5:天使は悪魔の顔で笑う

 普段は非常に寝起きが悪く、三十分近くベッドでウダウダしているおれが、アラームが鳴る十分前に目が覚めた。

 カーテンを開けて空模様を確認すると、どんよりと灰色の雲に覆われた良い天気だ。ここ夜宵市は比較的曇天の日が多い(つまり、吸血鬼にとっては住みやすい)地域なのだが、最近は晴れの日が続いていて参っていたのだ。

 日中はだいたい頭に靄がかかったようにボーッとしていることが多いけれど、今朝はやけにすっきりしており、気力・体力ともに満ち溢れている。

 いつもは朝食を牛乳だけで済ませるところを、トースターで食パンを焼いて、ジャムを塗って食べた。指についた真っ赤ないちごジャムをぺろりと舐めた瞬間、甘美な血の味を思い出してドキリとする。

 体調が良い理由はわかっている。一番ヶ瀬さんの血を飲んでいるせいだ。

 同居しているバアちゃんは、まだベッドの中だ。きっと朝まで遊び歩いていたのだろう。おれは誰にともなく「いってきます」と呟いてから、スニーカーを履いて家の外に出た。




 ざわざわと騒がしい教室に入るなり、一番ヶ瀬さんと目が合った。首の傷跡はすっかり消えたらしく、絆創膏はなくなっていた。

 にっこりとエクボを浮かべた彼女が、ひらひらと手を振ってくる。首の代わりに、中指に絆創膏が貼られていた。にこやかに手を振り返す勇気はなくて(そんなキャラでもない)、軽く会釈をする。

 一番ヶ瀬陽毬から血を貰うようになってから一週間が経つ。

 おれたちは毎日昼休みを共に過ごすようになり、おれはふとしたときに彼女の姿を目で追うことが多くなった。観察していて気がついたが、彼女は異常なまでに他人から頼み事をされていた。よくもまあここまで多種多様な面倒事を押し付けられるものだと、感心してしまうぐらいだ。


「陽毬ちゃん、ごめん! 私今日掃除当番なんだけど、どうしても抜けられないミーティングがあって……」

「お任せください! 代わりにやっておきますね」


「一番ヶ瀬、悪いけどこのプリント授業の前に配っておいてくれ」

「わかりました、先生」


「陽毬、週末空いてる!? 部活の助っ人お願いしたいんだけど、いいかな?」

「はい、わたしでよければ!」


 驚くべきことに一番ヶ瀬さんは、舞い込んできた頼み事のすべてを、嫌な顔ひとつせずに引き受けている。しかも他人が困っているときには、自分から進んで手を差し伸べていた。誰も見ていなくても、駐輪場の倒れた自転車を率先して直したりしている。まさに善良を具現化したような、天使と呼ぶに相応しい存在だ。

 教室での姿だけを見るならば、絵に描いたような品行方正である。しかしおれはこの数日で早くも、彼女がただの優等生ではないことに気付きつつあった。




 二人きりの暗室では、一番ヶ瀬陽毬は真面目なだけではない一面を見せる。

 そもそもクラスメイトに自らの血液を差し出すなんて、正気の沙汰ではない。鋭い牙で噛みつかれて、よく平気な顔をしていられるものだ。

 しかもおれに血を飲ませているときの彼女は、何故だかうっとりと恍惚にも似た表情を浮かべている。血を飲ませてもらっておいてなんだが、変わった女の子だと思う。もしかすると、頭のネジが何本か吹っ飛んでいるのかもしれない。


「美味しいですか? 薙くん」


 細い指を咥えて牙を立てるおれの髪を、一番ヶ瀬さんは右手で優しく撫でる。慈愛すら感じるその手つきが心地良く、口の中に広がる血液の甘さも相まって、なんともいえない多幸感に包まれる。

 握りしめた左手は小さくて柔らかくて、ちょっとひんやりしていた。おれとほとんど身長は変わらないはずなのに、「女の子」の手をしている。

 残さず全部飲み干してしまいたい欲に、理性がブレーキをかける。おれは名残惜しさを振り切って、指から唇を離した。


「……ごちそうさまでした」

「はあい」


 彼女の血を飲んだ後のこの微妙な空気は、未だにちょっと慣れない。さっきまで牙を立てていた相手に対して、どんな顔をしていいかわからないのだ。

 ドキドキしているおれをよそに、一番ヶ瀬さんはご機嫌な様子でニコニコ笑って、左手の中指に新しい絆創膏を巻いた。


「薙くんに血をあげるようになってから、食生活にも気をつけてるんです。鉄分もしっかり取ってますし、ニオイの強いものは避けたりして。効果出てますか?」

「べ、別にそこまでしなくてもいいのに……」

「だって、もっと美味しいって思ってもらいたいですから」


 ……彼女の健気さも、ここまでいくとちょっと不気味だ。もはやお人好しとか、そういうレベルではない。

 それにしても、昼休みに薄暗い場所で女の子の指に吸いついている絵面なんて、誰かに目撃されたらまずいだろう。鍵をかけているから大丈夫だとは思うが、この世に「絶対」はない。


