第3話 口を利く道具①

 沈んでいく――ずぶずぶと、どこまでも、果て無く。

 世界の汚物を全て詰め込んだ一郭、人々が漏らす吐息は全て怨嗟へと変わる。

 一度足を踏み入れたら最期、流砂に捕らわれたかのように、藻搔けど藻掻けど決してそこから這い上がることはない。

 決して光の刺さない檻の中から、ただ遠く眩しい外の世界へと視線を放るだけの日々。


 ガチャン……


「66番。仕事だ」


 重苦しい檻の扉が開いて、いつもと変わらぬ声がかかる。

 蔑みの色を隠しもしないその声音に無言で腰を上げると、ジャラッ……と、まるで咎人の象徴のような重たい鎖付の四肢に着けられた枷が耳障りな音を立てた。


 今日もまた、この何の価値もない命を繋ぐため、汚泥を啜るような一日が始まる。

 耳の奥で、下卑た観客たちが、無様に肥溜めの中で藻掻く様を、楽しみ嘲り嗤う耳慣れた声がした――



 ◆◆◆



 揺れる馬車の中、ミレニアはふと思い出したように口を開く。

「ねぇ、お父様。今日はこの後、剣闘奴隷の実践投入について、奴隷商人に交渉に行くのよね?」

「あぁ。奴隷商人どもは貴族よりよほど金にうるさい。優秀な奴隷は、闘技場での稼ぎ頭だからな。いくら皇族の勅命であっても、手放すことを拒む。今期送られてきた奴隷は、明らかに例年より見劣りする実力だった。それも、年々酷くなっている。もう何度も使者を送って是正を求めたが、商人どもは『これが今年の最良の奴隷です』と厚顔無恥に言ってのける。まさに、神をも恐れぬ奴らよ」

 神に見放されたと綽名されるこの国において、皇族が認める特定の宗教はない。領土によっては土着信仰が息づく土地もあるが、あくまで非公式にひっそりと信仰されるものでしかない。

 帝国の正式な見解は、昔から一貫している。――この大地に、都合よく人間を救ってくれる神などと言う存在はいない。そんなものに縋るくらいなら、己の力を奮い立たせて困難に立ち向かうべし。

 もし、神に近しい存在があるとすれば――それは唯一、国民を全ての災厄から守る役目を担った『皇族』以外にありはしない。

(そういう意味で、皇族の頂点たるお父様の使者に、堂々と世迷いごとを嘯くとは、まさに”神をも恐れぬ”としか言いようがないわね)

 ここ、イラグエナム帝国における皇帝とは、古来よりそういう絶対的な存在なのだ。

 その至高の存在が、金だけは腐るほど持っているが貴族階級ですらない奴隷商人ごときに、軽んじられている――これは、皇族の権威の失墜に他ならない。おそらく、出頭命令など何度もあったはずだ。無視されたのか、謁見でも態度を変えなかったのか。そればかりは、女の身ゆえ普段執政の場に顔を出せないミレニアには知る由もないが、こうして皇帝自らが足を運ぶ羽目になる以上、事態はよほど深刻なのだろう。

 ガタガタと小さく揺れる馬車は、華やかな帝都の中心地から少し外れ、西の方へと進んでいく。どこか薄暗くすら感じる通りは、少しずつ人通りもなくなっているようだ。

 それもそのはずだ。――この先にあるのは、皇帝の威光が眩い帝都の中にありながら、最も治安が悪いとされる場所。

 奴隷小屋と呼ばれる奴隷たちの収容されている檻のような住居もどきが立ち並ぶそこは、その昔、国政への不満をぶつける先として奴隷制が作られたときから、この国すべての怨嗟を煮詰めたような地域だ。帝都が発展し、華やかになればなるほど、影が濃くなる。貴族も、平民も、全てが理不尽極まりない不満を何の遠慮もなくぶつけられる先――それが奴隷なのだ。

 奴隷を『口を利く道具』と称したのは、いつの時代の吟遊詩人だったか――

 ミレニアは、本でしか読んだことのない知識を記憶の片隅から引っ張り出しながら、目の前の父へと口を開く。

「確か――奴隷商売で、純粋に奴隷を売買する以上に儲かるのが、剣闘奴隷による見世物ショーと、性奴隷の見世物ショーでしょ?どこの世界にも、くだらないことにお金を払う人がいるのね。……その顧客の筆頭がみんな貴族階級だなんて、頭が痛いわ」

