第52話 噛みしめる無力⑧
「姫、ご無事ですか」
「ロロっ……!」
窓から覗き込むようにして尋ねると、ミレニアが蒼い顔を上げた。
恐怖の色が濃いその面に、主を危険な目に陥らせてしまった落ち度を悔いながら、ロロは静かに言葉を続ける。
「状況を報告します。――事態は、芳しくありません。このあたり一帯は、おそらく俺たちが来る前に魔物の襲撃に遭って、生存者は絶望的。大量の魔物に周囲を取り囲まれています」
「っ――!」
さっとミレニアの顔に絶望がよぎる。
「生存者が認められない状態で俺たちが誘い込まれたということは、ここの者たちも、救援を求める暇もなく襲われたと思われます。現時点で、ここの襲撃はまだどこにも通達されていないでしょう。幸い、炎の障壁は有効で、あれの内側は安全圏と言えます。魔物を食い止められますが、魔法である以上、時間制限がある。張り直す一瞬の隙をついて、魔物が襲い掛かります。右と左で、それぞれ三匹から五匹ずつ」
少女の顔がどんどんと青ざめていくのを見ながら、それでも、ロロはありのままを報告した。
今、頼れるのは――『侵略王』ギュンターの粋を受け継いだ少女の、指揮官としての判断だけだからだ。
「言うまでもないことですが、俺とディオには体力の限界があり、魔力にも限界がある。特に魔力に関しては、読めないところが大きい。せいぜい、耐えられて一晩。それを超えれば、体力と魔力のどちらかに限界が来て、この包囲網は突破される」
「っ……」
「魔物は野生動物並みの速さだ。トップスピードと持続力を考えれば、馬で駆け抜ければ振り切れるでしょうが、瞬発力は奴らに分がある。馬一頭で、襲い来る魔物を迎撃しながら駆け抜けるならまだしも、重い車体を轢く馬が逃げ切れる可能性は、皆無でしょう」
「魔物の速さや跳躍力は狼くらいを想像してくれればいいと思うよ。俺、前座で猛獣とは阿呆みたいに戦ったから、見立ては正確だと思う」
ディオの補足に、ミレニアはぐっと唾を飲み込んで俯いた。
ロロは少し考えてから、口を開く。
「究極の選択なら、いくらでもある。俺が全力でここを中心とした街を焼き尽くせるだけ焼き尽くす、というのも、最終手段です。――どこまでが壊滅状態かがわからないので、住人が無事な一画まで焼き尽くす可能性が大いにありますが」
ぞくり、と全員が背筋を寒くさせてロロを見る。
「ただしそれは、俺の魔力が十分残っている早いうちに決断をしてください。魔力が足りなくなって範囲が狭狭まり、魔物を殺しきれなければ、次は絶対安全圏の炎の障壁を生み出せない状態で戦わなければならない。今以上に生存確率は低くなる」
ミレニアは蒼い顔で何かを考えこんでいる。ロロは、心苦しさを覚えながら、口を開いた。
「俺には、どれだけ考えても何が最善か、わからない。姫の判断に、従います」
一瞬の沈黙が生まれ、轟々と、周囲を炎の障壁が取り囲む音だけが響く。
「少し、考えをまとめさせて。……ちなみに、お前が言った最終手段を取るとして、範囲はどれくらいなのかしら」
「さぁ……そればかりは、やってみないと何とも」
「考えるための目安を頂戴、と言っているの」
ロロはすぃっと左下に視線をやって、何かを考える。
「――魔力が最大まであるときならば、帝都の半分程度を焼けると思いますが」
「……そう。じゃあ、やめておいた方がよさそうね。本当に最後の手段だわ」
忠実な護衛兵の言葉に頭痛を覚えそうになり、ミレニアはこめかみを抑えた。
いつぞや、彼が皇城の敷地内を焼き尽くすことなど簡単だ、と言っていたことを思い出す。あれは、冗談でも何でもなかったらしい。確かに、帝都の半分を焼き尽くせる男なら、皇城を飲み込むくらい簡単なことだろう。
ミレニアは血の気の引いた顔で、震える唇をかみしめながら必死に頭を回転させた。
全員が、固唾を呑んでミレニアの言葉を待っている。
――ミレニアの決断が、今、ここにいる者全員の命を、握っている。
「……ファボット。市街地の地図を持っている?すぐに出して」
