第69話 動き出す歯車④

 ひとしきり泣きはらした後、完全に涙が止まったことを確認し、ゆっくりと呼吸を落ち着けてから、枕元の呼び鈴を鳴らす。ほどなくして、マクヴィー夫人が部屋へとやってきた。

「お呼びですか、姫様」

「えぇ。――申し訳ないけれど、ペンと便箋を持ってきてくれないかしら。急ぎで届けてほしい手紙があるの」

「かしこまりました」

 夫人は頭を下げてすぐに退室した。ほどなくして戻ってきた夫人の手から頼んだものを受け取ろうとすると、夫人が少し困った顔をしているのに気付く。

「どうしたのかしら。何か、問題でもあった?」

「いえ……その……」

 珍しく歯切れ悪く、夫人は目を泳がせる。疑問符を上げて首をかしげて先を促すと、困り切った顔で、口を開いた。

「ロロ殿が――途方に暮れた様子で、部屋の前にじっと待機しておりましたので――」

「あぁ――……」

 思い当たる節しかなくて、ミレニアは思わず苦い顔で曖昧に頷く。

「その……表情だけ見れば、いつも通りの無表情なのですが……こう、纏う雰囲気というかが、どこからどう見ても落ち込んでいらっしゃる、というのがわかって、どうしたものかと」

「えぇ……」

「理由を尋ねれば、『自分の拙い言葉のせいで、姫に不敬を働いてしまったかもしれない。酷くお怒りになって、ついてくるな、一人にしてくれと言われて途方に暮れている』と……」

「不敬……」

 そういうことではないのだが……とミレニアは苦笑する。口下手な護衛兵は、どうやら相変わらずコミュニケーション能力が乏しいらしい。まさか、ミレニアのあの様子を見て、自分が不敬を働いたと、落ち込んでいるとは。

「何かあったのですか?ミレニア様がお怒りになるなど、よほどのことかと……」

「いえ、その……怒っているわけではないのよ」

 困った顔で言いながら、マクヴィー夫人の視線を避けるように、便箋へと向かう。

「そうでしたか。……すみません。出過ぎた真似をいたしました。その……いい歳をしたロロ殿が、沈み切っているのをみて、どうにも、実家で昔飼っていた大型犬が叱られたときの様子を重ねてしまって」

「ぷっ……!」

 思わず小さく吹き出し、手紙の筆跡が乱れる。

 ――想像できる。とても、想像できる。

 耳と尻尾を垂れて、キューン……と哀し気に鳴く大型犬の姿を思い浮かべれば、確かに黒衣の護衛兵が部屋の前で落ち込みながら佇んでいる様と重なる。

「そんな可愛らしい様子だったの?少し、見てみたかったわ」

「いえ、その……れっきとした成人男性に抱くには申し訳ない感想だとわかってはいるのですが、つい……」

 クスクス、と笑いながらミレニアはインク壺にペン先を浸して気を取り直す。笑いすぎて筆跡がヨレヨレになりそうだ。

 手紙を綴りながら、我知らずささくれ立っていた心の奥が、じんわりと和むのが分かった。

 ――よかった。どうやら、本格的に愛想をつかされたわけではないようだ。

 おそらく、彼の中では、今の主はミレニアだという意識は強いままなのだろう。思い返してみれば、ミレニアの元を離れて軍属になることについても、「異論はない」という伝え方をしていた。

 仕事で新しい活躍の場が増えること。帝国の未来を想うこと。

 どちらの意味でロロがそんなことを言い出したのかはわからないが、それはあくまで「異論はない」だけだ。積極的に、今すぐにでもミレニアの元を離れたいと言われたわけではないらしい。

 そんな未来も、悪くはない――その程度の意味合いだったのだろう。

「確かに、ロロは言葉が拙いわね……」

 ぽつり、と苦笑しながらつぶやく。だが、彼の口下手を責めるよりも、早とちりをして、ロロが今すぐにでもミレニアの傍を離れたいと思っているのでは、と気を回して泣き暮れてしまった自分が恥ずかしい。

 ――冷静に、冷静に。

 皇族にあるまじき、あんな子供っぽい姿を、従者の前で露呈させるなど、決してあってはならない。

「……さて。これでいいでしょう。――夫人、これをすぐにゴーティスお兄様のところへ届けるよう手配してくれないかしら。急ぎの用事だから、可能ならば、今日中にも」

「はい。……え?あ、あの、姫様、これは……」

 二通の封筒を渡され、夫人は困惑する。ミレニアは勝手知ったる様子で微笑み、説明した。

「いつもの嫌がらせのせいか、ゴーティスお兄様からの手紙が二通、今日同時に届いたのよ。それぞれ違う案件についての内容だったから、一つの手紙で返事を出すのも混乱させてしまうかしら、と思って。――ほら、宛名のところに、一言別の文言を添えているでしょう。これを見れば、お兄様ならばどちらがどの内容か一目でわかるはず。間違ったわけではないから、何も言わず届けて頂戴」

「左様でしたか。かしこまりました」

 ミレニアの流れるような説明に、マクヴィー夫人は納得して礼をした後退出する。

 言うまでもなく――二通はそれぞれ、ゴーティスとザナド、それぞれに宛てたものだった。ミレニアは彼らの秘密をロロにしか話していないため、マクヴィー夫人にはもっともらしい説明で納得させたに過ぎない。

