第7話 紅の剣闘奴隷③

 ガシャガシャとうるさい金属音が、薄暗い通路の奥へと遠ざかっていく。音の源は、あのたくさんの護衛兵たちが身に着けていた仰々しい金属製の鎧だろう。

(――変な、女だったな……)

 吐息をついて、奴隷は天井を見上げる。

 ここは、闘技場に備え付けられた、次の剣闘に出場する奴隷を収容しておく場所。いわば、選手控室だ。頑丈な鉄格子と錠前を見れば、無知な者にはただの囚人収容の部屋にしか見えないだろうが。

 頭上はるか高く、どれほど手を伸ばそうと、飛び跳ねようと届くはずもないところに取り付けられた、申し訳程度の明り取りの窓にすら、鉄格子がはまっている。手が届いたとて、仮に子供であっても脱走出来ぬ小さなそれは、建設当時から剣闘奴隷に対しての扱いが、重罪を犯した囚人同様だったことを示していた。

 いつもは気にも留めないその窓をぼんやりと見上げながら、奴隷は先ほどの光景を脳裏に描く。

 流れるように美しい、新月の日の夜空のような漆黒の髪。蜜のようにとろりとした、艶のある宝石を思わせる翡翠の瞳は、こちらの姿を認めて、驚いたように見開かれていた。

(……あんな顔をされたのは、初めてだ)

 驚いた顔の後、恐怖に劈く悲鳴を上げるのか、汚物を見るように蔑まれるのか――

 一目で上流貴族とわかる装いをした幼い少女の反応を予想し、いつものことだと不機嫌に眺めていた。唾の一つでも吐きかけられるかと思った。

 だが、少女は、こちらが奴隷であるということを認識しても、およそ貴族らしからぬ反応を見せた。

 高貴な宝石を思わせる瞳を目一杯見開いて――じぃっと臆することなく、こちらの瞳を覗き込んでいた。

 髪と同じ濡れ羽色の長い睫毛を上下させ、ほんのりと頬を上気させたその表情は、まるでうっとりと美しい物を前に魅入っているかのようだった。

 ――予想と異なる反応に、ただただ、困惑した。

(こんな不吉な色の瞳を覗き込むとは、頭がイカれてるんじゃないのか)

 右手を持ち上げて、軽く瞳を覆う。ガシャ、と重たい手枷が耳障りな音を立てた。

 物心ついたころから、とにかくこの瞳の色のせいで疎まれてきた。

 まだ労働奴隷だったころ――仕事先で、血潮を思わせる不気味な色だと言って、何度も何度も命の危険を感じるほどの酷い目に遭わされた。幼少の労働奴隷の虐待など、当時から息をするように当たり前の風習だったが、魔力の制御など出来なかった当時、間近に感じる死の恐怖で魔力が暴走すれば、もともとの無尽蔵の魔力のせいで、可愛いボヤ騒ぎなどを通り越し、仕事先の屋敷を焼き尽くしかねない騒ぎを何度か起こした。

 そうすれば今度は、この瞳の色を見ては、「人を焼く禍々しい炎の色」だと言われ、蔑まれた。

 何度も貴族の屋敷を焼く騒ぎを起こしては返品されてくる面倒な奴隷を持て余した商人は、死の恐怖に炎を暴発させる面白い見世物として、幼い少年の左頬に焼き印を追加して闘技場へと放り込んだ。金にならない労働奴隷を手間をかけずに処分するついでに、前座として賑やかし要素となれば儲けもの――と思って投入されたその場所で、奴隷は商人の予想をはるかに超える戦績を生み出した。

 そうして野蛮な剣闘奴隷となってからは、その戦績が異常だったせいで、「血と炎に魅入られた奴隷」として、瞳の色は闘技場に出入りする関係者の間で恐怖の象徴とされていった。

 奴隷小屋の外では、殴られ、蹴られ、頭を踏まれて唾を吐きかけられるのが当たり前だった。

 同じ空気を吸うことすら汚らわしいとでも言いたげな視線をよこし、あからさまに顔を顰める監視者の連中。鎖を引かれて”仕事場”に移動する最中にすれ違う、頬に刻まれた奴隷紋と血の瞳に恐怖する一般人。金の生る木として見ていることがよくわかる下卑た嗤いを浮かべる奴隷商人。まるで神になったように人の命を軽々しく扱うことで娯楽を享受する腐った上流貴族たち。