「は、はいっ」
声だけは震えないように、低い声で指示を出す。
誰が見ても漆黒の奈落の底を前に、目に見えぬが確かにあるはずの細いピアノ線を信じ、辿って渡れと脅されているような恐怖。
煌々と輝く業火の壁のおかげで、明かりに不自由はしない。ファボットから渡されたそれを広げ、ミレニアは重責に震える指を叱咤しながら必死に脳を稼働させる。
「い、今いるのはこのあたりです」
ファボットの震える指で差された地図を見て、少女は口の中で何かを呟きながら考える。揺らめく炎に照らされた凄絶な横顔は、絶望に足をすくませる人々を叱咤し導く将の厳しさを湛えていた。
「敵の数がわからないのが、一番困るわね。概算でもいい。どうにかして知りたいわ」
「では、次の襲撃時に、数えます。――いいな、ディオ」
「お、おう!動体視力は自信がある!安心してくれ!」
ごくり、とつばを飲み込みながら、必死に少年は頷く。
前座では、猛獣と戦うことも多く、一体多数で戦わせられることもしょっちゅうだ。ディオがそうした戦いに慣れているのは、不幸中の幸いだった。
「数は、本当にざっくりとでいいわ。それよりも大切なのは、位置。方角を見て」
「わかりました。……ディオ。馬車から見て左半面をお前に任せる。炎が途切れた瞬間、数を数えろ。終わったら、叫べ。俺は反対側だ。両者が数え終わった途端に炎を展開する」
「ま、任せろ!」
少年の固い声を聴きながら、ミレニアはじっと地図を見つめて考える。
あるかないか定かではないピアノ線に足を踏み出すためには、最初の一歩の場所が肝心だ。それを知るために――従者に、危険を背負わせるとしても。
この場にいる全員を救うためには、彼らを死地に送り出さなければならない。
「――ディオ。そろそろだ」
「っ!」
ロロの静かな言葉に、少年はビクンと身体を刎ねさせる。剣を握り、何も言われずとも、即座に持ち場へと戻っていった。
「姫、頭を低くしていてください。貴女を必ず、お守りします。何も心配しなくていい。ご安心ください」
覗き込んでいた窓から顔を上げて、揺らめき始めた炎を見据える横顔は、いつもと変わらない無表情。声に震えは、一切ない。鋭い眼光を備えた横顔は、淡々とした口調と相まって、その言葉に凄絶な覚悟があることを否応なく知らしめた。
(この状況で、安心しろ、だなんて……本当に、馬鹿な男ね)
窮地に追い込まれていることなど微塵も感じさせない堂々たる振る舞いをした黒衣の護衛兵に、ふ……と思わず苦笑が漏れる。
冷静な自分は、ロロの言葉など、何の気休めにもならないと囁くが――何故だろう。
不思議と、その大きく逞しい黒衣の背中を見るだけで、心が緩む安心感を覚えるのは。
「えぇ。任せるわ、ルロシーク」
「勿論。――命に代えても」
ロロを鼓舞するのに、特別な言葉などいらない。
ただ一言――特別な、大切な、名前を呼んでやるだけでいい。
世界でただ一人、ミレニアだけが呼ぶことを許された、とっておきの宝物。
「っ、来るぞ!」
ディオの叫びと共に、炎が掻き消え、黒い影が舞い踊る。
目の前に踊る黒い影に意識をすべて持って行かれそうになるのを堪え、ディオは右から左まで、視界に映る全てを網膜に焼き付けた。
(一、二、三――五――十、十五!)
ガガッ
「数えたっっ!!!」
ザシュッ
本能でかざした剣で踊りくる影の攻撃を受け流し、叫びながら返す刀で一匹を絶命させる。
炎の壁の出現までのタイムラグが今までよりも長いことに気を良くしたのか、過去の二陣よりも多い影が闇夜に踊り――
ごぉおぉおおおおおおっ
「「ギャンッ」」
前触れなく突如現れた炎の壁に巻き込まれ、数匹が炎の中へと頽れていく。しかし、それでも、炎の結界の中に潜り込んだ獣は、先ほどまでよりも確かに多い。
「ぅぁあああああああ!!!」
咆哮を上げながら、ディオは夢中で獣へと襲い掛かる。
一つ間違えば、すぐに間近に死が迫っていた。
(だから何だ――!そんなの、今までだって一緒だった――!!)