 夫人が退出する際、入り口で何かに驚いたように身をすくませた。そして、困ったような笑顔で軽く会釈をして再びしずしずと去っていく。

 どうやら、入り口に佇んでいる男は、まだ大型犬さながらの陰鬱な雰囲気をまき散らしているらしい。

「……まったく……」

 ミレニアは苦笑してから、深呼吸する。頭をクリアにしてから、入口へと向かった。

「――ロロ」

「!姫――!」

 声を掛けられたことに驚いたのか、大きく眼を見開いた後、すぐに膝をついて最上位の礼を示す。

「申し訳ございません。俺のせいで、姫を、不快な思いに――」

「いえ、いいのよ。私も、何も言わずに退室してしまってごめんなさい。……ふふっ、廊下でそんなかしこまった礼を取らなくてもいいでしょう。顔を上げなさい」

「ですが――」

「構わないわ」

 許しを与えると、苦しそうに顔を歪めた青年が、ゆっくりと立ち上がる。

(私の元にいる間は、変わらず徹底的に、私に忠誠を誓う従者であり続けてくれるのね)

 ふ、と切ない笑みを漏らして、美しい紅玉の瞳を覗き込む。反省しているせいか、視線は合わない。

「姫――……」

「ふふ……こちらを向いて、ロロ。いつも言っているでしょう。お前が傍にいるとき、この瞳を好きな時に、好きなだけ、自由に覗き込めるのは、私だけに許された特権よ。お前に拒否権はないの」

 茶化すように言いながら再度覗き込むと、いつもと変わらないミレニアの心を惹きつけてやまないそれが、遠慮がちにこちらを向いた。

 翡翠と紅の視線が、しっかりと交わる。

「あぁ――美しい。お前の瞳は、何度見ても美しいわね」

「……そんなことをおっしゃるのは、姫だけです」

「ふふ……いいのよ。この美しさは、私だけが知っていれば、十分。――そうでしょう?」

 ふわり、と花が綻ぶ様にミレニアの頬が笑みの形に緩む。

 ロロは、瞬きを少し早めた後――「はい」と小さく呟き、頷いた。

「さぁ、書斎に行きましょう。今日中にもう少し、調べたいことがあるのよ。ついてきてくれるでしょう?」

「勿論。許していただけるのであれば」

 もう一度礼を取る従者にクスっと笑いを漏らし、足を踏み出そうとしたところで――

「……姫」

「ぇ?」

 呼び止められて、振り返る。漆黒の髪が、ふわりと宙に舞った。

「その……業務に戻る前に、一つだけ」

「えぇ。なぁに、ロロ」

「先ほど――姫が、私室へ戻られる際に口走られた言葉の意味を……尋ねても、よろしいでしょうか」

 ざわりっ……

 胸の奥が、不穏にざわめく。

「何か――何か、酷い、誤解を招いてしまったような気がして、堪りません」

「それは――」

 何と答えようとかと思案していると、目の前の青年がぎゅっと眉間に皺を寄せた。

 いつも仕事をしない彼の表情筋が、今日は珍しくよく仕事をしている。

「俺が――姫の命令もなく、自分から、姫の傍を離れることなど、あり得ません」

「…………」

「まして――去る、などと……そんなことは、決して」

 苦悶の表情を浮かべる従者に、ふ、と苦笑する。

 やはり、彼が自分から進んで離れたがっているというのは、ただの早とちりだったようだ。

 だが――それでも、彼が、「異論はない」と言ったのは、大きな一歩。

(……ちょうど、よかったのかもしれない)

 きっと、今のままでは、ロロを手放す決意など、決して持つことは出来なかっただろう。紅玉宮の全ての従者に暇を与えて、ギークに上伸したとして――ギークの不興を買えば、ロロに酷い仕打ちをされることは目に見えている。ミレニアが、彼を何より大切に特別扱いしていることなど、皇城中の誰の目にも明らかなのだから、彼女を痛めつけたいと思えば、ロロに悪の手が及ぶことなど十分に考えられた。

 そんなことは耐えられない――そう思いながら、そうなる前に彼を手放さなければと思って、生きてきた。

 それでも、一番傍で、いつもいつもじっと控えている美しい瞳を覗き込む度に、決断など出来なかった。

 ミレニアが彼を手放したところで――彼の行く先はあるのか。ギークによって不幸にされることは防げても、至上の献身を捧げる彼自身は、別の哀しみに胸を痛めるのではだろうか。

(国益のためにも、彼のためにも――今のうちに、身辺整理をしてしまうのが、良いのかもしれないわ)

 彼の心変わりは、ほんの少し――本当は、とても、かなり、苦しくてたまらないのだけれど。

「大丈夫よ。ちゃんと、わかっているわ」

 答えながら、ミレニアは安心させるようにして頷く。

「それよりお前、明日も昼の勤務よね」

「はい。その予定です」

「では、明日、来客があると思うから、応接の場に同席なさい」

 指示を出しながら、ミレニアは書斎へと足を向ける。

「お前が、国家のため、危険な魔物討伐を担う任務を負ってくれるとのこと、嬉しく思うわ。――だけど、私はやはり、お前が無体な扱いを受けることだけは、どうしても我慢がならないから」

 たとえ、主従の関係が解消されてしまった後だとしても――

 この美しい瞳が、あの鉄格子の中にいたころのように、哀しい虚無に支配されるのだけは、避けたい。

「お前を引き渡した先の待遇を、直接交渉します。――皇族の中で、一番話を理解してくれるお兄様に」

 どこで誰が聞いているかわからない。誰、と明言することなく、ミレニアは告げた。

「……かしこまりました」

 ロロもまた、余計なことは言わずに任務を拝命する。

 書斎へ向かう少女の横顔は、先ほど垣間見えた、十三歳のか弱い少女とは程遠い、気高い女帝の横顔だった。

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