8:食べられるのも悪くない
「一番ヶ瀬さん、ちょっと」
授業が終わり、美術室から教室に戻ろうとしたところで、背後から呼び止められた。ちなみに薙くんは、チャイムが鳴るなり早々に美術室を出ている。
振り向くと、クラスメイトの
彼女のただならぬ雰囲気を察したのか、友人たちは「陽毬、先に戻ってるねー!」とわたしを置いて美術室を出て行った。残されたのは、松永さんとわたしの二人だけだ。
「話があるんだけど、いいかしら」
松永さんは、二年生になって初めて同じクラスになった女の子だ。つやつやとした黒髪のロングヘアに、キリッとした猫目が印象的な美人だけど、ややとっつきにくい雰囲気がある。気が強くてズバズバものを言うタイプなので、周囲からは少し遠巻きにされていた。こちらから話しかけても、素っ気ない対応をされることが多い。そんな彼女がわざわざ声をかけてくるなんて、一体どうしたんだろう。
「なんでしょうか?」
何かお困りごとがあるならば、できる限り力になりたい。そう思って問いかけると、松永さんは言った。
「一番ヶ瀬さん、最近山田くんと仲良いわよね」
「はい!」
迷わず頷いたわたしに、松永さんは眉を顰める。長い髪をばさりとかきあげて、続けた。
「気をつけた方がいいんじゃない?」
「どうしてですか?」
「……だって山田くん、吸血鬼でしょう」
「それが、なにか問題ですか?」
当たり前のことをやけに深刻なトーンで言われたので、わたしは首を傾げてしまった。
山田薙くんが吸血鬼だということは、このクラスの誰もが知っている。いまさら驚くようなことじゃない。
キョトンとしているわたしの肩を、松永さんはがしりと掴んだ。
「吸血鬼よ、吸血鬼。人間の血を吸うのよ。危ないじゃない!」
「なにも……危ないことなんてないです」
想像以上の剣幕で詰め寄られて、わたしはややたじろいだ。
わたしは最近毎日のように薙くんに血を飲ませているけれど、最初に首に噛みつかれたあの日以外は、体調に異常をきたしたことはない。むしろ美味しい血を提供するために気を遣っているおかげで、前よりも健康なぐらいだ。
「毎年のように、吸血鬼が人間を襲う事件が起きてるでしょ? やっぱり吸血鬼なんて信用ならないわ」
「薙くんはそんなことしません」
「ねえ一番ヶ瀬さん。私、あなたのこと心配してるの。油断してたらいつか噛みつかれて、全部食べられちゃうかも……」
わたしの両肩を掴んだまま、聞き分けのない子を諭すような口調で松永さんは言う。
この人はきっと薙くんではなく、吸血鬼そのものを嫌悪しているのだろう。心配してくれるのはありがたいけれど、彼女はなにもわかっていない。
「大丈夫です。だって、わたし……」
言い返そうとしたところで、美術室の扉が音を立てて開いた。見ると、いつものように眠そうな顔をした薙くんが立っている。
「な、薙くん」
薙くんは何も言わずわたしたちの隣を素通りすると、机の上に置いてある筆箱を手に取って、そのまま美術室を出て行った。
ぴしゃんと扉が閉まると、わたしと松永さんのあいだに気まずい沈黙が流れた。松永さんは忌々しげに、薙くんが出て行った扉を睨みつけている。
「松永さん、もう教室に戻りましょう。授業始まっちゃいます」
わたしの言葉に、松永さんは無言で頷く。そのまま二人で並んで教室に戻った。彼女はまだ何か言いたげにしていたけれど、わたしは柔らかく微笑んでそれを受け流した。
真っ黒いカーテンに覆われた暗室は、相変わらず真昼でも夜のように暗い。
昼休みの薙くんはいつも以上に口数が少なく、わたしの方もロクに見ずに、もぐもぐとサンドイッチを食べていた。美術の時間はもう少し親しげだったのに、なんだか見えない壁を感じる。
