遺影

あべせい

遺影


 

「アレッ、あれは……」

 おれは、テレビを見ていて、思わず、画面を指差した。周りにだれもいないのに、だ。

 妻が亡くなり、3LDKの住まいが広過ぎると感じている。

 テレビには、見覚えのある女性が映っていた。

 しかし、テレビカメラがとらえている彼女の背景は、立川の駅前だ。おれが知っている彼女は、豊島区池袋の病院にいる。

 彼女は毎日、立川から池袋まで通勤しているのか。通勤できないわけではないが、距離にして約40キロ、時間にして1時間余り。しかし、時刻はいま午前11時20分。

 入院中、妻が世話になった看護師にお礼を言いがてら、病院を訪れたのが、きょうの午前10時10分。その時刻までは池袋の病院に彼女はいた。池袋から立川まで75分で行ったことになる。

 彼女は夜勤明けだったのか。しかし、それにしても、着替える時間や駅までの徒歩の時間を加えれば、おれが彼女を見た直後に、彼女は病院を出て立川に向かったことになる。

 それとも、テレビに映っている女性は他人の空似? テレビ画面には、隅っこだが、まだ彼女の姿は映っている。

 彼女は雑貨店の店頭で、いまは背中をカメラのほうに向け、商品を選んでいるようす。もう一度、こちらに顔を向けてくれないか。

 テレビは、「あさの街角ナウ」という生放送の情報番組だ。

 東京ローカルのテレビ局だから、視聴率が低い分、番組は勝手なつくりが出来る強みとおもしろみがある。当然ミスも多いが、ミスには慣れっこなのだろう、少しも頓着しないで放送を続けている。

 いまも、名前すら知らない、2人の若い芸人が、道行くひとをつかまえ、街頭インタビューを試みている。

 妻が重い病で亡くなって2ヵ月。もうすぐ、2度目の月命日がくる。

 あの看護師、名前は、「細居貞未(ほそいさだみ)」といった。

 妻の病室担当だったが、おれは彼女について、胸に付けていた名札以上のことは何も知らない。しかし、親身に妻を看てくれ、心に響くさまざまなアドバイスをくれた。

 おれは、彼女が3階の妻の病室に入って来る度に、昔よく言われた「白衣の天使」ということばを思い起こしていた。

 彼女は、私的感情をまじえず、損得を考えずに、余命わずかな妻に献身的に尽くしてくれた。

 個人的に、彼女にお礼をしたかったが、病院のルールで品物は一切受け取らない。

 それなら、食事に誘おう。妻の葬儀をすませ、妻の遺品を整理してひと月がたった頃、強くそういう感情にとらわれた。

 しかし、どう連絡をつければいいのか。住所はもちろん、電話番号も知らない。それからひと月がたったきょう、彼女を誘いたくて、彼女が詰めていた3階の看護室を訪れた。

 そうした邪心がいけなかったのか。看護室から出てきた彼女に出くわしたのに、おれは、「ご無沙汰しています」の一言しか言えなかった。

 彼女にそのことばすら伝わった確証はない。彼女はおれをチラッと見たきり、急いで階段を降りて行った。

 病院から帰宅して、何気なくつけたテレビに、彼女としか思えない女性が映っていた。

 彼女は立川に住まいがあるのか。それとも、用事があって立川に行ったのか。

 ……芸人コンビが、後ろ向きの彼女に近づいていく。

「お買い物中、恐れ入ります……」

 2人のうち、帽子をかぶったほうが、後ろから彼女に声をかけた。

 彼女は声をかけてきた芸人を、無言で振り向いた。

 やはり、彼女だッ。はっきりした、涼しい眼元をしている。

「この立川のみなさんに、きょうの夕食は何を召しあがられるのか、うかがっています。奥さんは、いかがですか?」

「今夜は外で約束が……」

「そのお店では何を注文なさるンですか? お決まりでしたら、お願いします」

「お連れの方にお任せしています」

 彼女はそう言うと、視線を芸人からカメラにチラッと送ってから、駅の反対方向に立ち去った。

 彼女は夜勤明けだ。すると、明日は休み。今夜はゆっくりくつろぐのだろう。

 約束の相手とは? おれは急に気になり出した。いますぐに立川に行きたいッ。しかし、いまから彼女に追いつけるわけがない。彼女の勤務先がわかっているのだから、会おうと思えばいつでも会えるのだが。

