第37話 主の矜持③
しん……と静まり返った部屋の前。長い廊下に佇んだまま、ロロは、酷く迷っていた。
(――声をかけるべきか?いや、しかし……)
ガントに叩かれた肩が、妙に重い気がする。重さを振り払うように軽く手を添えて、じっと一点を見つめて考え込んだ。
――主の成すことに、口を挟めるような立場ではない。
ロロのこの基本的な姿勢は、三年前から一度も変わっていない。
(本来であれば、俺が口を利くことも許されないお方だぞ……)
鉄格子越しに初めての邂逅を果たした日のことを思い出す。後からやってきた兵士の背に庇われていた少女。兵士は怒りに顔を真っ赤に染めて、ロロに向かって剣を付きつけ、目を潰し、舌を引き抜くと怒鳴った。
あれは、脅しでも何でもない。奴隷ごときが、神にも喩えられる皇族の視界に入り、言葉を交わしたとあれば、当然の報いだ。
学もなく、無様に、汚泥を啜って生きるだけの”口を利く道具”――
どれほど丁寧な言葉を覚え、礼儀を身に着けようと、本質的なところは変わらない。
皇族とは、そもそも生きていく場所が違うのだ。――隣に立つことは愚か、視界に入ることすら、許されない。言葉を交わすことも、名前を呼ぶことも、許されない存在なのだ。
(そんな俺に、何が出来るというんだ――……)
ぐっと左頬に刻まれた奴隷紋が、苦悶の表情に歪む。
ロロとて、正直なことを言えば、ガントと同じ気持ちだった。
ミレニアは、臣下の前で決して弱い一面を見せようとしない。それこそが主としての矜持であると思っている。臣下が安心して仕えるために、必要な振る舞いだと信じている。
それこそが、彼女の魅力だ。生まれながらにして人を従える才能を携えた彼女に仕えられることを、臣下は心から喜ぶ。それはまぎれもない事実だ。
だが――その、少女らしからぬ毅然とした横顔を見ると、胸が刺しぬかれたように痛むのも、事実で。
「――――……」
無意識に、胸にある翡翠の首飾りを服の上から押さえつける。
主が――ミレニアが、弱い心に触れてくれるな、と言っている。気づいてくれるな、と言っている。
放っておいてくれと――決して弱さを暴いてくれるなと、願っているのだ。
それならば、その意思に従うべきなのではないのか。――ガントは、そのように考え、物音ひとつしない扉を決して開かなかったのだろう。
「どうして俺に――…」
それならば、ロロも同じように、主の意思に従うよう促せばよいはずなのに、ガントは何故かロロに自分では成せぬことを託して行ってしまった。
ガントの言葉が呪縛のように耳の奥にこびりついて離れず、思わずじっと黙り込み、うつむく。
――どうか、疲れ切って、眠れていればいい。夢の中で、消滅の門へと旅立つ父と、最後の時を過ごしていられれば良い。
そうでなければせめて――泣いていてくれれば、良い。
弱さを臣下の前で見せなくてもいい。部屋の中で、独り、こっそりと、枕を濡らしていてくれれば良い。
たとえ、部屋からすすり泣きが聞こえようとも、ロロは何も聞こえなかったふりをするだろう。ガントとて、同じだ。
だが――
(一番、堪えるのは――)
ぎゅっ……と拳を握り締める。爪が食い込んで、小さな痛みを発した。
何かを堪えるようにして眉を寄せ、じっと扉の前に立ちすくんでいると――ギィ、と小さな音を立てて、目の前の扉が開いた。
「――――!」
「あら。……今は、お前がいてくれたのね。遅くまでご苦労様」
顔をのぞかせたのは、見慣れた少女。ふわり、といつもの高貴な笑顔で、従者を労う。
その美しい翡翠の瞳に――涙の影は、これっぽっちも見当たらなかった。
それに気づいた瞬間、ギュッ……と何かに締め付けられたかのように、胸の奥が鋭い痛みに襲われる。
「姫――……」
「どうにも、眠れなくて。――少し、外の空気を吸いに出ようかと思ったの」
見れば、外出に備えてか、寝間着用のワンピースを纏う少女の肩に薄手のショールがかかっている。
とろりとした蜜のように艶めく翡翠の瞳を向けて、ミレニアは小さく微笑んだ。
「ねぇ、ロロ。ついてきてくれるかしら」
「――勿論。どこまでも、お供します」
すっと頭を下げた従者に、満足そうにうなずいて、ミレニアは足を踏み出す。
(どこまでも――どこまでも、ついていく)
傍に居ろ、と命じたのは、ミレニアだ。
ミレニア自身がその命令を破棄せぬ限り、ロロは生涯、身体も、心も、命も、何もかもを捧げ、この少女に尽くすことだろう。
