第9話★新しい話★
昔の話になりますが
昭和の終わりに、和号が変わることを
聞かされても、年寄りの多くが、自分が生まれた和号を数えました。
平成になっても、昭和90年と数えていたのです。平成元年生まれは、令和を平成で数えることなどないと笑うでしょう。
彼らは、働き盛りで、それどころではない年頃に、改元を迎えたからです。
令和の時代の象徴は、その2年目に、紙幣の刷新が法として発表されたことから始まります。一万円や五千円、千円札が、顔ぶれを変えるのです。令和6年から変わるのですが、私は、若者に、こんなことを言われました。
「でも、俺らは、紙なんて使いませんよ。ほぼおサイフケータイなんで。」
電子データを金銭といえる時代に生まれた命にとって、お札は、ライブや映画のチケットと変わらない認知かもしれません。
紙幣を「お札(おさつ)」と呼ぶには、心情的文化解釈が欠かせません。
それは、昔、身を守るものとして、呪文を書いたお札(おふだ)に由来しているからです。
政府が、生活必需品との交換を保証してくれた「おふだ」が紙幣の中身なので、紙幣を「お札」と表記することができます。
これはなんだ、こんなもので、苦労して拵えた反物や作物と取り替えなんて、出きるものか!
と憤慨する農民や職人に、彼らが慕う庄屋や宮司が、分かりやすい言葉で、ただしい意味で伝える事を苦心した結果が、「お札」という表現に込められています。
言葉は、形式では働けない事を、とても象徴的に知ることのできる話だと思います。
分かって欲しいという想いが込められているということです。紙幣にとって、お札とは愛称なのです。
幼い子供に、これはなんで?これはどういう意味?と聞かれたときに、「ふるさとの想い」をきちんと継いでいける大人も多いわけではありません。
雑学というぐらいだから、雑多で、雑に扱っていいのだから、どうでもいい。
そのように判断する大人は多いものですが。
日本語が持っている、表現の自由を考えることは、決して雑ではないと思います。
他国の国民が、その国民にとっての自国の事を考えることを「雑」と言いたい立場は、侵略し、征服したい立場の国の人ではないでしょうか。
老いの私は、老いて死ぬからこそ
次の人に、本当のふるさとの姿の設計図を
渡して
それが、今、見て明らかではないことを
どうするのかを
託すしかないわけです。
…続
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