第44話 嚙みしめる無力①

 ガタガタ……と舗装された道をゆっくりと馬車が走っていく。

「今日は、寒いわね……雪でも降りそうな曇天だわ」

「ショールをもう一枚追加いたしましょうか」

「えぇ、お願いするわ、マクヴィー夫人」

 斜め向かいに座っている夫人が、手荷物の中から手際よく厚手のショールを取り出してくれた。受け取りながら、ミレニアはもう一度窓から外を眺める。空は、今にも雪が降りだしそうな鈍色の曇天だった。外には、与えられた愛馬にまたがり、馬車の護衛をするロロの姿もある。

 今日は、月に一回のヴィンセントを訪ねる日だ。

 ギュンターが健在のころは、その威光を恐れてか、基本的にヴィンセントの方からミレニアが住まう紅玉宮へと足を運ぶことばかりだったが、ギュンターが病に伏せってからは、徐々にその頻度が減って、ミレニアが赴く回数が増えた。

 そしてギュンターの崩御後は、毎回ミレニアの方から赴く形となっている。

(幸いと言えば、幸いだわ……帝都の様子を自分の目で見ることが出来る、貴重な日だから)

 歴史のあるカルディアス公爵家自体は、国家三大貴族というだけあって、帝都に隣接した場所に広大な領地を有しているが、三男であり軍属となっているヴィンセントは、帝都の中に別邸として屋敷を構えている。目に見えぬ忖度が働いたのか、公爵家の要望だったのかは知らないが、帝都の中でも安全とされている東部地域にその家を構えていた。

(ヴィンセント殿がいらっしゃるお屋敷は、昨年魔物の襲撃で壊滅したという地域とは少し離れているけれど……今までは、御者が気を遣って、壊滅した地域を迂回して私に見せないようにしていたのね)

 ロロが情報を持ってきた今、カラクリがわかったミレニアは心を痛めた。

 いつも、ミレニアの馬車を担当してくれる御者のファボットは、古くからの馴染みの老齢の御者だ。壊滅した地域は、復興で奴隷や強制的に地方から招集された人々と、第二の襲撃に備えつつ彼らの動向を見張る役目も兼ねた軍人たちが詰めている。悪感情が渦巻いていることは想像にたやすく、おそらく治安も良くない。

 彼から見れば孫娘と変わらぬくらいのミレニアに、悲惨な状態となっている地域を見せたくないと思ったのか、彼女に身の危険が迫るようなことがあってはならぬと万全を期したのか、彼女にそんなところを見せてはギークに直談判をしかねないと思ったのかはわからないが、従者の優しさには違いがないのだろう。咎める気にはなれなかった。

 ゆっくりと揺られる馬車の中から外を見れば、待ちゆく者が皆、平伏しているのは昔と変わりがないが、その瞳には絶望と支配階級への憎悪が滲んでいるように感じられた。

「それにしても、人出がないように感じられるわ。年越しを前にして忙しいはずなのに、どうしたのかしら…」

「……そう、ですね……」

 マクヴィー夫人の瞳が揺れて、歯切れ悪くつぶやく。戸惑った様に眼鏡を押し上げる様子に、ミレニアは彼女が何か察しがついていることを理解した。

「何か知っているようなら、教えて頂戴、夫人」

「は……いえ、その……」

 夫人は少し困ったようだったが、結局、ミレニアのまっすぐな瞳に根負けして、恐る恐る口を開く。

「今の民は、支配階級を憎み、恐れています。……理不尽な暴力を、圧政を、憎み、恐怖しています」

「……えぇ」

「馬車の音は、裕福な人間が通りかかる音と同義です。……誰しも、なるべくなら、面倒に巻き込まれたくない。音が通りの向こうから聞こえてくれば、通り過ぎるまで屋内で息をひそめる者も多くなるでしょう」

「!」

 想像以上の民の反応に、ミレニアは小さく息を飲む。

「申し上げにくいことですが――つい先日、帝都で、上級貴族の馬車と都民とが接触する事故があったようです。急いでいたのか、馬車は帝都の人通りの多い道を、あるまじき速度で駆けていたようで、そんな不幸な事故が起きました」

「――――……」

 ごくり、と生唾を飲む音が車内に響く。

「轢かれた都民は、誰が見てもわかる重症だったようですが――貴族は、「急いでいるから」と言って、救護することもなく、馬車から降りることすらなく、そのまま走り抜けていってしまったそうです」

