20:あなたのことを待っていた
もう一ヶ月も、薙くんに血を飲んでもらっていない。
わたしは七月中に課題を終わらせ、あちこちのボランティアに参加したり、クラスメイトのために勉強会を開いたり、部活の助っ人に駆り出されたりしている。みんなから必要とされて、嬉しいはずなのに――わたしの胸には、ぽっかり大きな穴が空いていた。薙くんじゃないと、埋められない穴だ。
学校があるときは昼休みに二人きりになれたけれど、夏休みになるとそうはいかない。バイトはほぼ毎日シフトに入っていたけれど、終わる時間もそんなに遅くはならないから、薙くんが迎えに来てくれることもなくなった。
ちょくちょくメッセージのやりとりはしているし、たまに電話をしたりもするけれど、他愛もない会話を数分交わすだけだ。薙くんはいつまで経っても、わたしの血を飲みたいとは言ってくれない。
―― そろそろ、わたしの血を飲みに来ませんか?
――ううん。やめとくよ。
彼に断られたとき、わたしはかなりショックを受けた。もう薙くんは、わたしのことが必要なくなったのかもしれない。わたし以外に、血を飲ませてくれるような女の子を見つけたのかもしれない。
そんなことばかりを考えて気が塞いで、かさぶたになった左手中指の傷跡ばかりを眺めていた。なんだか上手に呼吸ができなくて、胸が苦しくなる。
彼がわたしから離れていくことが、怖くて怖くて仕方がない。わたしが何より恐ろしいのは、誰かに「もういらない」と言われることだ。
十六時までのバイトを終えて裏口を開けると、滝のような雨が降っていた。
晴れ予報だったから、傘は持ってきていない。途方に暮れているわたしに気付いた社員さんが「あちゃー、すごい雨だね」と肩を竦める。
「置き傘あるから、持っていきなよ。次来たときに返してくれたらいいから」
「すみません、ありがとうございます……」
透明なビニール傘を受け取って、わたしはぺこりと頭を下げる。外に出たものの、傘一本ではどうにもならないぐらいの大雨だった。
お天気アプリで雨雲レーダーを確認すると、もう十五分もすれば少しはマシになりそうだ。仕方ない、ここでしばらく待つことにしよう。
アスファルトに叩きつけられた雨が弾けて飛沫を上げる。真夏の熱気はやや冷まされて、ひやりとした空気が頰を撫でた。
自然と、眉間に皺が寄っていることに気付く。古い記憶が呼び覚まされて、じくじくと心の古傷が痛む。その傷はいつまで経ってもかさぶたにはならず、未だに真っ赤な血が流れ続けている。
わたしは雨が嫌いだ。母がいなくなったのも、こんな雨の日だった。
十年前のあの日の記憶は、窓を叩くうるさい雨の音から始まる。
わたしには父親がおらず、母は女手ひとつで幼いわたしのことを育てていた。決して裕福ではなかったけれど、暴力を振るわれるようなこともなかったし、記憶の中の母はいつも優しく微笑んでいた。
それでも母は、きっとずっと、わたしのために我慢していた。その我慢が限界を迎えたきっかけを、わたしはもう覚えていない。たぶんわたしが言うことを聞かなかったとか、反抗的な態度を取ったとか、そんな理由だと思う。
巨大なボストンバックに荷物を詰め込む母の姿を、わたしはなすすべもなくじっと見つめていた。子ども心に、母の様子が尋常ではないことには気付いていた。あの日も今日と同じような嵐の日で、ピカッと稲光が閃くたび、鬼気迫る母の表情が闇に浮かび上がった。
母はわたしの方を一瞥もせず、六畳一間のアパートから出て行こうとした。扉に手をかけた母の腕に、わたしは必死でしがみついた。
――待って。お母さん、行かないで。
母は何も言わず、わたしの手を乱暴に振り払った。驚くわたしに、母は低く暗い声で言い放った。
――陽毬、いい子にしててね。
こちらを振り向きもしなかったので、そのときの母がどんな表情をしていたのかは、今もわからない。
目の前で扉がバタンと閉まったそのときも、わたしは何が起こったのか理解できずにいた。背中を追いかけることすらできなかった。
母が出て行った後、わたしは雨の音を聞きながら、たった一人で母の帰りを待っていた。泣くこともせず、じっと黙って、心の中で唱え続けていた。