 そのとき、何かを感じたおれは、いまいる寝室のドアのすき間から、隣のリビングを見た。

 リビングのドレッサーは、妻の遺品だ。処分できずにいる。妻が毎日、その前に腰掛けて化粧をしていた。

 おれは、あの看護師に恋しているのか。妻が亡くなって、まだ2ヵ月足らずというのに。不謹慎だろッ! 妻が悲しむと思わないのか。

 細居貞未は、人妻かも知れない。例え、独身でも、すでに婚約者がいるかも知れない。おれは、なんという能天気だ。

 いや、これは妻を亡くしたショックが、通常ではありえない心理状態を作り出している。そうに違いない。

 本心じゃない。まともな人間が、連れ合いの死から、わずか2ヵ月で、異性に恋愛感情を持つわけがない。すぐに目が醒める。

 例え、異常な行動に突っ走っても、それは一時的なもの。すぐに正常に復する。気にすることはない。おれは、異常性格者ではない。真っ当な、社会人だ。

 そう自分に言い聞かせた後、この3連休の間に彼女に接近する、うまい方法はないかと思案した。


「ご無沙汰しています」

「……あァ、あのときのご主人……でしょう?」

「はい。その節は、妻の通子(みちこ)がたいへんよくしてもらって、感謝しています」

 おれはそう言って、コーヒーを飲んでいる彼女の向かいに腰掛けた。

 病院の地下にある食堂だ。職員だけでなく、外来の患者、入院患者の家族、さまざまなひとが利用している。

「エー……」

 あれから2ヵ月がたっている。覚えているわけがない。

「東多哲二(ひがしだてつじ)です。役所勤めの……」

「東多さん。失礼しました」

 貞未は、そう言ってニッコリした。笑顔も実に美しい。労働のきつい看護師に、どうしてなったのだろう、と考えてしまう。

「きょうは夜勤明けですか?」

「いいえ、きょうが夜勤です」

 時刻は午後4時を過ぎている。夜勤は午後5時から翌朝の8時半までと聞いている。

「東多さんは、お見舞いですか?」

 あなたを口説きに来たンだ、とは言えない。

「入院費の支払いで、払い残しがあったものですから……」

「奥さまのご入院では、かなりの費用がかかったのでしょう?」

「幸い、妻がこっそり蓄えをしてくれていたものですから、助かっています。それより、ここで細居さんにお会いしたのでお窺いしたいのですが……」

「なんでしょうか?」

「わたしのような男をロストシングルと呼ぶそうなンです……」

 貞未は知っているのだろう、深く頷く。

「パートナーを亡くしたショックで、心が不安定になる方が多いと聞いています。わたしもそのひとりなのですが、こちらに、そうしたロストシングルの心のケアをしてくださるところはないでしょうか?」