「なんですって――!?」

 狭い車中に、ミレニアの愕然とした悲鳴に似た声が上がった。

「念のため申し上げますが――轢かれたのは、”都民”です。……”奴隷”ではありません」

「っ――――!」

 あまりの出来事に絶句し、ミレニアはうつむいて唇をかみしめる。

 馬車の走行に関する法律はしっかりと定められている。法定速度が決まっているのは当然だが、万一の事故が起きた場合は救護義務が発生する。それは、身分に関係なく行わなければならない、法的義務だ。

 百歩譲って――轢いた相手が奴隷であったならば、わからなくはない。

 救護義務は、身分にかかわらず、とあるため、本来奴隷であっても救護しなければならない定めだが、上流階級の馬車と奴隷の接触事故であれば、あいてを”人”ではなく”道具”だと言い切って捨て置く者もいるかもしれない。法的に取り締まるべき事案であることは事実だが、実態として、そうしたことが見過ごされているのが現実だろう。

 だが――都民は、誰が何と言おうと、”人”だ。

 仮に、皇族の馬車が都民を轢いたとしても――都民が平伏義務を怠っていたということで、事故の後に不敬罪の名目で別の罪に問われることはあるだろうが――ひとまず、救護義務が発生する。御者は全員、資格を得るときに応急処置が出来るかどうかの試験を受けており、事故が起きたときは身分に関係なく、御者の指示に従ってその場にいる全員で応急処置を行わなければならない。皇族であっても、だ。

 それを――無視した、というのか。

 そこに、どんな、正義があって――

「……その貴族の名は」

 ひやりっ……とした声が響く。ただでさえ寒い冬の入り口で、すぅっと車中の温度が、さらに下がったような錯覚を引き起こした。

「教えなさい、マクヴィー夫人。――貴族の風上にも置けぬ、その不届き者の名前を」

「っ……」

 貴族とは、民に尽くす者である。それは、領地を持っていようが持っていまいが、関係はない。公爵だろうが、男爵だろうが――皇族であろうが、関係がない。

 全て、高貴なる者には責務が伴う。――自分たちを支えてくれている民に尽くす、という義務が。

 翡翠の瞳に、怒りの炎を燃やして、ミレニアはマクヴィー夫人に詰め寄った。

 夫人は、痛ましげな表情を見せたあと、観念したようにそっと口を開く。

「噂では……馬車に掲げられた家紋は、ジャクア侯爵家の物に似ていた、と……」

「ジャクア――?あれは、伯爵でしょう?それも、中伯爵程度の――」

「……この一年と少しの間で……色々、ありました。先日、ジーク陛下直々に、侯爵位を与えていらっしゃるはずです」

「っ――……」

 爵位を上げるなど、そう簡単に出来ることではない。それを、一年と少しの間で、一気に引き上げたということになる。

 よっぽど後世に残るほどの偉業を達成でもしない限り、そんな大抜擢はあり得ないだろうが――今の状況で、そんな偉業をジャクア元伯爵が成せたとは思えない。

 十中八九、賄賂をはじめとする非公式なアプローチを行ったことで、ギークに気に入られ、取り立てられたに違いない。

 そんな短期間で、大した功績もなく大貴族の仲間入りが出来てしまったのだ。有頂天になり、自分に敵はいないと思い込んでしまったのかもしれない。皇帝すら意のままに掌の上で転がせるという事実は、ジャクア家の人間を増長させただろう。

