第68話 動き出す歯車③

「――え?な、なんですって……?」

 全く予期せぬ返答を受けて、思わずぽかん、とロロを見返す。

 寡黙な護衛兵は、いつものように軽く視線を伏せて、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。

「……ゴーティス皇太子の元に赴き、軍の一員として、魔物討伐の任に就くことに異論はない、と言いました」

 ドクン……とミレニアの胸が不穏にざわめく。

 無意識に、手が、胸元の首飾りを探して辿った。

「どうして――お、お兄様は、きっとお前を酷く扱うわ」

「構いません。慣れています」

「きっと、最前線の、一番危険な戦地へと送られるわ」

「構いません」

「東の森を調査せよと――慣れない森の中を行軍し、いつ魔物が襲い掛かってくるかわからない、そんな危険な任務に就かされるかもしれないのよ!?」

「構いません。――もしも俺の命を脅かすような強敵が現れるのならば、きっと、軍属の兵士たちも敵わないでしょう。そんな敵が存在していたら、帝都はあっという間に侵略され、どちらにしろこの国は終わりです。どこにいても、危険は変わらない」

 いざとなれば、森を全て焼けるのだから――とロロは冷ややかな視線で告げる。ごくり、とミレニアは生唾を飲んだ。

 しん……と一瞬、部屋に沈黙が下りる。その沈黙を不思議に思ったのか、視線を伏せていたロロが紅玉の瞳を上げた。

「……姫……?」

「お前は――」

 ぎゅ……と首飾りを握り締める。その手の中にあるのと同じ美しい紅の瞳が、不思議そうに瞬いていた。

「お前、も――私の元から、去っていくの――?」

「――――」

 ロロの瞳が、驚きに見開かれる。

 目の前に晒されたのは――今まで見たことのない、ミレニアの表情。

 翡翠の瞳を揺らして、まるで縋るように不安そうな顔。

 たとえるならば――幼子が、たった一人で、未知の場所に取り残され、今にも泣きだしそうな――

「ひ――」

「っ……!ついてこないで!下がりなさい!」

 一歩踏み出しかけたロロを制し、バッと椅子を飛び降りて隣の私室へと駆けこむ。

「姫!」

 バタン、と乱暴に閉められた扉に向かって、ロロは慌てた声を出す。コツコツ、と焦ったように何度も扉を叩くが、閉ざされた扉が開かれる気配はなかった。

「姫!姫、開けてください!」

「っ……下がりなさいと言ったわ!命令よ!」

「ですが――」

「いいから、下がって!一人にして頂戴!」

 悲痛にも聞こえる怒声が聞こえ、ロロは困惑しきっておろおろと扉の前で立ち往生するしかなかった。

 命令ならば、聞かねばならない。自分は従者だ。主の命令は絶対だ。

 だが――最後に見たあの表情が、気にかかって、どうにも足を躊躇わせる。

「姫――……俺の言葉が拙いせいで、何か誤解を――」

「っ……うるさいわねっ……一人にしてと言っているの!」

 ミレニアはドアに向かって叫んでから、ボスっとベッドに身を投げ出した。困惑しきっているであろう紅の瞳を持った護衛兵の、困った様子が扉越しでも伝わってくる。

(全部――全部、私の自惚れだったの――?)

 ぎゅぅっと枕を抱き込んで、今にも涙があふれてきそうになるのを必死に堪える。

 いつだって、主導権を握っているのは自分だと思っていた。いつか、彼を手放してやる日が来るかもしれないと思うときはあれど、それはあくまで自分の意思で行うことだと思っていた。

 ロロの命を危険に晒し、彼を永遠に失うことだけは絶対に出来ない。ロロを不幸に叩き落すことも嫌だ。

 だから――いつか、もしかしたら、ロロに暇を与えて、奴隷商人と結んだ契約書を破り捨て、彼をどこかの養子にさせて、真の自由を与えることがあるかもしれないと思っていた。

 例えば、ミレニアの諫言がジークの不興を買って、市井に身一つで堕とされると決まった時。

 例えば――ロロが本気で愛する女性を見つけ、添い遂げたいと願ったとき。

 ミレニアの傍から離して、戸籍すら得られぬ宙に浮いた中途半端な身分ではなく、地に足の着いた人生を歩めるような助力をする時が来るかもしれない――そんなことを、頭の隅で考えて、覚悟をしていた。

 だけど、きっとそんなことをしようとしているとロロに露見すれば、絶対に断固として拒否されるはずだと、なぜか、何の根拠もなく、思っていたのだ。

 ロロは、誰よりもミレニアを大切に想い、誰よりもミレニアを主と慕って、ミレニア以外の誰の従者にもなりたくないと、生涯をミレニアのために捧げるのだと――仮にこちらが彼を手放そうとしても、嫌になるくらいしつこく、どんな手を使っても傍にいるための手を模索するような男だと、思っていた。

