるつもりはない――生涯、決して、何があろうと、だ!!」
バタンッ
「ゴーティス様!ご無事ですか!」「一体何が――」
従者たちがなだれ込んで来たのを見て、ザナドはすっと”ゴーティス”の仮面をかぶる。
「――ミレニア」
「はい、ゴーティスお兄様」
ミレニアもまた、静かに瞳を伏せて従順に返事をする。
ゴーティスは、ミレニアを蛇蝎のごとく嫌う男。侮蔑を極めたような表情で見下ろされれば、従順にふるまうしかない。
「交渉は決裂だ。きちんと己の持ち物くらい躾てから持ち込め」
「……申し訳ございません。せっかく御足労頂きましたのに」
「全くだ。――帰るぞ、お前たち」
「「はっ、ハッ!」」
ゴーティスらしく、ミレニアと同じ空気を一時たりとも共有したくない、といった様子で踵を返していく。
(……どうやら、一応、ロロのことは不問にしてくださるようね。助かった……)
いたるところが水浸しになった応接室は、どこからどう見ても不可解な状態で、長居をしては従者が余計な気を回すと思い、さっさと立ち去ってくれたのだろう。
不敬罪で投獄してしまえば、ロロを軍属にしたいという彼ら兄弟の意向も無に帰す。大局を考え、温情措置を取ってくれたのだろうと察し、ミレニアは心の中で兄に感謝を述べた。
ここに来てくれたのが、ミレニアを曲がりなりにも対等に見てくれるザナドでよかった。短気で差別意識の強いゴーティスであれば、是も否もなく即刻で投獄、打ち首のフルコースだっただろう。
全員が立ち去ったのを見送ってから、ミレニアは大きく嘆息した。
「……ロロ。何か、言うことは?」
「たくさんあります。……ありすぎて、何から言っていいか、わかりません」
ぎゅっと眉根をこれ以上なく寄せた苦悶の表情で、ロロは吐き捨てるように言う。
「どうして――どうして、こんなことをされたのですか」
「こんなこと、とは?」
「愛想をつかされるような何かを、しましたか。もう、視界の外に置くのすら嫌になりましたか」
「ぇ……?」
「もう俺を――『私の物』と言って、傍に置いては、下さらないのですか――?」
膝をつき、従順な臣下としての礼を取りながら絶望を隠しもしない声音を出され、ミレニアの翡翠の瞳が何度か瞬かれる。
「ぇ……っと……ま、待って頂戴。そもそも、お前が言い出したのよね……?」
「何をですか――!」
「軍属になると――私以外を主とすると――」
「一言も!そんなことを言った覚えはない!!!」
カッと激昂して怒鳴られ、ぱちぱち、とミレニアの瞳が何度も瞬かれる。
(あれ……?嘘、だって、確かに――)
ミレニアはゆっくりと昨日のやり取りを思い出す。
『……ゴーティス皇太子の元に赴き、軍の一員として、魔物討伐の任に就くことに異論はない、と言いました』
――――確かに。
彼は、「軍の一員として」「任に就く」ことに異論はない、と言っただけだ。
一言も「軍属になる」とは言わなかった。「ゴーティスの従者になる」と言ったわけでもない。
「お、お前……あの前後の会話では、わからないわ。私はてっきり――」
「仮に、俺の言葉が足りなくて、誤解を招くような表現だったとしても、だ!!!っ――どうして、そんな、あるはずもない誤解を、されるのですか――!」
ぎゅぅぅっとロロの眉間にこれ以上なく深いしわが刻まれる。
苦しくて、悔しくて、仕方がない――そんな、表情。
「俺の忠義を、献身を、疑ったことはないと、おっしゃってくださったではないですか――!」
「え……えっと……そ、そうね。でも、ついにお前も、心変わりをしたのか、と――」
「あるわけがない!!!!」
ぴしゃりっ
強い口調で一蹴され、思わずミレニアの方が口を閉ざす。
「そもそも俺が、軍に赴いて魔物討伐の任に就いてもいいと思ったのは、今後もし、あの晩のようなことが起きたときに、圧倒的に魔物に対する知識や経験が足りないことを不安に思ったからです……!」