「心のケアですか?」

 貞未は、おれを見つめた。おれの心の底を見通すような鋭い眼だ。

「ロストシングル専門ではありませんが、心療内科なら東多さんをお世話できると思います」

「いい先生をご存知ですか?」

「いい、っておっしゃいますと……」

「細居さんのように親身になって、患者の気持ちに寄り添ってくださる先生です……」

「わたし、循環器科ばかりなので心療内科はよく知らないンです。でも、心療内科に親しい看護師がいますから、聞いてみましょうか?」

「お願いします」

 おれは、本当にありがたく感じ、自然と頭が下がった。彼女は、すばらしい女性だ。こういう女性を離してはいけない。おれは、強くそう思った。

 翌々日、貞未からおれの携帯に電話が入った。前回、病院の食道で会ったとき、互いの電話番号を交換していた。彼女は警戒せずに、応じてくれた。

 再び、病院の地下食堂で彼女に会った。

 午後1時半。この日は、彼女の勤務日で、1時間の休憩がとれる。

 こんどは約束していたのだから、遠慮はいらない。おれは、すでに妄想をたくましくしていた。

 彼女は心療内科の看護師から聞いた話として、ひとりの先生を紹介してくれた。人柄がよく、患者に親切ということだった。

 おれは、外来の診察日と受付時間を確認して、本当に受診する気持ちになっていた。彼女に会うまでは、適当に返事したやろうと思っていたのだが……。

 そのあと、おれは彼に、休みの日は、何をしているのか、趣味は何かなど、プライベートなことを尋ねた。彼女はいやな顔をせずに、すらすらと答えてくれた。

 彼女が仕事に戻る時刻になり、別れ際、「これからも会っていただけますか?」

 この一言が言いたくて、おれはのこのこ病院にやって来たンだ。その思いが強かった。

「ええ。ただ……」

 彼女の表情が陰った。

「ただ?」

「看護師の勤務は不規則ですから、時間をとるのが難しくて、突然お断りすることもあるかと思います」

「それは覚悟しています。お仕事最優先で……」

 こうして、おれと細居貞未の交際はスタートした。

 しかし、都合よ過ぎはしないか。おれは、そのとき、気がつくべきだった。


 貞未とつきあい始めて2ヵ月余りになる。この間、貞未の勤務に合わせる形で、デートは5回。昨夜初めて彼女の2DKのマンションに行き、男女の関係をもった。

 貞未は積極的だった。初めてではない。

 ところが、おれが帰ろうとして玄関に行き、ガウン姿の彼女が後ろから追いかけてきたとき、キーロックを外す音に続いて、ドアが外から開いた。

 その瞬間、おれも彼女も固まった。

 現れたのは、作業衣を来た30前後の男。彼は玄関にいるおれに気がつき、

「ごめん」

 と言い、すぐに後戻りしかけた。

「いいのよ。この方、福祉のひと。この前言ったでしょ。母の介護のことで相談にのってもらっている、って」

「そうなンですか。それは、どうも……」

 何がどうもだ。おれは役所勤務だが、福祉課じゃない。住民課だ。

 しかし、彼女のこの気転はなンだ。時刻は午後7時少し前。おれは役所帰りだったから、スーツを着ていた。

「ぼくは、貞未の兄です。ちょっと近くまで来たものだから、妹の顔を見にがてら、夕食を一緒にしようと……」

 彼はそう言い、手に提げているレジ袋を示した。弁当のようだ。

 何が兄だ。彼女の気転からすれば、何者か、わかったものじゃない。

「私は用件がすみましたので、いま帰るところです。細居さん、お邪魔しました」

 おれは、後ろ向きにそう言い、彼女の兄と入れ違いに、玄関ドアから外に出た。

 ドアを閉めた直後、

「ケンちゃん、遅かったわね。さびしかったわ」

 と、ドア越しに貞未の華やいだ声が聞こえた。

 彼女の「兄」は、彼女以上に気転が効くようだ。

 しかし、彼女の「兄」は、おれが福祉課の役人だと信じただろうか。わからない。わからないが、ドア越しに、

 貞未の声が、

「いやな役人なの。自宅には来ないでくださいと念を押したのに、近くまで来たので寄りました、って、勝手なことを言って。明日、福祉課の課長に苦情を言ってやるッ」

 と届き、おれのハートをグサリと切り裂いた。

「貞未、声が大きいよ」

 彼女の「兄」のその一言で、それっきりドア越しには、何も聞こえなくなった。

 確かに、彼女は当初、マンションにおれを連れて行くことを渋った。

 しかし、おれはこだわった。彼女の住まいを見れば、男がいるかどうか、わかると思ったからだ。

 結果的には、おれは見誤ったことになる。彼女には決まった男がいた。おれは、ロストシングルだ。

 しかし、彼女はなぜ、おれの誘いにのったのか。おれは、彼女が独身女性だと思ったから、誘った。

 結婚する、しないにかかわらず、最初から一緒に暮らせない女性とつきあう気持ちはない。もうそんな年齢でもない。老年を前にして妻を亡くした男の光景は、余りにも淋しい。いつまで生きていられるか、わからないが、無駄な時間は過ごしたくない。

 細居貞未とは会わないことにする。土曜日の今朝、目覚めたとき、そう決心した。

 しかし、そう思うと、きょうの休日が実につまらなく見えてしまう。

 こんなことになるとは知らず、昨晩、貞未と約束した。

「明日、早番なので、午後3時に勤務が終わるの。あなたの奥さんのアルバムを見せて欲しいわ。前からの約束でしょ」

「なら、明日、午後2時、駅に迎えに行く。ぼくの家まで案内するよ」

 バカな約束をした。

 時刻は午後1時を少しまわっている。

 このまま駅に行かなければ、彼女と会わずにすむ。絶縁できる。

 逆に、彼女に会うとしよう。

 この家に妻の知らない女性を入れることは、どうなのだろうか。近所の住人はどう思うか。妻が亡くなったことは町内会に知らせていない。だから、知っている住人はいないはず。しかし、妻の姿を最近見かけないと不審に思っている者は、幾人かいるだろう。