心当たりならある。どう考えても、さっきの松永さんの発言が尾を引いているのだ。わたしは持ってきたお弁当をきれいに平らげた後、彼に向かって尋ねた。
「あの、薙くん。さっき、松永さんの話聞いてました?」
薙くんの肩がぴく、と揺れる。彼はわたしの質問には答えず、左手に持ったサンドイッチをじっと見つめたまま答えた。
「……一番ヶ瀬さん。やっぱ、おれに構うのやめなよ」
「薙くん、気にしないでください。松永さんの意見が極端なんですよ」
「松永みたいな考えを持ってる人、そんなに珍しくない。いくらみんなで仲良くしましょうって言われたって、人間が吸血鬼を怖がるのは自然なことだろ。ああいうこと言われるのには慣れてる」
薙くんは平然と言ったけれど、わたしの胸はずきんと痛んだ。いくら慣れてるからって、あんなことを言われて傷つかないはずがないのに。
吸血鬼が人間を襲う事件は、確かにある。それでも逆に、人間が吸血鬼に危害を加えるような事件だって、少なからず起こっているのだ。それを種族の差でひとくくりにして、薙くんを危険視する松永さんの考え方は、わたしにはやや乱暴に思えた。
「……わたし、薙くんのこと怖いだなんて思いません」
わたしの言葉を、薙くんは鼻で笑い飛ばした。もしかすると、きれいごとだよ、とでも言いたいのかもしれない。
それでもわたしのセリフは本心だった。薙くんのこと、全然怖くない。噛みついて血を吸われることよりも、もっと恐ろしいことをわたしは知っている。
「一番ヶ瀬さんの血飲むのも、もうやめる。迷惑かけたくないから」
いつのまにか、薙くんはサンドイッチを食べ終えていた。ごちそうさまです、とばかりに両手を合わせているけれど、わたしはそれを許さない。ごちそうさまにはまだ早い。
左手の絆創膏をぴりっと剥がして、そのまま彼の目の前に差し出した。
「薙くん、デザートどうぞ」
「……一番ヶ瀬さん、おれの話聞いてた?」
「聞いてました。でもわたしは納得してません。わたしが血をあげたくてあげてるんです。迷惑だなんて、思いません」
「……あのさあ」
「欲しくないんですか?」
まるで薙くんを挑発するかのように、ひらひらと指を振ってみる。毎日のように彼が噛みついている指先には、未だ赤い血が滲んでいる。ごくり、と彼の喉が僅かに動くのが見て取れた。
「……欲しいよ。欲しいけど……」
「じゃあ、飲んでください」
観念したように、薙くんがわたしの手を取った。「いただきます」の声とともに、指先を咥える。
ぴりっという僅かな痛みにももう慣れて、最近は快感さえ覚えるようになってきた。わたしの血を飲む彼の黒髪を撫でてあげるのが好き。なんだか黒猫みたいだけれど、彼はそっぽを向いたりしない。
次第に彼の瞳が赤くなっていくのを、わたしはうっとりしながら眺めていた。
「ふふ」
「……なに、笑ってんの」
名残惜しそうにわたしの指から口を離した彼が、不服そうに顔を上げる。わたしは彼の頬に右手で触れて、真っ赤になった瞳を覗き込んだ。
「……どうして松永さんは、怖いだなんて言うんでしょうか。こんなにきれいなのに」
わたしが言うと、薙くんはやや戸惑ったような表情を浮かべた。わたしはじっと彼を見つめながら、松永さんの言葉を思い出す。
――油断してたらいつか噛みつかれて、全部食べられちゃうかも……。
「ねえ薙くん、わたしね。ほんとはこのまま、あなたに食べられるのも悪くないと思ってます」
心の底から自分を欲しがってくれる人の血となり肉となれるのは、おそらくきっと幸せなことだ。
わたしの言葉に、薙くんは慌てたように「そんなことしないよ」と言った。いつか全部食べてくれたらいいのにな、と思いながら、わたしは彼の「ごちそうさま」を待っている。
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