夢中で振るった剣は魔物を切り裂き、ぶしゃぁっと赤黒い血液を周囲にまき散らす。
「っ――!」
突然ぞわり、と項の毛が逆立つ感覚に、咄嗟にその場を飛びのく。すぐ左脇を、一匹の黒い獣の凶悪な爪が通り過ぎていった。
その瞬間、灼熱の痛みが左の二の腕に走ったが、構うことなく獣の首に刃を突き立て、絶命させる。皮と肉を断つ独特の感触が手に残った。
「ディオ!」
悲痛な声は、マクヴィー夫人のものだ。少年の腕から鮮血が噴き出したことに動揺したのだろう。しかし少年は、すぐに左腕を庇いながら襲い来る獣たちの猛攻をしのいで、次へ。
今まで、剣を振るう理由は、自分の命を守るためだった。みっともなく足掻いて、足掻いて、世界の肥溜めの中で、今日も息をし続ける――そのためだけに、剣を振るっては他者の命を奪ってきた。
だが、今は違う。
馬車の中にいる、大切な人を守るために、そのためだけに、剣を振るう。
あの女神が――<守り人>と、尊い名前を付けてくれたから。
「旦那!」
最後の一匹を切り伏せた後、すぐに馬車の反対側へと回り、加勢に入る。馬車に群がろうとする獣を、その手前で一匹残らず双剣で叩き落す、絶対の守護者がそこにはいた。
ようやくすべての魔物を倒しきった時、ディオは肩で息をしていた。ロロも、軽く息を弾ませながら、頬についた返り血を拭う。
魔力を温存し、そのほとんどを剣技で叩き落したせいだろう。いつも涼しい顔をしている青年にしては珍しい表情だった。
「アンタ、ほんっとに、化け物だな……!」
「すぐに息を整えろ。体力を回復させておけ」
「い、言われなくても……!」
血を失ってやや蒼い顔をしながら、ぜい、ぜい、と必死に息を整える少年と一緒に、馬車へと近づく。
「ディオ……!怪我を見せなさい……!」
「え?あぁ――」
近寄った途端に、蒼い顔のマクヴィー夫人が窓から顔を出して手を差し伸べる。思わず、言われるがままに左腕を差し出すと、真っ白なシルクのハンカチーフで、夫人は少年の傷口をぎゅぅっと力一杯縛りつけた。
「え、わっ、ちょ、こんな綺麗な布使わなくても――!」
「黙って!っ……無茶をしないで、とはとても言えない状態だけれど――でも、せめて私にもこれくらい、させて頂戴……!」
叱りつけるようなマクヴィー夫人の瞳には、透明な雫が浮かんでいる。魔物に襲われる恐怖と、亡き息子を重ねてしまった少年が命の危険に晒されている恐怖に極まったのだろう。
ディオが少し気まずげな、少し擽ったそうな顔をするのを見て、ミレニアは痛ましげな表情を湛えた後、静かに手元の地図に視線を落とし、口を開いた。
「報告を。数は、把握できたかしら」
「はい。俺のいた右半面には、全部で二十くらいいましたが――最大限引き付けて、十匹は屠りました。炎の外に残っているのは、十弱かと。……後方の奴らが一気に襲ってきたので、殆どが前方に固まっています」
「お前は本当に、帝国最強の武人の名を恣にするわね……生きて帰れたら、何か勲章を与えたいわ」
一人で、魔物十匹を、魔力を温存しながら剣技だけで捌き切ったのだ。それも、馬車の中を気にして、庇いながら。――とても人間業とは思えない。
「ディオ。お前の方は?」
「あ、えっと、最初数えたときは、十五くらいで――中に入ってきたのが、たぶん、五、六匹くらいだった。それとは別に、旦那の炎に巻き込まれた奴が二、三匹いたから、外にいるのは七匹くらいだと思う。こっちも、後ろの奴らの方が多く襲ってきたから、残ってるのはほとんどが前方にいるはずだ」
「……そう。ありがとう」
ミレニアは微かに笑みを湛えて礼を言って、地図をじっくりと見据えた。
全員がミレニアの言葉を待って、永遠にも似た沈黙が流れる。
「――わかったわ。一か八か、勝負を掛けましょう」
バサッと地図を畳んで、ミレニアは顔を上げる。
少女は凄絶な顔で、静かに、奈落に張られた目に見えぬピアノ線へと足を踏み出した。
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