第42話 忍び寄る影⑤

 しん……と、奇妙な沈黙が部屋に舞い降りる。

 蒼い月光が大きな窓から差し込み、ミレニアの美しい顔を照らすのを、じっとロロは静かに見つめた。

「……姫?……どうかされましたか?」

 あまりに長い沈黙に、軽く眉を寄せて、もう一度だけ尋ねると、ハッ……!とミレニアが我に返ったように息を飲んだ。

「っ……ちょ、ちょちょちょちょちょちょっと待ちなさい!!!!」

「?」

 ガバッと音をたてる勢いでソファから立ち上がり、ミレニアは声にならない声でロロを問い詰める。激昂したように顔を赤く染め、右の人差し指をロロに突き付けるようにして、左手は胸の首飾りをぎゅっと握っていた。

「お、おまっ……お前っ……!そこに直りなさい!!!!!」

「……?……はい」

(……既に膝をついて控えているんだが)

 心の中のつぶやきは、口に出したらより主を激昂させそうだったので、ひとまずそのまま胸の中にしまっておく。……それくらいの空気を読む力は、ロロにも何とか備わっていた。

 出逢ってから初めてと言っても差し支えのないほどの主の狼狽に、ロロはこれ以上なく困惑して眉を寄せる。――何か、不敬なことでもしてしまっただろうか。

「……何か……?」

 そういえば、マクヴィー夫人にも同じ言葉を返したな、とどうでもいいことを頭の片隅で考えながら問いかける。

「な、何かもなにも――!!!」

 ミレニアは、目を白黒させながら、何かを叫ぼうとして――ぎゅっと首飾りを握り締めた後、息を詰めて、言葉を飲み込む。そのまま、突き付けていた右手を額に当てて、無言のまま天を仰いだ。

「…………あの。……何か、言っていただかないと、わかりません」

「~~~~っ……!少し、黙りなさい……!今、考え事をしているの……!!!」

「……はぁ」

 どこか呆れたような、困惑したような、素の口調の生返事が返ってくるのを聞きながら、ミレニアはぐるぐると回る頭を必死になだめて何とか思考をまとめていく。

 もう、最初に口にしかけた問いかけは、意味をなさない。――そんなもの、なくても、わかってしまった。

(なんっっっっっで、身体中に、わっっっっかりやすく、甘ったるい香の匂いを充満させてるわけ――!!?)

 彼に近寄った瞬間に立ち上る香り。マクヴィー夫人が怪訝な顔をしたのも、同じ理由だった。

 だが、ロロの反応を見る限り、彼は自分にそんな匂いが付着していることに気づいていないのだろう。あるいは、気づいていても無頓着なだけなのか。

 自分のために金を使うという回路が皆無なロロが、まさか、自分で香水をつけたり、部屋に香を焚いたりなどという行為をするはずがない。今まで一緒にいた三年間、彼からそんな人工的な香りが香ったことなど一度もなかった。

 そうなれば、間違いなく、今日訪れたという”情報源”の店とやらで付着したということだろう。

(――――――女ね。女だわ。間違いなく、女)

 むせかえるような甘ったるい香りは、わかりやすく男を誘うような、どこか下品にも感じる匂いだった。男でも香水をつけたり、部屋に香を焚く趣味を持つ者はいるが、こんな甘ったるい香りを身に着ける男はいない。男娼でも、ここまでの露骨な香りはさせないのではないだろうか。

(え、待って、なんで、どうして、剣闘奴隷だったロロの”一番の昔馴染み”が、こんな色気むんむんな香を焚き締める女なの――!?)

 くらり、と眩暈がする。

 なんだか聞くのが憚られる気がするが――どうしても、気になる。

「……ロロ」

「はい」

「その情報源の女――元、性奴隷、でしょう」

 ぱちぱち、と紅玉の瞳が、月光の下で驚いたように瞬かれる。

「……よくおわかりで」

(否定しないっ……!!!!)

 情報源が女であることも、性奴隷であったことも、全く否定されなかった。再びミレニアは、顔を覆って天を仰ぐ。ロロは、それがどうかしたのか、とでも言いたげにきょとんとミレニアを見上げるばかりだ。

 すーはー、と何度か気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした後、空いている方の手で首飾りを握り締める。……正直、父が崩御したときよりも動揺した自信がある。

 ぎゅっ、と冷静を保つためにお守りを握り締め、はぁっと息を吐いてから、ちらり、と視線だけでロロを見下ろした。

「剣闘奴隷のお前が、どうして、性奴隷と、馴染みだったのかしら――?」

「――――――――」

 ――――

 ――間。

 奇妙な沈黙が、一瞬部屋に横たわる。

 すぃっ……と美しい紅玉が左下に移動した。

「――――――昔、色々あっただけです」

(色々!!!!!いろいろ、って!!!!何!!!!!)