「っ……ぅ……」

 ぎゅぅぅっと首飾りを握り締める。

 蓋を開けてみれば、何ということはない。――すべてはミレニアの自惚れだったのだ。

 軍属になる、ということは即ち、ミレニアの専属護衛ではなくなるということだ。生活の拠点は全て軍部へと移され、彼の上司は直属の将――あるいは、ゴーティスその人になるだろう。

 イラグエナムは、軍国主義国家だ。厳しい規律が敷かれている軍属になるのに、命令系統を順守しないことなどありえない。

 つまり、ロロの言は、今後はミレニアの命令ではなく、ゴーティスの、ザナドの言うことを至上の命として拝命するとしてもかまわない、と表明したも同然なのだ。

「ロロ……ロロ……ルロシーク……」

 唇から洩れたのは、情けなく震える声音。胸が差しぬかれたように痛む。顔に押し付けた枕を、瞳から零れ落ちる水滴が濡らしていくのを止められない。

 生涯、決して裏切らない、絶対の味方だと思っていた。

 この首飾りのように――永遠に、ミレニアの一番傍にいる存在なのだと、思っていた。

 置き去りにされた迷子のように、ミレニアは絶望に暮れて涙を流す。

「……嫌よ……離れて、行かないで――……」

 皇族としては、決して褒められない思考だとわかっている。だから、枕に向かって、くぐもった声で、誰にも聞かれないように心の内を吐露した。

 帝都の防衛を考えるなら、国家の安定を考えるなら、ロロの判断は何より正しい。

 国などどうでもいい、ミレニアの命令しか聞かぬ、と頑なな態度を取っていた過去と比べて、彼自身も成長したのかもしれない。国益のため、己の力を有用に使おうという気持ちが、長くミレニアの傍にいることで芽生えたのかもしれない。あの凄絶な夜を超えて、無残に命を散らした帝都の民や無垢な少年奴隷の無念を晴らそうと、覚悟を決めたのかもしれない。

 それなのに――ミレニアだけが、子供のように、駄々をこねている。

(それとも、私――私が、何か、愛想をつかされるようなことをしてしまったの――?)

 従者は、主を映す鏡だ。従者の離反は、主の行いのせいであると、ミレニアは幼いころからギュンターに教わって生きてきた。

 だとしたら――ロロは、ミレニアに愛想をつかしてしまったのだろうか。

(確かに、私が紅玉宮にいる限り、ロロを専属護衛にしておくのは宝の持ち腐れ……命の危険もほとんどない皇城の中で、彼の能力を生かす場所など、どこにもない……)

 今の彼は、日常の中で、その力を生かす機会を全く与えられていないことになる。その昔、毎日剣闘に明け暮れていた時代とは真逆の日々だ。

 魔物の襲撃に遭った夜の彼の働きは、とても信じられないくらいだった。帝国最強の武を誇ると言っても過言ではない。

(本当は……その力を使いたかった……?)

 ミレニアの専属護衛にしてからというもの、ロロの能力を生かすような仕事を殆ど与えてこなかった。敬語を学ばせ、礼儀作法を学ばせ、時にはダンスの練習に付き合わせ、挙句、密偵のように情報収集のため市街を走らせた。

 だから、あの晩の出来事が、最もロロの本来の実力が遺憾なく発揮された初めての日だった。

 人は、仕事で認められて、喜びを得る。

 ただでさえ、自己肯定感が皆無どころか、マイナスに振り切っているロロだ。彼の貴重な承認欲求が満たされる機会を、喜びを、ただミレニアの「傍にいてほしい」という我儘のもと、奪ってしまっていたのだろうか。

(あの晩を経て、その喜びを自覚してしまった……?自分の力を生かして、人々の役に立てる場を提供してくれる新しい主を、求めた……?)

 そうだとしたら――もう、ミレニアに彼を引き留めることは、出来ない。

 ミレニアに差し出せるものは、もう、何一つ残っていないのだから――

「――それでも、傍にいてくれると……言った、癖に……」

 無償で、無休で、何も差し出せるものが残っていなくても、最後の最後まで、たった一人になっても傍にいてくれると、誓ってくれたあの言葉はもう、過去のことなのか。

 彼の献身に胡坐をかき、言葉に甘えてしまった自分が不甲斐なくて――唯一無二の、『特別』な青年を失う悲しみに耐えられなくて。

 ミレニアは、決して嗚咽が漏れぬように枕に顔をうずめて、ハラハラと止めどなく溢れる涙をぬぐうことすら出来なかった。

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