2-2-7 新たな獣の痕跡

 慣れた足取りで公民館によく似た施設へ――暮星協会の中へ足を踏み入れる。

 いつもは夜に来るため、ほとんど人の気配を感じないが、今日は夕暮れ時という時間だからだろうか。普段は目にしない人や公民館として利用しにきている人の姿を多く見かけた。

 表向きはそういう施設として開放されているのだから当然だが、一般の人も入っているのを見ると普通の施設にしか見えない。


 ここを公民館のように利用している人の何人が、ここが世界の裏側に潜む存在と戦う者たちのための施設だと知っているのだろう――きっと一人もいない。

 暮星協会がどのような施設なのか、正しく知っているのは狩人と彼ら彼女らをサポートしてくれている者たちだけだ。

 ちらり。受付近くに用意されたソファーに座っている人々や掲示板に掲載された地域のお知らせを眺めている人々を横目に、璃羽はぼんやりと考える。

 陽の光が当たらない夜の世界を――世界の裏側を知らない人たち。

 この人たちが、狩人となった璃羽が守らなければならない人たちだ。


「……」

「……璃羽? どうした?」


 さまざまな人で賑わう玄関ホールを見つめたまま、きゅ、と唇を引き結ぶ。

 ほんのかすかな気配の変化だったが、すぐ隣にいる燎良は敏感に璃羽の変化を感じ取り、ちらりと目を向けた。

 その声ではっと我に返り、璃羽はふるふると首を横に振った。


「大丈夫です、大したことではないので……! その……」


 きょろきょろと周囲へ視線を向けてから、燎良との間に空いていたわずかな距離を詰める。

 そして、彼にしか聞こえないほどの声量でそっと胸の中にある言葉を囁いた。


「……この人たちが、私と先輩が守る人たちなんだなって、改めて感じただけなので」


 どこか不思議そうな様子の燎良だったが、璃羽の言葉を聞いた瞬間、納得したようにわずかに頷いた。

 その後、彼も玄関ホールで思い思いの時を過ごしている一般の利用客たちを眺めて――もう一度璃羽へちらりと目を向ける。

 そして、璃羽と並んで協会の奥へ進むと浅く息を吐いてから口を開いた。


「なるほどな。それで一般の人たちを見て、何か思うような顔をしてたのか。……納得した」

「……燎良先輩も、狩人じゃない人たちの姿を見たとき何か思ったりしました?」


 かつり、こつり。一歩進むごとに玄関ホールの賑わいは遠ざかり、かわりに静寂が広がる。

 暮星協会の奥には人の姿がほとんどなく、玄関ホールの賑わいが嘘だったかのようだ。

 慣れない頃はこの静寂に少しの不気味さも感じていたが、慣れきった今は少しの落ち着きも感じる。

 しんと静かな廊下に、足音の他に燎良の声が混ざる。


「……やっぱり、少しは思うものがあったな。この人たちは業獣に襲われても抵抗ができないんだなとか、これからこの人たちを守る立場になるんだなとか」


 正直に答えると、今の璃羽と少し似たことを思った。

 そう言葉を付け加え、燎良は一度唇を閉ざした。

 ああ、過去の燎良も過去の自分と似たようなことを感じたんだ――そう思うと、なんだか少しだけくすぐったいような気持ちが胸の奥に生まれた。


「……過去の先輩と、同じようなことを考えてるんだって思うと、なんだかちょっと不思議な気分ですね」

「……そうか? 多分、ほとんどの狩人が一度は思うことなんじゃないか?」

「そうかもしれませんけど」


 ――先輩は、私の憧れなので。

 その一言を本人の前で口にするのはなんだか気恥ずかしく、璃羽は言葉を止めた。

 中途半端なところで黙り込んだ璃羽に対し、燎良は少々不思議そうな視線を送っていたが、それ以上は追求することなく一言だけ「そうか」と返して終わった。

 会話が途切れ、再度静寂が場を支配する。

 今度は途中で会話が終わったのもあり、ほんの少しだけ居心地の悪い静寂だったが、廊下を歩くうちに現れた人物によって破られた。


「おや。燎良に璃羽。君たちの姿をこの時間で見かけるのはなんだか新鮮だな」


 廊下の前方から聞こえた声に反応し、璃羽と燎良はほぼ同時に声が聞こえたほうへ視線を向けた。

 第一会議室と記されたドアプレートがかかった部屋の前に、一人の女性が立っている。

 すらりと伸びた背。

 首の後ろで一つにまとめられた長い黒髪。

 眼鏡のレンズの奥からこちらを見つめる琥珀色の目。

 そして、スレンダーな身体を包んでいるシンプルなワイシャツにスラックス――エプロンと三角巾こそ身につけていないが、彼女の姿は見覚えがありすぎるほどに見慣れている。


 苺原朱鳥。狩人たちが狩ってきた業獣の肉を料理に変えてくれる、狩人たちにとっていなくてはならない重要な人物だ。

 暮星協会に所属している狩人の全員が彼女に胃袋を掴まれているといっても過言ではないだろう。少なくとも璃羽は胃袋を掴まれている自信がある。

 ひらひらと片手を振りながら声をかけてきた彼女へ、燎良がひらりと一度だけ手を振り返す。


「苺原さんこそ。キッチン以外の場所で姿を見かけるのはなんか久しぶりだな」

「はは、そうかもしれないな。あたしも驚いてるんだ、普段は会議に呼ばれることなんかめったにないからな」


 からからと笑ってそう答えてから、朱鳥が璃羽へ目を向ける。


「璃羽も元気そうだな。あたしが燎良に持たせてる料理はきちんと食べてるか?」

「はい! いつも美味しくいただいてます。ありがとうございます、苺原さん」

「いいんだよ。しっかり食べて身体を作りな。一人前の狩人になるには、身体作りが重要だからね」


 声をかけてきた朱鳥へ、璃羽も笑顔で返事をする。

 朱鳥も微笑ましいものを見る目で璃羽を見つめたあと、手の動きをぴたりと止めて腰に当てた。


「……そういえば、苺原さんも呼ばれたんですか? さっき、会議に呼ばれることなんかめったにないっておっしゃってましたし……」


 話が一段落したところで、ふと、朱鳥が先ほど口にしていた言葉が璃羽の脳裏によみがえった。

 彼女が立っている場所は会議室の前だ。

 いつもならキッチンにいるはずの彼女がここにいる、そして先ほどの燎良とのやり取り――もしや、彼女も今回の件で呼ばれたのだろうか。

 そう予想し、問いかけると、朱鳥が小さく頷いて返事をした。


「ああ。狩人じゃなくて料理人のあたしにも情報を与えるとなると、かなり変わった業獣なのかもしれない。……二人とも、狩りに出るときは十分気をつけな」


 そういった朱鳥の声は、とても真剣なものだ。

 彼女の声に二人揃って頷き、返事とする。

 朱鳥も小さく頷き返してから、ふっと口元を緩めてかすかに笑ってみせた。


「……ま、本当にその件で呼ばれたのかは、会議室に入ってから明らかになるさ。二人とも、他の連中が来る前に入りな」


 きぃ――。

 かすかに軋んだ音をたて、朱鳥の手によって扉が開かれる。

 わずかな緊張の色をのせながら、璃羽は燎良とともに会議室の中へ足を踏み入れた。

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