 吐き捨てるように言うミレニアに、ギュンターは苦い顔した。いくら聡い少女といっても、さすがに余計な知識まで授けすぎたか、と悔やんだのかもしれない。

「帝国の発展の歴史は、奴隷の歴史と切っても切り離せんものだと教えただろう。奴らがいなければ、帝都の石畳はなかった。我らの住む皇城も、お前が進言した公衆浴場も、全て奴らが居なければ完成しなかった。鉱山で働くものがおらねば我らは身を守る武器を作ることも出来ん。農奴がおらねば、我らは毎日生きる糧を得ることもままならん。――見世物としての奴隷商売が成り立つようになったのは、国が発展し、民衆の悪感情をコントロールできなくなってきた近代に入ってからだと、教えただろう」

「それはそう……だけど」

「奴隷の多くは労働奴隷だ。奴らは我らの豊かな生活を助けるためにいる。見世物奴隷になれるのは一握り――お前の言う『くだらないこと』に従事する奴隷は、彼らの社会の中では選ばれし存在なのだ」

 ギュンターの言葉に、ミレニアはむっと押し黙る。

 イラグエナムの奴隷は、大きく二つに分けられる。単純な労働力としての労働奴隷と、人々を楽しませるための見世物奴隷。

 見世物にも二種類あり、”剣闘”と呼ばれる獣や奴隷同士で戦わされるものと、性的な満足度を満たすためのものに分類される。それぞれを剣闘奴隷、性奴隷と呼び分けていた。

「私は奴隷の是非や見世物の是非を問うているわけではないわ。――奴隷商人が皇族を軽んじるようになったのは、貴族が見世物を通じて奴隷商人に莫大な金を落とす仕組みが定着してしまったからでしょう。商人たちは、完全に貴族たちの足元を見て、蔑んでいるのよ。そうして、貴族よりも優位に立ったと、力があると錯覚した商人は、無礼にも皇族にすら厚顔無恥な振る舞いをする――その元凶となった、帝国貴族としての誇りを失った者たちが腹立たしいの!」

「そうは言うが――」

「奴隷商人なんて、国のことなんか全く顧みない、ただの金の亡者でしょう。戦争が終われば急にしゃしゃり出てきて、戦争捕虜だの戦争孤児だのに焼き印を押して奴隷にして、物言う道具を相手に、まるで王になったかのようにふるまうのよ。――だけど、やっていることはただの金集め。滑稽で、卑しい、愚かな存在だわ」

 これ以上なく顔を顰めて吐き捨てる娘に、ギュンターは苦笑する。

「……私は今、ほっとしているぞ、ミレニア」

「え?」

「お前は十とは思えぬほどに敏く、賢いが――それでもやはり、幼子だな」

「なんですって……?」

 ひくり、とミレニアの美しい眉が不快気にひそめられる。

 ギュンターはふっと吐息で笑みを漏らし、娘の頭を撫でた。

「良いか、ミレニア。お前は正しい」

「……えぇ、そうよ。私は正しいわ」

「だが――正しいことを主張することが、必ずしも正義とは限らん」

「――――――――……」

 翡翠の瞳が怪訝そうに父を見上げる。少女の形の良い眉は、微かに顰められていた。

 控えめに不服の意を示す愛娘にギュンターは苦笑する。

「綺麗事だけでは、国は治められん。それをよく覚えておくことだ」

「…………よく……わからないわ」

 正しいことを正しいと言い、間違ったことを悪と断ずることの、何が問題だと言うのか。

 将来は女帝に、という大きな野心を小さな胸に秘める少女には、どうにも理解が出来ない。

 だが、不満そうに見上げる勝気な翡翠の瞳を受け止めた目の前の初老の男は、余裕の笑みを浮かべるばかりで、明確な答えを教えてはくれなかった。

「良い。まだお前は幼く――何より、女だ。現行法では、国を治める君主になることはない。故に、忘れても構わんが――将来、夫となる者を前にしたら、思い出せ」

「…………」

「今のままでは、お前を愛する男はおらんぞ。どこに、正論ばかりを振りかざす、皇帝を凌駕するほどの女傑を可愛がる男がいる」

 くっくっと笑って言われて、真面目な話を茶化されたと知り、ミレニアはわかりやすく頬を膨らませた。

 可愛い娘の膨れっ面すら愛しそうに眺めて、膨らんだ頬を優しく撫でてから、ギュンターは仕方なさそうに苦笑しながら口を開いた。ここで「己で考えろ」と突き放さないのが、他の息子たちとの差だろう。溺愛する愛娘には、どうしても甘くなってしまうのを堪え切れない。

「まだ目的地まで、少しある。久しぶりに、国政について議論を重ねようではないか」

 不服そうにしていたミレニアは、ぱぁっと瞳を輝かせ、偉大な父の顔を仰いだ。

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