紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ

神崎右京

序章

第1話 プロローグ

 ヒューヒューと掠れたような音が喉から絶え間なく聞こえ、際限なく息が上がっていく。鉛のように重く感じられる手足を無理やり動かして、深い森の中を必死に駆けた。

 ――守らねばならぬ、人がいる。

 今すぐ四肢を投げ出して地面へと倒れ伏してしまいたいのを堪え、ただ脳裏に描く人の無事だけを祈った。

 神がこの世にいるとは思わない。

 だが、それでも、何かに、誰かに縋りたい気持ちは抑えられなかった。


 どうか、どうか、どうか。


 己の耳に響く、耳障りな吐息の音。心臓は暴れ狂い、痺れた足は感覚がないまま、森の獣道を必死にたどる。

 両手に握った愛剣を、取り落とさぬようにもう一度握り締める。今、縋れるのはこの相棒だけだ。おびただしい血を吸った双剣だけが、彼女を守るための唯一の味方なのだから。

「っ…………お嬢様……!」

 荒々しい息の合間に囁くように呼ぶ。身体に付いた無数の傷が、断続的な痛みを伴い、足を止めろと脳裏に囁くが、彼女の無事を確かめぬままに足を止めることは許されない。

 名前を呼ぶことも許されぬ存在。

 本来であれば、隣に立つことすら許されぬ至上の存在。

「無事でいてくれ……っ……!」


 初めて彼女に出逢ったとき――世界に光が満ちたように思われた。

 生きる意味を、教えてくれた。命の使い方を、教えてくれた。


 この命は――彼女のために、使われるのだ。

 彼女の盾となり、彼女を守って、散らすのだ。


 それが叶うその日まで、自分はこの双剣を手に戦おう。幾多の敵を屠り、全ての障害を取り除こう。

 それだけが、己の生存意義なのだから――


「――――――……」

 落ち合う場所と定めておいた箇所にやっとの思いでたどり着いたとき、目当ての少女の影はどこにもなかった。

 さぁっ――と全身から血の気が引いていく。

 ドクドクと、心臓が今までとは違う意味でうるさい鼓動を刻んだ。

「お嬢様――お嬢様っ……!」

 ガサガサと草をかき分け、彼女の痕跡を探す。

 こんな終わりは、想定していない。――想定していない。

 必死に、目を皿にして薄暗い森を捜索し、やっと一つの手がかりを見つけた。

「これは――」

 彼女が、肌身離さず持っていた、紅玉ルビーの首飾り。

 母の形見だと言って、真紅の大きな輝きを放つ宝石を、大切そうに撫でていた。

『ほら。――お前の瞳の色と同じでしょう?』

 そう言って、彼女が美しく笑んだ日を、今でも昨日のように覚えている。

 これを、彼女が、自分から手放すはずがない。

「っ――お嬢様っ……!」

 当初落ち合う予定だった場所からだいぶ離れた位置に落ちていたそれを拾い上げ、方角にあたりをつけて駆け出す。

 ――帝都だ。

 この方角にあるのは、帝都だ。

 彼女を攫った敵を正しく認識し、頭が沸騰する。


 許さない。

 許さない。

 許さない。


『命令よ。お前は、一生、ずっと、私の傍で、私をずっと守りなさい』

 五年前――初めて出逢ったその日に、少女とは思えぬ威風堂々とした風格で、彼女はそう命令した。

『今日から、お前は私の物よ。勝手に傍を離れることは許さないわ』

 まだ幼いながらも、将来は必ず女傑となるだろうと当時から囁かれたその態度に、不思議と反感など持たなかった。ただ、それが当然のことだと、頭を垂れた。

 耳の奥で蘇るのは、過去の想い出ばかりだった。

 いつだって、彼女のために死ぬ覚悟は出来ている。生まれながらにして人を従える才能を持つ彼女のために、この身を捧げようと生きてきた。

「くそっ……」

 どうして、傍を一瞬でも離れたのか。

 ――あの日、確かに約束したのに。

 己の判断ミスを悔いながら、必死に足を動かして――



 ざわ――ざわざわ――



 ざわめきが帝都中を支配していた。

 目的地に着き、その光景を目にした瞬間に、膝から崩れ落ちる。

「―――――――……」

 春の入り口の、冷たい風が吹きすさぶ。皇城の堅牢な城門に、それはあった。

 記憶の中の少女に、真紅の宝石のようだと例えられた瞳を、茫然と見開き、瞬きも忘れて一点を見つめる。


 ぽたり……

 ぽたり……


 滴る液体は、石畳を紅に染めてから、ゆっくりと静かに地面へと染みこんでいく。


「あぁ……ついに捕まったというのは本当だったのか」

「お可哀想に……神に弓引いた報いだろう」

「残念だ。男であればさぞ素晴らしい君主となれただろうに」

「とはいえ、”第二の傾国”と呼ばれた女だぞ。遅かれ早かれ、国を傾けていただろうさ」

「あぁ。何を言ったところで、奴隷を買って侍らすような女だからな。神の教えは受け入れがたかったのだろう」

「神はやはり、国を腐敗させた皇族を一人たりとも許しはしないのだろう。恐ろしいことだ。――例えそれが、年端もいかぬ少女でも」


 耳に届く群衆の声が遠い。

 耳鳴りがして、頭痛が止まない。

 瞬きも忘れた視線のその先にあるのは――


 ――首から上だけになった、探し人――


「ぁぁあああああああぁあああああああああああああああああ――!」

 気が付けば、喉から絶叫が迸っていた。

 感情の爆発に任せて叫ぶと、制御を失った魔力が荒れ狂い、一瞬で周囲が業火へと包まれる。


「きゃぁああああああ!!!」

「なんだ!!!?何が起きた!!!?」

「助けて!!助けて!!!」


 帝都のど真ん中で何の前触れもなく発生した灼熱の炎に、慌てて逃げ惑う民衆の気配など、即座に意識から切り離される。騒ぎを聞きつけ、駆けつけてきた兵士たちすら、地獄の業火と見紛うばかりの熱量に息を飲んでたたらを踏んだ。

 

 また、だ。

 また、助けられなかった。


「っ――――"姫"――!」


 紅蓮に染められていく景色の中で喉を割ったのは、呼び慣れた方の呼び名だった。


 ――――もう、何をしたらいいかわからない。

 彼女を救うために、何をしたらよいのか、わからない。

 何をしても、誰を頼っても――こうして固く瞳を閉じて首を晒す彼女が、昔のように笑いかけてくれる未来が描けない。


 あぁ――だけど、それでも。


 それでも、彼女がいないこの世界で、独り生きていくことだけは出来ないから――


 ――帝都を火の海へと沈め、阿鼻叫喚の地獄絵図の中、唯一、自分を救ってくれる心当たりへと駆け出す。


 それは修羅の道。

 足を進めるごとに血を吐く苦しみの道。


 それでも、足を止められない。

 たとえ何度苦しもうと――何を引き換えにしようとも。


 神に縋ることなど、出来なくても。


 ――彼女を失うことだけは、どうしても耐えることが出来ないのだから。

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