「……こんなことしてるってバレたら、やばいよな……」


 ぽつりと呟いたおれに、一番ヶ瀬さんは「そうなんですか?」と目を丸くする。


「わたし、誰にも言いません」

「……うん。その方がいいと思う……一番ヶ瀬さんも変な目で見られそうだし」

「変な目?」

「……」


 どうやら一番ヶ瀬さんは、吸血鬼にとっての吸血行為がどういう意味を持つものなのか、今ひとつ理解していないようだ。

 吸血鬼にとっての吸血欲というのは、食欲なんかよりどちらかというと――性欲、に近いような気がする。

 飲んだら元気は出てくるけど、別に飲まなくても生きていける。ただ生活するだけなら人工血液だけで事足りるし、どうしても本物の血が飲みたいなら、血液ボトルだって売られている。別に、誰かれ構わず噛みつきたくなるわけじゃない。

 昔はともかく、現代の吸血鬼は特定のパートナー以外には噛みついたりしないはずだ。普通は夫婦とか恋人とか、そういう関係でないとまずしない。だから今は純血の吸血鬼なんてほぼいなくて、ほとんどが人間との混血なのだ。

 しかしそれを説明するのはなんだか気恥ずかしくて、おれは黙っていた。


「まあ、いいです。では、二人だけの秘密ということで」


 一番ヶ瀬さんは悪戯っぽく笑むと、おれに向かって小指を突き出してくる。

 おそるおそる小指を絡めると、「ゆーびきーりげーんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」と恐ろしいことを言い出した。ちなみにうちの地域では「嘘ついたらニンニク食わす」だった。針千本の方がよほど殺意が高い。想像してゾッとした。


「……なんだかちょっと、悪いことしてる気分になりますね」


 いったい何が楽しいのか、彼女はくすくすと肩を揺らして笑う。こういうちょっと小悪魔めいた顔も、教室では見せない表情である。やっぱり彼女はただの優等生ではない。

 なんだかドギマギしてきて、絡まったままの小指を慌てて振り解いた。


「あっ。わたし、今日は先に教室戻ります。先生に頼まれごとされてるので。薙くんは目の色が落ち着くまで、ゆっくりしててください」


 スマホで時刻を確認した一番ヶ瀬さんが言った。どうやら、また雑用を押し付けられているらしい。おれは半ば呆れつつ、口を開いた。


「おれも手伝おうか」

「いえ、大丈夫ですよ。わたしの仕事ですから」

「……一番ヶ瀬さん。嫌なら嫌って言った方がいいんじゃないの?」

「え?」

「親切なのはいいけど、なんでもかんでも引き受けてたらいつかパンクするよ」


 おれの言葉に、一番ヶ瀬さんは驚いたようにぱちぱち瞬きをした。それからふっと頰を緩めて「薙くん、優しいですね」と微笑む。

 おかしなことを言うものだ。別に当たり前のことを言っただけで、優しさを発揮したつもりはない。


「優しいのは一番ヶ瀬さんの方だろ」

「……わたし。優しくなんか、ないですよ」

「……え?」


 首を傾げたおれに、一番ヶ瀬さんはにこやかな笑みを湛えたまま続ける。


「わたし、誰かから必要とされるのが好きなんです。なんだか、生きてるって感じがしませんか?」


 一番ヶ瀬さんはそう言って、絆創膏を巻いた中指にそっと触れた。さっきまでおれの髪を撫でていた右手で、おれが噛みついた痕を愛おしむように撫でる。


「……だから。薙くんに血をあげてるのも、優しさなんかじゃないんです」


 彼女から発せられる声は、ぞっとするほど暗い響きを孕んでいた。心臓をひやりと冷たい手で撫でられたような気持ちがする。

 おれが何も言えずにいると、彼女は「そんなに怯えた顔しないでください」と肩を竦める。


「薙くんは美味しい血が飲めて嬉しい。わたしは薙くんに必要とされて気持ち良くなれる。ねっ、ウィンウィンだと思いませんか?」


 そう言って微笑む一番ヶ瀬さんは、なんだか得体が知れなくてちょっと怖い。もしかするとおれは、どんどん後戻りの出来ない道を突き進んでいるのかもしれない。そんなことを考えて、薄ら寒くなった。


「わたし、薙くんにもっと欲しがってもらえるように頑張ります」


 おれの耳元に唇を寄せて囁く一番ヶ瀬さんは紛れもなく天使だけれど、今は甘美な地獄へと手招きをする悪魔の顔をしている。

 彼女の瞳に映る自分の目が興奮に赤く染まっていることに気がついて、もはや引き返せないことを自覚した。

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