化け物とグレイアッシュの食卓、

雨玉すもも

第1話

 男を綺麗だと見惚れたのは十八年生きてきて初めての事だった。

黒い髪は艶っぽく、涼し気な切れ長の目は一度見てしまったら逸らせなかった。

クリームソーダのような瞳は外国からか、やや光るみどりの色はまだ俺を捉えて離さない。


「──食べないのか?」


 ゆっくりとした声が耳に響いた。


「金は気にするな」


 動かなかった俺はやっとで目を逸らした。

腹はいている。

だが財布は先にいていた。


 ここは喫茶店。

気づけば俺はここに居た。

覚えているのは蔦の葉だらけの建物、無い看板。

ぎいとうなった木の扉、知らせの乾いたベルの音。

すぐに入ってきた緩いレコードの音楽と、腹の虫を泣かす匂い。

レコードプレーヤーのホーンの少し剥がれた金の色と、焦げ茶色のテーブル達。

時代を感じる木の丸いテーブル席の一つに座った感触に、瞬間襲ってきた眠気。


 そして店の人も客も、誰も居なかったはずだと思い出した。


 そして今、テーブルの対面に男が座っている。

この店の主人だろう彼は頬杖を付き、俺を観察する。

俺は足元に置いたリュックを爪先で確認し、パーカーのポケットから手を出した。


「君は三時間ほど眠っていたよ、ジョン」


「……ジョン?」


 俺の名前はジョンではない。


「ふっ、乾いた声だな」


 男は良い声をしていた。

俺はというと眠りから覚めたばかりのせいか、からりとした喉のままの声だった。

それよりも気になる点は幾つかある。

まずは男が同席している事。

緩い煙の煙草の欠片が二本、灰皿に倒れている事。

それから、珈琲と焼きプリンみたいなものがテーブルにある事。

淹れたばかりか、湯気がのぼる珈琲がある事。


 腹が泣いた。

もう二日、まともなものは食べていない。


「……帰ります──」


「──どこにだ?」


 そう制止され、立ち上がりかけた俺は止まった。

かちりとライターで新しく煙草に火が点けられた音がした。

吹かれる苦い煙が鼻をかすめる。


 俺に家はない。

どこにでもあるような、つまらない事情は俺だけしか知らない。

なのに何故この男は言い当てたか。


「座れ、ジョン」


「……ジョンジョンって犬みてぇに──」


「──猫が良かったか?」


 みゃおと遊ぶ男に苛立った。

変な奴に構う気力もなく足も動かず俺は腰を下ろした。


「……なんなんだよ、あんた」


 来た時と同じ、客は俺以外誰もいない。

いや、俺も客ではないか。


「この店をやってるあるじ


 イントネーションが主のそれではない──、と聞こえた。


「見たところ行き場を失った青年という具合だな。実にわびしい」


 明日も着替えていない服は数日前の雨の匂いをそのままに乾いていた。

被ったままでいるフードはそのためだ。

頭も体も、道端の何かの匂いを放っている。

だが俺には頼る何かはない。

何も、もう──。


「──いつかの僕もジョンだった」


 と、男は頬杖のまま言う。

それからまた珈琲と焼きプリンみたいなものを勧めてきた。


「行くところがないならここに居ればいい」


「……は?」


 くくっと男の喉が鳴り、煙草がじりりと燃える。


「そういう時なんだ、ジョン」


 男は語る。

男が俺のような時、この喫茶店の先代の主がそうしたように倣い、なぞると。

解釈すると、この男も行き場を失くしてここに居ついた、という事だろうか。


「これは先代が最初にくれたものと同じだ。味は保証する」


 二階は住処すみか、一階はここ仕事場。三食昼寝付きで給料は幾ら幾ら。目の前の品はアメリカンコーヒーとカタラーナ、セットで八百円。


「……何が、目的?」


 俺は聞いた。

お人好しだけには聞こえなかったからだ。

先代の人はこうだったからと言って、俺が倣いなぞる必要はない。

すると男はにぃと笑い、煙草を灰皿に潰した。

生き残りの煙が静かに揺れて消えていく。

こんな美味い話は早々ない。

警戒はまだ続く。


「目的、ね」


 男は人差し指は立てる。


「一、単純に人手ひとでが欲しい」


 従業員は男以外にいないと言う。


「二、人間がいると都合がいい」


 中指も足して立てる男の理由に顔をしかめる。


「人間って……いるじゃんか」


 俺も人差し指、と思ったが人に指を向けるのは失礼か、と手のひらを上に男を指した。

しかし男は続けて三本目の指を立てる。


「ここに人間は君しかいないよ、ジョン」


 瞬間、そう、またばきは一度だけだったと思う。

その間に男は、居なくなっていた。

いや、違う人が座っていた。

着ていた服、シャツに黒いエプロンはそのままの、女、が居たのだ。


「……はぁ」


「あら、叫ばないのね」


 言葉遣いも女のそれ。

でも目は変わらずクリームソーダの碧の色だ。


「……魔法使いのたぐい、とか?」


「残念ながらそんなに良いものじゃないわ。端的に言うとこうかしら──」


 ──


 まだ三の指は作られたままだった。

俺は少々はやい胸を落ち着けるためか、手を付けないはずだった珈琲のカップを手に取ってしまった。

またばきのように無意識にだ。


「三、私はこの店を続けたいだけなの。その半分を預ける人間が欲しいのよ」


 馬鹿みたいな話だった。

馬鹿みたいに、珈琲が美味かった。

一番馬鹿なのは、あまり驚いていない自分だった。

そして女はカタラーナのスプーンを取ると、ひと口分をすくった。

固そうでやわく、やわそうで固そうなそれを俺に向ける。

これは誘惑、最後の試し。

乗るから反るか──反ったら、きっとこの化け物は俺を帰さない。

短い爪が光って見えた。


「……ジョンは嫌だ」


 そう言ってフードを取った俺は、そのスプーンに食らいついた。

甘い味にくらりときたのはすぐで、女が男に戻──のもすぐだった。


「おーけい。まずは風呂だな、


 ぼさついた俺のグレイアッシュの髪を男はぐしゃりと撫でた。

立ち上がった男はすらりと背が高かった。

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