「ぇ?……そ、そうなの……?」
「あの日、救援部隊の連中は、相互に連携しながら、効率よく魔物を相手取っていた。圧倒的に彼らの方が対魔物における戦闘の知見があるのは事実だ。それなら、彼らの一団に入れてもらって実際に魔物を相手に戦う機会を増やす方が、姫を守り抜ける可能性が高くなる!っ……もう、あの日のように、片側を預けられるディオルテはいないのだから――!」
「!」
「森の討伐隊に組み込まれれば、魔物の数を減らすことにもなる!減らせば減らすだけ、姫の身に危険が迫る可能性も減る!姫をどんな脅威からも確実にお守りするために、その知見を得ておきたいと志願したにすぎません……!」
「そんな――」
「軍の討伐隊に参加するとしても、あくまで、姫の専属護衛として、だ!当然、その間に別の護衛兵を派兵するよう要求するし、それが叶わないならそもそも隊に参加などしない!っ……魔物相手の戦闘の経験を積むだけなら、業務の合間や休日に、一人で森へ分け入って魔物相手に戦ってもいいんだ!隊に志願したのは、あくまで効率が良いと思ったからで――姫の専属護衛という任を放棄してまでやることじゃない……!」
普段は口数の少ない青年が、必死に言い募るのを聞いて、ミレニアはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
驚いた。
どこまでも――どこまでもロロは、ロロのままだった。
「で、でも……今のままでは、お前に仕事で活躍の場面を与えられないわ。お兄様が言った通り、宝の持ち腐れなのよ」
「だから何ですか――!俺が戦わなくていいということは、姫に一切の危害が加えられていないということだ!喜びこそすれ、どうしてそれを厭うと思うんですか――!」
「え、えっと……」
まさかの返しをされて、面食らう。
「その……仕事で賞賛されたり、人々や国家への貢献を実感したり――」
「そんなくだらないもののために、貴女の傍を離れ、貴女以外の主を頂けと……!?冗談じゃない――!」
くだらないもの、と言い切った青年に、思わず二の句が継げなくなる。さすがに隷属意識が高すぎないか。
「俺の行動原理の全ては、姫です。姫以外の誰も、俺を意のままに動かすことなど出来はしない……!賞賛も、貢献も、何もいらない。給金だって休暇だって、見返りなど、何一ついらないと申し上げたはずです……!」
「で、でも――」
「生涯ずっと、一番傍にいろと命じたのは姫です……!どうか、俺が死ぬその瞬間まで、ずっと貴女の傍に置いてくださいっ……傍に置いて、俺の名を、呼んでくださいっ……貴女だけに許した、特別なその呼び名で、呼んでくれさえするならば――俺にとっては、それこそがどんな待遇を約束されるより手厚い報酬だ……!」
慟哭に近い主張を聞き、ミレニアは困った顔で従者を見下ろす。
どこまでも、どこまでも――ミレニアの知る青年が、そこにいた。
「二度と――二度と、他の者に名前を呼ばせる権利を渡さないと、約束してください……」
「ロロ……」
「昔、言ったはずです。俺の幸せは、俺が決める。俺が、姫から離れるなんて、あるわけがない。二度と、そんな、あるはずもない誤解をしないと、約束してください」
「――……」
「想像するだけで、吐き気がする……――誰が何と言おうと、俺が仕えるのは、生涯、アンタだけだ」
ぐっと奴隷紋を刻まれた頬を苦しそうに歪めて懇願する青年に、ミレニアは嘆息する。
「わかった。わかったわ、ロロ。――お前の要望を叶えながら、お兄様ともう一度交渉をするための書類を作りましょう。ついてきてくれるわね」
「はい」
従順な護衛兵がうなずくのを見て、ほっと吐息を漏らす。
どうやら――この青年をミレニアの方から手放すのは、酷く、難しいらしかった。
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