ごめんなさいごめんなさい。もうワガママなんて言わないから。いい子にするから、帰ってきて。
それでも、もう扉が開くことはなかった。真夏のクーラーのない部屋の中で、ほぼ丸三日飲まず食わずだったわたしは、衰弱して倒れていた。休みが終わっても登校してこないわたしを心配した学校の先生が様子を見に来てくれて、事態が発覚したらしい。
病院で目を覚ましたとき、わたしはようやく理解した。ああ、お母さんはわたしのことがいらなくなったんだ。わたしがいい子じゃなかったから、わたしは捨てられたのだ、と。
幼いわたしにはよくわからなかったけれど、ひとりぼっちになったわたしの処遇については、結構揉めたみたいだ。
結局、母とは疎遠になっていた母の兄――わたしにとっては伯父だ――が、わたしを引き取ることになった。伯父には既に家族があったし、かなり難色を示されたらしいことは、周りの反応からもわかった。
伯父の家族はわたしを受け入れてくれたけれど、決して歓迎はされていなかったと思う。既に完成された家族の中で、わたしの存在は完全に異物だった。わたしはもう二度と捨てられることがないよう、必死で「いい子」の仮面をかぶり続けていた。周囲に対して敬語で話すようになったのも、この頃からだ。
――ありがとう。陽毬ちゃんがいてくれて助かるわ。
多忙な伯母の手伝いを申し出ると、伯母はいつもそう言ってくれた。もしかすると社交辞令だったのかもしれないけれど、その言葉にわたしは心の底から安心できた。ここに居てもいいんだ、と感じることができた。
それからわたしは、「誰かに必要とされること」にえもいわれぬ快感を抱くようになった。中学を卒業して、伯父の家を出た後もそれは変わらず、むしろ悪化しているような気さえする。誰かに必要とされることでしか、わたしは生きている実感を得られないのだ。
わたしの血を吸う薙くんを見たとき、「わたしはこの人のことをずっと探していたんだ」と思った。わたしのことを心の底から欲しがってくれる人のためなら、わたしはこの身を全部捧げたって構わない。
――だから、お願いだから、ここに居てもいいよって言って。いらないなんて、言わないで。
雨で薄く煙る空気の向こうに、黒い人影が見えた。
幻かもしれないと思ったけれど、目を凝らして見つめると、だんだんこちらに近づいてくる。ばしゃばしゃと水溜りを蹴る音が聞こえる。
わたしの目の前で立ち止まったのは、黒いマントを羽織った吸血鬼――の、ように見えた。
「薙くん」
そこにいたのは、黒いレインコートを着た薙くんだった。
どこか余裕のない表情で、苦しそうに眉を寄せて、飢えた獣のようなぎらぎらとした目つきで、わたしのことを見つめている。その瞳は燃えるように赤く染まっていて、彼の興奮を嫌というほど伝えてきた。
「一番ヶ瀬さんの血、飲みたい」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸は歓喜に震えた。
わたしを心の底から欲しがってくれて、必要としてくれる人が、ここにいる。喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、大きな声で泣き叫びたいような気持ちになる。
気付けばわたしは、薙くんの胸に勢いよく飛び込んでいた。Tシャツに冷たい雨がじわじわと染み込んできたけれど、そんなことどうでもいい。「濡れるよ」という困ったような声が聞こえてきたけれど、離れたくない。
薙くんの腕がわたしの背中に回される。痛いほどに強く抱きしめる腕が、耳元にかかる荒い吐息が、こちらを見据える真っ赤な瞳が、わたしのことを欲しいと云っている。それがどうしようもなく嬉しくて幸せで、わたしは彼に必死でしがみつく。
本当は、薙くんがわたしを必要としてるんじゃない。わたしが彼のことを必要としているんだ。だってわたし、この人がいないと上手に呼吸もできない。
わたしは顔を上げると、彼に向かって微笑みかけた。
「……わたし、ずっと薙くんのこと待ってたんです」
十年前のあの日から、ずっと。
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