いつか彼女が、消滅の門をくぐるその瞬間まで――その死出の旅路すらも、彼女を守り抜くと、決めたのだから――
◆◆◆
ミレニアが足を向けたのは、紅玉宮の中にある小さな庭園だった。
春になれば色とりどりの花々が咲き乱れるそこは、かつてミレニアを身ごもった愛しい妃のために、ギュンターが作らせたものだと言う。フェリシアはよくそこで、花を眺めながら、ギュンターとの逢瀬を交わしたそうだ。
フェリシア亡き後、まるで寵妃を弔うかのように、庭園はより沢山の花々で彩られた。そこは幼いミレニアのお気に入りの場所となり、昼間にギュンターが公務の合間に訪ねてくるときは、共にその庭園で過ごすことが多かったという。
カサ……と緑が生い茂る夜の庭園へと足を踏み入れたミレニアは、ゆっくりと空を仰いだ。
「今日は、新月なのね。……真っ暗で、何も見えないわ」
言って、ぐるりと周囲を見渡す。
「まぁ、でも……この時間帯ですもの。あまり、関係はないかしらね」
声音には、苦笑が混じっていた。今や、草木も眠るような時間帯だ。仮に月が出ていても、昼間のような美しい花々は見られなかっただろう。
「――――……」
ロロは、無言で、いつもの定位置――ミレニアの斜め後ろ、彼女の視界に入らないギリギリのところに、静かに音もなく控える。
チラリ、と視線だけでロロの方を振り返った後、ミレニアは苦笑してから庭園へと視線を戻した。
――そこには、亡き父との忘れ難い想い出が、嫌と言うくらい、詰まっている。
「――――――……」
無言のままミレニアはそっと瞳を閉じた。
すぅ――と大きく息を吸い込む。夜になり、蕾になっているはずの花々の香りが、鼻腔を擽るような錯覚。
もしや、不意に思い出された、ギュンターとの記憶から、勝手に脳が錯覚させたのだろうか。
肺の奥までゆっくりと息を吸い込んだ後、ミレニアは静かに息を止める。
脳裏に過ぎ去っていくのは、今はもう、戻らない日々。
愛しい父と、交わした言葉。分かち合った温もり。
その全てが――もはや、手の届かぬ遠い所へと行ってしまった。
「――――……ふぅ……」
ゆっくりと――ゆっくりと、息を吐く。
(お父様――……)
まるで、脳裏にこびりついて離れない想い出を、吐息と共に外へと吐き出し、締め出すように――
吸ったときの倍ほどの時間をかけて、細く息を吐き切ってから、ミレニアはそっと瞳を開いた。
ゆっくりと開かれた翡翠の瞳には――涙も、陰りも、何一つ、宿されてはいなかった。
「……今夜は、寒いわね。昼間は、あんなに暑かったのに」
パッと夜空と同じ色をした髪を翻して振り返った少女は、馴染んだ護衛に向かってそんなことを話しかけた。
あまりにいつも通りの様子に、ロロは何と答えてよいかわからず、すっと視線を落とす。
「まぁでも、頭がスッキリして良いわ。――考えねばならないことが山積みで、困っていたのよ」
ミレニアはもう一度庭園を振り返る。
もう、戻れない時が、そこに横たわっているようだった。
「明日から、忙しくなるわ。侍女たちは、有力貴族の娘たちを殆ど置いていないから、配置換えはあまりないと思うけれど――護衛は、そうはいかないでしょう。きっと、たくさんの者たちが、ここから出ていくわ」
「……はい」
「誰が残るのかはわからない。――誰も、残らないかもしれない」
「…………はい」
「ルロシーク」
少女が振り返った。
「――お前には、一番苦労を掛けるわね」
面に――少女に似つかわしくない、痛ましげな表情を、湛えて。
ドクン……と、心臓が不穏な音を刻む。
「――関係ない」
気付いたときには、咄嗟に――何も考えず、口が勝手に動いていた。
「誰が、いても、いなくても。――俺は、生涯、誰より傍で、命を賭してアンタを守る。それだけだ」
「――――」
ミレニアが、驚いたように息を飲んだ。
美しい宝石のような瞳を、驚きでこれ以上ないほど大きく見開き、己の専属護衛を見上げる。
翡翠と紅玉が、暗闇の中で、しっかりと交わった。
「――――そう。頼もしいわ」
ふわり、とミレニアの頬が緩み、笑みの形をとる。
それは、先ほどまでの――主としての、顔ではない。
一人の少女、ミレニアとしての表情に、他ならなかった。
それを見て、ぎゅっとロロの形の良い眉が、中央に険しく皺を寄せた。
(――それでも――――泣かない、んだな)
ふわりと緩んだ、心の隙――
ミレニアが見せた、十三歳の少女としての顔に、儚さは感じても、弱さは感じられない。
(――俺が、従者だから、か)