 近隣で親しくつきあいをしている住人はいない。貞未のことを聞かれれば、セールスか何かで来た女性と言えばいいか。

 おれは、すでに彼女を迎え入れることを考えている。ダメだ。彼女には男がいる。昨晩、それを知ったばかりじゃないか。

 いや、あれは、聞き違いだ。彼女はそんな不誠実な人間じゃない。病院の仕事ぶりを知っているじゃないか。ひとが見ていないところでも、誠実に仕事をしていた。おれは、この目で何度も見ている。それで心引かれたのだ。

 もう一度、会って、昨晩の「兄」について、確かめても遅くない。そうだ。それがいい。せっかく約束したのだから。

 彼女に会わずにこのまま別れるなンて、おれには出来ない。

 時計を見て、自宅を出た。その前に、彼女に出すコーヒーを準備して。彼女がきたとき、飲ませようと、コーヒー豆専門店で購入したインドネシアのコピ・ルアック、6杯分1500円の高級品だ。


「どうぞ、入ってください」

「失礼します」

 おれは、貞未の体を後ろから隠すようにして、細く開いた玄関ドアの間から、彼女を入れた。幸い、道路に隣近所の住民の姿はなかった。

 帰りは暗くなっているだろうから、見られる恐れは少ない。

 玄関ドアを閉める。

 とたんに、そこは2人だけの空間になった。

 その瞬間、おれの理性は弾け飛ンだ。貞未を両手で強く抱きしめ、唇を奪った。彼女もそれに応える。

 どれだけ時間がたったろうか。おれはそれ以上の行為に及ぼうとする。彼女も、そうなのだろうか。貞未の顔を見た。

 その背後に妻が……。幻覚や錯覚ではない。妻の遺影だ。その角度から見えるはずのない遺影だ。微笑んでいる妻の美しい顔写真。その笑顔が、いま苦痛に歪んでいる。

 ダメだ。妻のいるこの家に、他の女性を入れることは、罪だ。大罪だ。

 頭脳に、妻のさまざまな肢体が次々に浮かぶ。おれは妻の呪縛から解き放たれていない。

 いや、それを望んでもいない。妻だけでいい。まだ、おれには妻がいる。

「貞未さん」

 おれは彼女から体を離し、リビングに入った。彼女もついてくる。

「なァに?」

 貞未は、リビング中央にあるテーブルの前に腰をおろし、おれを見上げる。

 美しい。実に美しい。昨夜の悩ましい彼女の肢体がよみがえる。もう一度抱きたい。しかし、ここは妻との住まいだ。許されない。

「ぼくたちは、もう……」

「もう? どうしたの?」

 おれは、彼女のふくよかな体に、全身を飲み込まれているのを感じる。

「昨夜の……」

 あの男は何者だッ。「兄」なンて、ウソッパチだろうッ! そう、口まで出かかった。

「ことは、いい思い出にします。ですから、これからは……」

「よくわからないわ。あなたの言っていること。それより、奥さまはどちら? ご挨拶がしたい……」

 そう言って、彼女はリビングから通じる寝室のドアを開けようとする。

「そこは、貞未さん……」

 壁に妻の遺影がある。いや、黒いリボンは外してあるから、妻の顔写真だ。

「あらッ……」

 貞未は、2つのベッドの間を進み、妻の写真の前に立ち止まった。

「奥さま、わたし、昨晩、ご主人にウソをつきました。わたしには、すでに結婚を約束した男性がいます。それなのに、一度きりとはいえ。ごめんなさい。あのあと、彼からひどい暴力を受け、この始末です……」

 貞未が、ワンピースの袖をたくしあげる。醜いあざが。

「貞未さんッ!」

 おれは、背後から彼女の体を強く後ろに引き戻し、一気に寝室から連れ出した。

 そして、もう一度彼女に強くキスした。もう、おれを止めることはできない。

                     (了)

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遺影 あべせい @abesei

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