 過去に出逢った”檻の外”の連中の中の誰も――あんな表情で、この瞳を覗き込む者はいなかった。

「――――……」

 あの時の、少女の熱に浮かされたような美しい翡翠の瞳が、脳裏から消えない。

 最初は、どこかから、相当高貴な上流貴族の娘が迷い込んだだけだろう、と思った。しっかりと結い上げられた髪に着けられた金細工の髪飾りも、最高級のシルクで造られたと思しき卑しい奴隷にすら高級と一目でわかるドレスも、ある種今日の闘技場には似つかわしい。

 今日の見世物は、最も貴族を興奮させる奴隷が出るのだ。奴隷商人どもは足元を見て、通常の剣闘の倍以上の価格を観覧の価格として提示しているはずだ。剣闘が下級貴族にも浸透する娯楽になったとはいえ、優秀な奴隷が出る剣闘は未だに値が張る。それでもかまわない、と当たり前のようにポンと娯楽のために大金を支払える者しか、今日の闘技場には出入りが出来ない。

「まさか、皇女サマだとは思いもしなかったが――」

 くっ……と喉の奥で嗤いをかみ殺す。奴隷紋が刻まれた頬に浮かんだそれは、自嘲の笑みに近かった。

(奴隷など、見たこともなかっただろうな……存在くらいは知っている、という程度だろう)

 それくらい、住む世界が比喩ではなく天と地ほどにも違う。

 自分たち奴隷が生きるのは、汚泥に塗れた肥溜めと見紛うほどの穢れた底なし沼。皇族が生きるのは、喩えるならば清廉潔白な清水が湧き出る聖なる泉だ。穢れた者に近寄られることを嫌う上流貴族とすら、完全に一線を引いた彼ら一族は、この神に見放された国の中で、唯一、神と呼ばれるにふさわしい一族だ。

 雲上人と言って差し支えない穢れなき美しい少女が、何の理由でこんな場所にやってきたというのか。

「『侵略王』の趣味か……いや。俺を品定めに来たのか?」

 戦狂いと恐れられる皇帝は、剣闘奴隷を戦力として前線に追いやり、惨たらしい命知らずな突撃をさせると有名だ。

 定期的に献上されるその奴隷は、有力な奴隷商人たちが抱えるそれぞれの”優秀な”奴隷たちでなければならないと聞いたことがある。だが、金の生る木をあの業突く張りな連中が、大人しく差し出すはずもない。この闘技場で頂点を極めてもう何年も経つが、手枷を外され、檻の外に放たれる気配など微塵も感じないのだから。

 結局、いつまでもこの肥溜めの中、糞尿と汚泥を啜って生きるのだ。

 達観したように吐息を吐いて、瞼を閉じる。

 ――清く穢れなき印象的な翡翠が、まだしっかりと脳裏に焼き付いていた。

「――66番」

 声が響いたので、ゆっくりと瞳を開ける。いつも通り、鎧に身を包んだ屈強な男が、ゴミを見るような瞳でこちらを見た後、手にした鍵束から一本を選び、仰々しい錠前へと差し込む。

「時間だ。出ろ」

「…………」

 奴隷小屋から出てくるときに、幻聴のように耳の奥で響いた歓声が、今ははっきりとした音となって鼓膜を揺らす。

 今日も下卑た嗤いを浮かべた貴族たちが、くだらない檄を飛ばして、命に金を賭けて遊ぶのだろう。

 嘆息した後、ゆっくりと立ち上がる。枷についた鎖を引かれるようにして、男に続いて檻を出た。

 ――66番。

 それが、自分に与えられた名前の代わり。

(――ミレニア、だったか)

 愚かにも名前を問うてきた、世間知らずの美しい皇女様。

 その姿を一瞬浮かべた後――瞬き一つで奴隷は脳裏からその姿をかき消した。



 今日も、観客が、待っている。

 血で血を洗う野蛮の命のやり取りだけが、この肥溜めの中で自分が息をし続ける方法なのだ――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る