深夜まで眠れずに起きていたのも、亡き父との想い出が詰まった庭園に足を向けたのも、彼女の行動は全て、彼女が父の死に心を痛めていることを指し示しているのに――
ミレニアは、決して、涙を見せたりしない。
(そういえば――この人が、泣いているところを、見たことがない)
血を分けた兄たちに露骨に疎まれようと。なかなか上達しないダンスの練習で厳しい叱責を受けようとも。馬から転げ落ち、命の危機に近い恐怖を感じようとも。
(強い――主、なんだろう)
女傑と呼ぶにふさわしい資質。臣下としては、喜ばしいことだ。これほどまでに完璧な主に仕えられる僥倖に感謝し、一層職務に励めばいい。
だが――何故だろう。
どうして――――――こんなにも、力不足を、感じるのか。
「……ふぅ。とはいえ、少し寒すぎるわね。もう少し厚いショールを持ってくるべきだったわ」
小さな掌を口元にあてて、はぁっ……と息を吹きかける少女に、ぎゅぅっと胸が痛んだ。
ぐっと奥歯を噛みしめた後、ロロは苦い顔のままバサッ……とマントを脱ぎ捨てる。
「ロロ?」
「着てください。――汚い服で、申し訳ありませんが」
「ぇ――」
面食らっているうちに、気づけば有無を言わさずすっぽりと、夜に紛れる漆黒の布に身体を包まれていた。つい今しがたまでロロの身に纏われていたためか、夜気の中でも確かな温もりを届けてくれる。
「温かい――…」
ほ……と、知らず知らずのうちに強張っていた身体から、力が抜ける。じわり、と心の奥まで解きほぐされるかのような感覚に、ミレニアはぎゅっと身体に巻きつけられた黒布を握った。
「姫――……?」
布を固く握りしめたまま、ミレニアはうつむく。ぎゅっ……と眉根を寄せて、固く瞳を閉じた。
何か――熱い何かが、こみ上げてきそうに、なった。
ふわりと、心の隙間にもぐりこむようにして、優しく、張りつめていた糸を緩めさせた温もりが――必死に保ってきた、主としての矜持を揺らがせる。
「っ……」
小さく息を詰めてから、深呼吸をする。
熱い衝動を――涙の気配に似た何かを、ミレニアは無理やり、飲み込んだ。
「――ルロシーク」
「はい」
不意にこみあげてきた衝動を飲み込んでから、ミレニアはゆっくりと口を開く。
「お前には、苦労を掛けるわ」
「構いません」
――苦労などと、思ったことはない。
「でも、ごめんなさい。――私、お前を、手放してやることは出来ないの」
「――――」
ぱちり、と驚いたように一つ、紅玉の瞳が瞬いた。
翡翠の瞳が、しっかりと青年の顔を見上げる。
「他の何を手放しても――お前だけは、手放せない。――ずっと、ずっと、私の傍に居なさい。命令よ」
その瞳は、どこまでも強くて――縋るように、か弱くて。
相反する二つの揺らぎを持ったそれは、ロロが初めて目にした、少女の”弱さ”に違いなかった。
「――言われなくても」
ぎゅ……と胸を鷲掴みにされる感覚。
ロロは、静かに応えた後、ふっと片手を宙にかざした。
ボッ――!
「きゃ――!?」
急に空中に現れた小さな火の玉に、ミレニアが驚いた声を上げる。
「ぁ……魔法……」
ロロが魔法を使うところを見たのは、これで二回目だ。初めて闘技場で見たときのような、苛烈な勢いを持つ他者を焼き殺す炎ではなく、周囲を優しく照らす、温かな灯。
それは、寡黙な美青年の、どこか優しい心根に似ていた。
「俺の火は、敵を焼く。――寒いときは、暖を取る。暗いときは、明かりになる」
「――――」
「全部――全部、アンタのために、力を使うと誓おう。アンタは、ただ、俺の傍にいてくれさえすればいい」
傍にいてくれれば、どんなことも出来る。
「アンタが美しいと言ってくれたこの瞳を――好きな時に覗き込める距離に、いつも、いてくれ」
「――――――」
ミレニアの瞳が大きく見開かれ、一つ、揺らぐ。
禍々しさとも苛烈さとも無縁の穏やかな炎――
柔らかく控えめな灯りに照らされた紅玉の瞳は、初めて見た日と何一つ変わらず美しい。
揺らめく炎に照らされた青年の顔は、いつもの無表情ではなく、どこか優しく愛しげに緩んでいるように思えた。
「――――――えぇ。えぇ、ルロシーク。必ず。必ず、よ」
ふわり、と少女の頬が綻び、花が開くように笑みの形を作る。
透き通るような紅玉の瞳を覗き込んで、ミレニアは嬉しそうに、唯一無二の従者と、違えぬ約束を交わした。
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