 叫びだしたくなる衝動を必死に堪えて、ぎゅっと手を握り込む。首飾りの細工が掌に食い込んで痛みを発するが、無視してぎゅぅぅぅっとしっかり握りしめた。

 ミレニアの優秀な頭脳が、たくさんの知識と知識をつなぎ合わせて、本人の意図など無視して、高速で勝手に確からしい仮説を導き出していく。

 元性奴隷の女。基本的に、性奴隷になるには見目が美しくないとなれない。それが、貴族に買い上げられたと言っていた。おそらく、花形だったのだろう。美形揃いの性奴隷の中でも、さらに美しい奴隷だったに違いない。

 そしていつかロロは、従順で優秀な奴隷にだけ、稀に枷を嵌めた状態ではあるものの、休日を与えられて奴隷小屋の一画を自由に動き回ることが出来たと言っていた。ロロの”馴染み”の多くは、その時に出来たはずだ。――きっと、今日逢ったという女とも。

 貴族に買い上げられていくほどの花形の性奴隷。間違いなく、優秀だろう。場合によっては、彼女も休日を与えられていたのかもしれない。

 そして、基本的に愛想がなく、紅玉宮に来た時も人嫌いを隠そうともしていなかった彼が、”一番の昔馴染み”と断言するほど信頼しているということは――

(――――あ。駄目だわ。答えが一つしかないわ、コレ)

 女の勘というのは、どうしてこうも鋭いのか。

 激昂を通り越して、達観の域まで達したミレニアは、ただ無言で天を仰ぐだけだった。

 どう考えても――二人は、過去、懇ろな関係だったとしか思えない。

(休日のたびに、監視の目をくぐって、逢瀬を重ねたりしたのかしら――あ。駄目。想像したくない)

 いつも、吸い込まれるように美しい紅玉の瞳をまっすぐに向けて、ミレニアを崇拝するように献身を捧げてくれている青年が、どこぞの美しい女に情熱的に愛を囁く場面を描きそうになり、脳みそが拒否反応を示す。

(駄目よ、皇女ミレニア。冷静に、冷静になるの。落ち着いて。よく考えれば、別に、何も、おかしなことなんて何一つないじゃない)

 ギリギリギリ……と首飾りを渾身の力で握り締めながら己に必死に言い聞かせる。

 ロロの年齢は不詳だが、二十歳前後であることは疑いようがない。世間では第二婦人がいてもおかしくない年齢だ。過去、恋人の一人や二人や五人や十人くらいいたところで、何も問題はない。

 そうして過去に深い仲になった女を、主たるミレニアからの命令を叶えるために、いの一番に頼ったとしても、何も、何もおかしくはない。何せ、彼にとっての”一番の昔馴染み”だ。困ったときに頼りたくなるような、特別な相手だったのだろう。

(つい、ロロにそんな相手がいるはずないと勝手に思い込んでいたけれど――奴隷は”道具”じゃない、と私が言っていたんじゃない。当然、人間ですもの、恋愛の一つや二つ、誰でもするに決まっているわ。奴隷解放を目指す私が、奴隷同士の恋愛があったという事実に、何を驚くことがあると言うの)

 ぎゅっと瞳をしっかり閉じて頭を振ってから、改めてロロを見下ろす。

 ロロは、何やら挙動不審な主を見て、困惑したように軽く首をかしげながら、それでも辛抱強くミレニアの言葉を待っていた。

(……いつか、ロロが縁を結んで誰かと結婚するような未来が来たら、それを応援してやらねばと思っていたじゃない。貴族の令嬢は難しくても、どこか心根の優しい庶民の娘とか――なんて、思っていたけれど。相手が元奴隷なら、ロロの境遇も良くわかってくれるでしょうし、勿論差別もしないでしょう。剣闘奴隷だったころのロロを愛していたくらいですもの。きっと、今のロロも心から愛してくれるはず――…)

 だから、これは、喜ばしいこと。

 二言目にはすぐ自分を奴隷だからと蔑み、自分が人間であることすら忘れてしまうような男が、かつて人を愛し、愛されたことを思い出すきっかけになる、喜ばしい出来事。

(だから、その”情報源”の女と再び交流が始まったとて、私が何かを言う資格は、何も、ないのよ、ミレニア――……)

「……ごめんなさい。やっと、落ち着いたわ」

「……?……はい」

 ふぅ、と気持ちを切り替えるようにして、いつものミレニアに戻ったのを認め、怪訝な顔をしながらもロロは特に追及することなく受け止める。

 ――こういうところが、憎らしいのだ。

 ロロは、ミレニアに基本的に何かを意見することはない。突っ込んで何かを問いかけることがないのだ。

 奴隷解放の施策を毎晩考えて寝不足だった日々も。父を亡くした日の夜も。

 明らかに、何か言いたいことがあるような顔をしておいて――全て、言葉にすることなく、飲み込んでしまう。

 これではまるで――ミレニアに、本質的には興味がないのではと思ってしまうではないか。

「いいわ。報告を聞きましょう。――わかったことを、教えて、ロロ」

「はい」

 ミレニアは再びソファに腰掛けて、女帝の顔へと切り替えると、臣下に報告を促したのだった。 

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