 そんな背景で――今回の悲劇が、起きた。

「お兄様はっ……!!!何を、考えていらっしゃるのっ……!!」

 ぎゅぅっと膝の上でドレスのスカートを握り込み、ミレニアは絶望に近い怒号を上げた。

 マクヴィー夫人は、少女の声にならぬ慟哭を静かに受け止め、ぽつりとつぶやく。

「轢かれた都民は、働き盛りの男性で――周囲の者たちが必死に救護したものの検討虚しく、数日後に息を引き取ったと」

「っ……せめて、事故の後に見舞金や弔慰金の一つや二つ、色を付けて被害者の家へと送り届けたんでしょうね……っ、そうだと言って頂戴、お願いだからっ……!」

 顔を覆って、ミレニアは嘆く。

 金ならきっと、唸るほどあるはずだ。――ギークに献上するために、金策だけは、怠らないはずだから。

 しかし、縋るようなミレニアの声を聴いたマクヴィー夫人から返ってきたのは、長い長い静寂だった。

 その無言こそが、答えなのだろう。

「……その事故があってから、都民は、馬車の音に怯えています。……自分の身は自分で守るしかない、と――法律は、国は、都民を守ってはくれぬのだと」

「あぁ――――!」

 そんな――そんな国を、作りたかったわけではない。愛しい民に、そんな殺伐とした日常を与えたかったわけではないのだ。

「……ミレニア様のせいではございません。どうか、ご自身を責めることはお辞めくださいませ」

「でもっ……でもっ……!」

「ミレニア様も、もうすぐ十四歳。――あと一年と少しで、皇族というお立場から離れ、歴史と伝統のある大貴族カルディアス公爵家の一員となられるのです。領地を持たぬ公子様に嫁がれるのですから――これから国がどのような道に進もうと、民から恨まれることなどありません。国政とは距離のあるところで、裕福な家庭に入り、夫を持ち、正妻として深く愛され、子を産み、育み、女の幸せを手に入れて、どうか心穏やかに、健やかに、幸せにお過ごしください。――それが、第六皇女ミレニア様に仕えた我々全員の心からの願いです」

「っ……」

 わかっている。――わかっている。

 ミレニアに仕えてくれる者たちは、皆、心からミレニアを慕い、敬い、彼女だけは幸せになるようにと――己の家の行方すら不透明で厳しいこの世の中で、それだけを必死に願ってくれていることは、痛いほどにわかっていた。

 今や、ギークは増長した暴君以外の何物でもない。誰もが彼の一挙手一投足に怯え、顔色を窺い、生きている。

 そんな中で、ミレニアが実兄へと正義感を振りかざせば、ギュンターの後ろ盾のない今、第六皇女などという肩書など紙切れ同然の扱いで、不幸のど真ん中へと突き落とされることは確実だった。

 だからこそ、ギュンターが床に伏せってギークの治世となった後、紅玉宮に仕えていた全員が、協力し合ってミレニアをなるべく紅玉宮から出さなかった。レッスンを詰め込み、淑女になるためと言って国政から離れるように仕向けていった。護衛兵も、ロロに鍛錬を頼みこみ、彼が休みの日に皇城から出ることをそれとなく阻むことで、ロロからミレニアの耳に情報が入ることを防いだ。

 お茶会に呼ぶ貴族の令嬢も厳選して、なるべく上流階級の者だけを呼んだ。――下級貴族はそれだけ市井に近い。帝国の現状を、ミレニアに伝えてしまう可能性があったからだ。

 耳に入れば、ミレニアは動いてしまうだろう。

 皇族の誇りを胸に、高貴なるものの責務を果たすため、己の進退を賭して、ギークへと上申して諫言するはずだ。

 そんなミレニアの性格を、誰より理解しているからこそ――全員が、ミレニアに、国の実情を、ギリギリまで隠し通していた。

 願わくば、何も知らないままに、嫁いで幸せになってほしいと――

 重たい沈黙が車中を支配してしばらく経ち――ギッ、と小さな音を立てて馬車が止まった。目的地に着いたらしい。

「ミレニア様。……どうぞ、お手を」

 マクヴィー夫人に促され、蒼い顔のままそっと手を差し出す。外から、御者のファボットが扉を開けてくれた。

 馬車から降りながら、ちらり、と平伏する白髪の老人へと視線を移す。

「……ファボット」

「はい、姫様」

 しゃがれた声が、穏やかな声で返事をする。優しいこの御者が、ミレニアは昔から大好きだった。

 彼と出かけるときは、敬愛する父と一緒に出掛ける時と、殆ど同義だったからだ。

「……ジャクア侯爵の件――お前は、知っているかしら」

「!」

 ハッと老人の皺だらけの目が見開かれた。普段は線のように細くて殆ど見えない黒い双眸が覗き、それが答えだと思い知る。

「……御者仲間の伝手を伝って、被害者の遺族の家を探し出しなさい」

「姫様――」

「お願い。……お願いよ、ファボット。――お願いだから」

 命令――という言葉は、使わなかった。

 それはつまり――……

「かしこまりました。不肖ファボット、精一杯務めさせていただきます」

「ありがとう」

 ふ……と口の端に、力のない笑みを浮かべて、ミレニアは礼を言う。

 風のように音もなく、斜め後ろのいつもの定位置に、黒い影が寄り添う気配を感じながら、ミレニアは未来の夫となる男の屋敷へと向かって行った。

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