第14話☆私のこと☆

お釈迦様は、春に生まれたんですよ


爽やかな風を受けて、母が私にささやいたのは、今から55年前の、城址公園の芝生の上でした。


何かにつけて、「お釈迦様は」というので、

家は、お寺の檀家だとばかり思っていました。

違うのです。

駆け落ち同然に、父と結ばれた母には

檀家も氏子もなかったのだそうです。


高校生の時に、人生のこれからのことを話しましょうと、お茶に呼ばれて、母とじっくり話しました。女の子は、どんな背景で嫁に行くかわからないから、最低限、忘れてほしくないことを話すから、と言われてじっくり聞かされました。


駆け落ち同然に、という事で、つれ戻されないために、母は、人混みを避けていたのです。

親戚と出会ってしまった時のために。

母は、微笑んで、日本女子は、生まれたときに懐刀を持たされるのよ、と話し出しました。

男子は、2本の刀の内、子供のサイズの1本を袴着で持たされ、元服で、大人のサイズの刀を持つので、二本差しという形になるそうです。

女子は、文字と表現を主な武器に暮らすので、刀は、合い口の短刀なのだそうです。

太陽系の惑星を、表現の数字で単純化すると、合い口の模様が浮かんでいました。


戦後、銃刀法違反という法律ができて

男の人は、刀を奪われました。

でも、女子が持つ短刀は、法規制を逃れました。


母は、その事を、星座の名前と照らし合わせて、教えてくれました。


「文字が読めると言うことはね」


時を読む為の階段の一段一段なのだと言いました。


少しずるい顔で

「ペンは剣よりも、強し」

と言いました。

きっといつか。自分で意味をわかってね、と。


母は、それからまもなく入院して、亡くなりました。死はあっという間なのです。


見舞いに行って、治療について話しているときでした。

相づちの反応が、薄いと思って、母を見つめると、ふっと眠るように目を閉じたところでした。直ぐに、モニターが赤くなり、アラームが鳴りました。私も慌てて、ナースコールを押しました。


駆けつけたナースたちが、私を振り払うように母にかけより、布団をはぎました。

「大丈夫ですか!真美子さん!!声がきこえますかぁ?」わたしは、血の気の引いた顔で、そこに立っていたに違いないでしょう。

涙を流したと言う記憶もありません。


やがて、モニターから赤い光が止まり、

母は、この世にもどってきました。


わたしはこの時も、泣いた記憶がありません。モニター越しに、母の呼吸が確認できて、とても、家に帰る気分には、なれませんでした。


ナースたちも、私を気遣って、ゲストベッドを用意してくれました。

久しぶりに、母のとなりに寝ました。


翌朝、母は、力なく目を覚ましました。

ため息をつくように、私を呼んでくれました。わたしは、何故か、この時、涙が止まらなかったのです。

母は、昔のように私の髪をなぜて、大丈夫よ、と言いました。


でも。

きっと、母も私も、これが命の最期の、絞り出すような温みだと、気づいていたと思います。


「お願いがあるのよ」

母は、ゆっくりと息を継ぎました。

「日本語で、考えてちょうだいね」

そう言って、表情筋の一つ一つに命令を告ぐように、ゆっくりとゆっくりと笑顔を浮かべました。


そして、また、眠りに付きました。


午後、14時25分

モニターが再び、真っ赤になり、ピーピーとけたたましく鳴り響きました。

バタバタと、皆が駆けつける音がして、今度は、わたしは、身を引いて、窓際に立ちました。

モニターが、再び動き出すことはなく、15時20分、母は、旅立ちました。


母はきっと、治療の話など、ムダになると

知っていたのかもしれません。


わたしは、母を失い、それより少し前に父を亡くしていたので、この瞬間、天涯孤独になりました。

まだ、38才でした。


葬儀社の車が、遺体を引き取りに来てくれました。家まで運んで、通夜の準備をしてくれます。葬式まで終わらせてくれるのです。


入院中の母が、頼んでいたものでした。


何もかも、準備のよい人で、駆け落ちなどしてくれなければ、私が急に一人になることもなかったと、恨み節も出てきたのは、祭壇に、遺影がかかった時でした。


…続


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