ブレイン(ハンド)ウォッシュ

松原レオン

0.独房で悪魔と契約しました

 ——チャンスをやろうか?


 その時少尉は、汚い床の小便の池に沈んでいた。鼻息で泡立つアンモニア。額の傷から落ちた血がすっかり冷えた池に落ちる。

 後ろ手で拘束された箇所はすっかり鬱血し、そろそろ暑さで腐りそうだ。

 ネズミが隠れもせずに走る姿を見ながら、やっと脳みそがおかしくなったのだと思った。


 男の声をしたそれは黒くてボヤけて、背丈もあってずいぶんと細かった。

 そしてそいつは看守の制服を着ていなかった。そもそも人間なのかも疑わしかったが。

 蜃気楼のように無邪気に揺れるそれを、殴られて腫れ上がった瞼の隙間から眺める。 

 泥酔者のように近づいてくるそれに、思わず笑った。その振動で折れた肋骨が痛み、抜けた歯の隙間から息が汽笛のように漏れた。小便が波打つ。先人たちの血が染み付いた床とネズミの糞。


 ——ならば、あれは悪魔だ。


 悪魔から出向いてくるに値するほどのことをした自覚はある。おまけに改心する気もない。良い奴ほど早く死ぬ。それが我が国のルールだ。

 しかし、もうやめるべきだと良心に従った。はした金で続けてられっかビックダディ。その結果がこれだが悔いはない。

 まさに善行、もう天国行きの切符ぐらい貰ってもいいだろという気にもなっていた。

 だが神は厳しいらしい。いやむしろ優しいね。


「そりゃあいいね」

 小便の塩味。味を感じるのは久しい。土埃と血が浮いた小便。腹部を膝で蹴り上げられた時に失禁したものだが、いつのことだったか。


 ——お前はそれで何をしてくれる?


 皮膚が炭化した生焼けの死体。

 焼き上がった両目に見つめられる。

 その子のせいだ。こんな豚小屋に押し込められたのは。

 彼女と話したことはもちろん無い。でもその子の住所もスリーサイズも知っていた。少しお尻の方が大きかった。それが豚の好みだった。

 なれば頑張れることはただひとつ。


「あのデブのケツを地獄に送ってやるよ」


 悪魔は両手を叩いて笑って喜んだ。むしろ笑い過ぎて呼吸もままならないようだった。


 ——よろしい。契約成立だ。

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